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【日々雑記のはじめ】

この4月に、10年間所属していたエージェントから独立した。
それまで月1のペースでエージェントのサイト内でエッセイを書いていたのだが、それも終えることになったので、今後どういう形でフリーで読めるエッセイをアップしようか考えていた。
ブログなども調べてみたけれど、けっきょくこれまでたまに書いていたnoteで、新しいマガジンを作っていくことにした。

noteというとある程度長いものを書きたいと思ってしまうあまり、間が空いてしまうので、【日々雑記】と銘打つことで、文章の長さや重さに関係なく、ちょっとしたこともさらっと書ける場所とする。

そういえば、ある霊能者の人に「前世で瓦版を書いていた」と言われたことがある。
「長いものよりも短いもののほうが向いているのよね〜」
いや、でも長いものも書かなくちゃならんのです。
自分としても、長いものを書くのが好きなんですけど。
心の中でそう思いながらも、まあ、たしかに短い駄文を書くのってレジャーだよね、と納得した。
苦痛がない。ただ、楽しいだけ。
そういうノリで、ここでは書いていければ。

マガジンのタイトルにした『語る者ではなく、語られる話こそ』というのは、スティーヴン・キングの『スタンド・バイ・ミー』のはじめに添えられている言葉だ。
スティーヴンキングを語れる者でもないのだが、この不朽の名作である『スタンド・バイ・ミー』はわたしもたいへん好きな一冊で、よく手に取る。
すべて読み返すわけではない。決まって開くのは冒頭だ。

『なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。それはまた恥ずかしいことでもある。なぜならば、ことばというものは、ものごとの重要性を減少させてしまうからだーー』
(引用『スタンド・バイ・ミー』スティーヴン・キング 新潮文庫昭和62年3月25日発行)

1の章ではこの後にも文章が1ページほどあり、2の章から少年時代の物語がはじまるのだ。

『スタンド・バイ・ミー』は著者の自伝的な小説でもあるので、おそらく1の章は、著者の書き手としての原点なのだろうと思う。
原点というのが適切かわからない。
物語を作り出す爆心地、と言ったほうがしっくりくるか。
どういうことが書かれているのか、それはぜひ読んでほしいし、ではないとわたしの拙い文章では言い表せないほどなのだが、言葉の非力さ、というものに言及しているのだと感じている。(違うかもしれません……)
世界的なベストセラーとして君臨し続ける著者の、この文章は深い。そして重い。

物書きとして足元どころか爪先にもひっかからないわたしだが、この文章を読んだ時に、「そうなんだよ。本当に、本当に、そうなんだ」
と胸をつかれた。

言葉というのは、口に出した瞬間、文章にした瞬間に、本当に言いたいことというのを小さくしてしまう。
頭の中で思い描いていることや、心で感じていることは、たいてい輪郭を持っていない。グラデーションのように広がっているものだ。
それを言葉にすることは、つまり輪郭を描く作業のように思う。
だけど、真に大事なことは、グラデーションの部分なんだろうとも感じていた。
人間の考えることや、感じることは、単純に区切られているものではない。
曖昧で、茫洋としていて、宇宙みたいに限りがない。
ふとした時に広がったり爆発したりする制御不能なものであったり、ともすると消えてしまいそうなほど繊細なものだったり。
説明がつかないものも多い。
それを言葉にすることなんて無理なことなのだとわかりながら、それでも書いてみたい、読んでみたいというのが、人間の無謀な欲求なのだろうと思う。
無謀だとわかっていながらすることは、得てして刺激的だ。

だから『スタンド・バイ・ミー』の冒頭の文章にしても、きっとわたしは、著者が『なににもまして重要だというものごと』というものが何なのか、きっと理解できていない。
それでも、その文章はわたしの中でグラデーションとして広がっていて、

そう、読むたびに、
「言葉」というものの非力さと同時に、「人間」への畏怖を感じる。
小説を書いている者として迷ったときには、この文章に立ち返るようにしている。


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