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絶望という感情の中にある、豊かさ

昔、私は癇癪持ちの子供だった。
最近まで忘れていたが、
(思い出す必要も無かったからだと思う)
親からは「良い加減にしなさい」なんて
癇癪を起こす度に呆れられていたし、

三つ子の魂百までということわざだけで
何よりも、幼いながらに私自身が「このままだったらどうしよう」
と不安になってしまうくらいだった。


幼少期、
気に入らない事があればすぐに大泣きをして
手足をバタバタさせて
どうにもこうにもならず
泣くのがおさまるまで
外に閉め出されたこともある。

(泣き止む頃に父がアイスを黙って持ってきてくれて仲直りした思い出)


お母さんに憧れて口紅を塗り
顔中真っ赤。
自分でやったのに上手く行かないことに泣く。

ごめんなさいで済むのに
頑固になって嫌だと泣き喚く。


理屈なんかじゃなくて感情に素直だったな
と数年経ってから自分に学ぶ瞬間がある。


あなたの話に共感するのではなくて、あなたの話に共鳴する


私の仕事は、結婚式を作っているのだけれども私はただの結婚式を作っているだなんて思っていない。人生の通過点、人生のハイライト、それをキッカケに“人生が変わるほどの体験”を作っている。

どんな仕事をしているかはこちらから。



面会や、何気なくお客様と会話をしている時、毎日、沢山の感情に触れる。

2人で生きてゆくという決心をして、前を向く。


思い出を聞いて、体験したこと、見てきたもの、好きなものの話…

そして幸せな今を聞いて
どんな2人になりたいかと未来の話をする。

なぜ2人は一緒にいるのか
なぜ結婚するのか
なぜ結婚式をあげるのか。


私は、会話の中で相手が話した一言が
強烈なインパクトとして残る時がある。

記憶力は良い方ではない。


でも、何かその一瞬を動画として切り取ったように鮮明に覚えてしまうシーンがある
(意図的ではないので、しまうというのが適切な気がする)

普段の生活でもそう。それは不意にやってくる。


話していた口調、仕草、顔の表情。


涙することも多い私は共感性が高いとよく言われるが、
相手に憑依しているのではなくて、
相手の想いに私が触れて、
そこから自分の感情にリンクし、アウトプットされる感覚。

共感するのではなくて共鳴しているのだと思った。
結局はどんな時も自分のフィルターが通っている。


私はその人にはなれないし、
全く同じ感情でいることは出来ない。簡単に「解ります」は言えない。


もっとこの人を知りたいと思う興味と
わかるところまで近付きたいという衝動。


私が人生でどんな経験をしてきたか、でその人が伝えたいことの
1からどこまで感じられるかが決まる。

100受け取れることもあるかもしれないし
全く受け取れずに0の時だってきっとある。

感情の振れ幅が広ければ広いほど
きっと相手を感じられる部分が多くなる


絶望だって、喜びだって、極端かもしれないが
実は表裏一体のそれを知っている人は、強い。



数日前、とても悲しい出来事があった。
泣き喚くことはしなかった。
ただ、ただ振り返らない様に 遠ざけている。

悲しさに付き合っている暇はないのだけれど

もう少し、時には感傷に浸ってみても良いのかもしれない。

それでも浸るのはカッコ悪いと平然として居られるのは
ああ真面目で不器用だなあなんて思う。


それでも、悲しいを経験したから
人に優しくできる。
楽しい気持ちを知っているから
楽しもうと行動する。
辛い経験をしたからこそ
立ち直れるということを知っている。


味わった感情の幅で、見える世界のレイヤーは深まる。


人生どんなことも無駄じゃないと、

私は心の底から思っている。

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