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考えるという行為

生きていると嫌でも色々なことを考える。

楽しいこと、悲しいこと、自分のこと、他人のこと、

仕事、お金、友達、健康、好きなあの子のこと。

考えるためには頭を使うので、結構疲れる。

悩んでる時は心も使うので、もっと疲れる。

ただ、以前から薄々勘付いていたが最近確信に変わったことがある。

僕は「考える」という行為が好きだ。

問いに対して
「どういうことだろう?」
「あれ、こうなんじゃない?」
「こっちの可能性もあるなぁ」
とあれやこれやと思索を巡らせることが好きだ。

その問いは正直なんでもいい。

「考える」という行為そのものが好きだから。

「何を」はあまり関係ないのだ。

これはもう、性癖というかなんというか、理屈でどうこう言えるものではないことにも気づいた。

好きなものは好きなのだ。

だからきちんと自覚し、自認してあげることにした。

でないと先に進めない感覚があった。

「考えるだけで行動しないのは意味ない」という指摘。確かに正しい。

「考えるよりも感じろ」というアドバイス。確かに正しい。

「考えすぎてしまう」という癖。確かに直したい。

ただ、「考える」こと自体を辞めたり、諦めたり、疎かにする理由にはならない。

ましてや、「考える」ことが好きなことを否定する材料にもなり得ない。

主体的な「考える」という営みは、僕の人生を豊かにし続ける。

「考える」ためには問いを見つけ、思考の材料となる経験が必要だ。

そのために行動をする。

行動するために考えるのではない。

考えるために行動するのだ。

じゃ。




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