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エッセイ「クリストファー・ノーランの話」

クリストファー・ノーランの最新作「テネット」が、この情勢にも関わらずヒットしているようですね。日本でも、もうすぐ公開なので楽しみです。

「テネット」の公開を控え、日本でもノーランの過去作品がIMAXで上映されています。先日は僕の大好きな「インセプション」をIMAXで鑑賞するなどしてきて、大スクリーンで好きな映画を見ることが出来て大変満足度の高い時間を過ごさせていただきました。

レオナルド・ディカプリオさんと渡辺謙さんがむちゃくちゃかっこいいし、「007」シリーズが大好きだというノーラン監督がスパイもののエッセンスを遺憾なく発揮していて、とても見ごたえのある作品だと思います。後述しますが、複雑かつワクワクさせるストーリー展開と同時に、ドラマがしっかりと描かれているのも映画としてたいへん完成度の高い点だと個人的には評価しています。

よくよく考えてみれば、単館系の上映企画以外で、特定の”監督”作品を特集してリバイバル上映するというのは、すごいことなのではないでしょうか? 映画ファンのみならず、少し映画をかじった人であればクリストファー・ノーランという監督の名前が無視できないものになってきているということは注目すべき現象のように感じられます。

実はこの現象はクリストファー・ノーラン自身が意図的に仕掛けてきているのではないか? という陰謀論めいたことを、「インセプション」を見て、またそれ以降の作品の傾向を鑑みて、少し勘ぐったことをTwitterに投稿しました。今回はそれを備忘録的に多少加筆修正して投稿しようと思います。

”注目”される映画監督、クリストファー・ノーラン

※ 以下、Twitterの抜粋(修正&加筆)

「インセプション」、まだノーランにギリギリドラマを作劇しようという意志があった作品に思われる。コブという男が、愛する女の記憶から立ち直る話に情感があった。その後の映画からはもう設定とストーリーテリングの人になってしまい、映画としてはすごいけど僕好みの作品を撮る監督じゃなくなっちゃった印象。(実は筆者は、「ダークナイト・ライジング」以降のノーラン作品には、ドラマ感があまり感じられなくて、そんなに好みではない。)
「ダンケルク」で露呈したように、ハッとさせるような画の力で見せる監督ではないと思うので、ディカプリオというスターの起用が「インセプション」には大きく貢献していたように感じられる。画面が映えるし、ドラマも映える。この『映え』というのが重要で、要は華やかなので映画がリッチに見えるのだ。個人的な見解として、映画はリッチなものであった方がいいという信条があるので、この『映え』て見えるというのは僕にとって重要なファクターなのである。
「インターステラー」のマシュー・マコノヒーも悪いわけではなかったが、やはりマット・デイモンのサプライズ登場のキャッチーさに押され気味な部分があったことは否めなかったし、よくも悪くもただのおっさんという役柄だったので「インターステラー」には画面に『映え』がなかったように思う。
世間で評判になっている「インターステラー」の宇宙描写のすごさに関しては正直いまひとつ懐疑的で、「リアルだからなんなんだ」という感想を持っている。キューブリックの「2001年宇宙の旅」では、リアルさを追求した上に「芸術的に撮ってやろう」という『映え』に対する意欲が随所に感じられるが、「インターステラー」にはそれほどの意思がないように思える。
一方でスーツや建物や乗物、小物などの美術に対するディティールへのこだわりは一貫して見られ、これが世界観の統一や小綺麗さに寄与していることは間違いない。これはカッコイイ。しかしこれはあくあまでディティールを補完するものであって、画的な効果は副次的なものであることを忘れてはならない。
「テネット」では予告編を見る限り、相変わらずディティールに対するこだわりは見られるものの、ジョン・デヴィッド・ワシントンという俳優の起用が吉と出るか凶と出るか、これは見てみないとわからない。が、これまでの『映え』理論からするとあまり映画にはいい効果を及ぼさないような気がする。
そう考えると「ダークナイト」の成功はやはりアカデミー賞を受賞したヒース・レジャーの『映え』があってこそのものだったのではなかっただろうか。ノーランは設定とストーリーテリングの力を過信せず、もっと役者のスター性に頼ったほうがいい映画を撮ってくれる気がした。
まあこれは限りなく邪推ですけど、役者の力に頼らずに自分の世界観を設定力とストーリーテリング力でなんとかしたいという自己顕示欲の現れかもしれませんけどね。「インセプションがいい映画だったのはディカプリオのおかげじゃなくて監督である俺の実力だ!」みたいなね。

以上、抜粋終了。

というわけで、もしかするとクリストファー・ノーランは意図的にスターの起用を避けて、自分の演出力で映画をすごいものにのしあげる野望を持っているのではないか? とも考えられる傾向が最近見られるんじゃないかと思った雑感をつらつらと書いてみました。

なんかこう、「ドラマ性」と「スター性」と「映え」の要素がとっちらかっていて、もうちょっとうまくまとめられるような気もしていたのですが、なかなかうまく頭の中の考えがまとまりません。この3要素は独立して語られるものではなく、相互に作用しあって効力を発揮するものだから、腑分けして理論立てて語ることがたいへん労力を有するからです。

「インセプション」は。上記3要素がすごくうまく絡み合った作品なので、僕は大好きなのです。

そろそろお眠の時間が近づいてきているので、話が整理できたらまた続きは書こうと思います。

2020年8月31日

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