【治承~文治の内乱 vol.51】菊池隆直の乱の勃発
列島各地で起こった反乱
治承・寿永の乱で反乱を起こした勢力はなにも頼朝や義仲、甲斐源氏といった源氏方勢力ばかりではありませんでした。そして、反乱は東国ばかりではなく、西国をはじめとする列島各地で起こりました。
これは治承・寿永の乱に起きた、頼朝・義仲・甲斐源氏の反乱以外の主なものを表したものです。
この中には近江源氏や美濃源氏といった源氏の名のつく勢力もいますが、九州では菊池隆直・緒方惟栄といった勢力が、四国では河野氏など源氏ではない人々も反乱を起こしました。また、熊野の勢力や南都(奈良)の大衆といったものは宗教勢力です。
このように治承・寿永の乱は単に平氏v.s.源氏といった構図に当てはめられない内乱で、様々な勢力が反乱を起こし、様々な階層の人々が多かれ少なかれ内乱の影響を受けたため、従来の「源平合戦」や「源平の争乱」といった二大武士団の対立という側面だけに照準を合わせた呼ばれ方は実態にそぐわず適切ではないとされてきています。
ということで、今回の話はさきほど載せた地図の肥後国(現在の熊本県)で起こった「菊池隆直の乱」についてお話ししたいと思います。
筑紫の反乱
『玉葉』の治承4年9月19日条にこのような記事が登場します。
伝え聞いたところによれば、筑紫にまた叛逆の者がありと。清盛は私的に追討使を遣わしたという。
このなかにある筑紫というのは、九州、主に北部にあたる地域を指します。九州は平家がそれこそ清盛の祖父・正盛、父・忠盛と代々経済基盤を着々と整え、平家の確たる勢力圏の一つとなっていた地域ですが、そこで反乱が発生したということは平家にとって驚きをもって受け止められたに違いありません。
とはいえ、清盛はこの事態に際して、九州の大宰府や平家の家人となっている者のもとへ使者を送って詳細な状況把握と対応指示にとどめた可能性が高いです。『玉葉』には清盛が私的に追討使を派遣したと記されていますが、この時軍勢が編成されて派遣されたということを他の史料で確認できない上に、隆直の反乱はしばらく収まらずに続いていくので、清盛はこの時九州での反乱が大宰府の持つ公権力や現地の家人たちで十分対処できるとふんで、それよりも、これに先立つこと9月上旬に伝わってきていた坂東の反乱(頼朝の挙兵)の対処にまずは注力しなければいけないと考えていたのかもしれません。
そしておよそ2か月後の11月17日。『玉葉』にはこのような記事が記されています。
また鎮西の賊(菊池権守)は、これといった理由なく恩免(情けによって許されること)になったという。
11月に入っても筑紫の反乱は依然として続いていて、大宰府や現地の平家家人で抑えることができずにいたことがこの記事でわかるのですが、そればかりか朝廷はこの反乱者を許してしまっています。
これは11月上旬に東国の反乱鎮圧のために派遣した東国追討使が都へ逃げかえってきて、勢いに乗った東国の反乱者が美濃国にまでせまってきているらしいとまで伝わってくるに及んで(『玉葉』治承4年11月12日条)、いよいよ東国の反乱がのっぴきならないものになってきてしまっていたからでした。
また、筑紫の反乱を起こした人物が「菊池権守」であると、この記事でようやくわかります。この「菊池権守」というのは菊池隆直という人物のことで、隆直は肥後国(今の熊本県)北部の菊池郡(今の菊池市の大部分、山鹿市の一部、菊池郡)を中心とした地域を本拠として勢力を拡げていました。
菊池隆直の勢力
具体的に菊池隆直の勢力がどの程度だったのかはわかりません。ですが、彼についた「権守」という官職から彼が在地の有力者であったことはわかります。
この「権守」という官職は国司の1等官である「国守」の権官ということですが、この権官というのは律令制の「令」で定められた定員外で任命されるもので、おおよそその官職に伴う実質的な権限はなく、この隆直の「権守」も国守としての権限はありませんでした。そして、平安末期になると、この「権守」という官職は社会的地位を示す一種の称号のようなものに変化していったと捉えることができます。
どういうことかと言うと、平安末期「権守」は成功(売官の制度)によって得られる官職の一つになっていました。成功は朝廷の行事や公事、御所などの殿舎や寺社の堂舎の営繕など本来公費で賄われるものを自費(私財)を提供して功が成るということなので、財力は当然のこと、またその窓口になる中央(都)の権力者(院・女院をはじめとする皇族、有力貴族)とも人的繋がりを持ってなければできないため、「権守」=「都と人的繋がりを持つ在地の有力者」ということになり、そうした社会的地位を示していると言えるのです。
ただし、「権守」(国司の1等官の権官)だからといって、在国(住んでいる国)の有力在庁官人(国衙の役人)であったかまではわかりません。成功できる実力を持っている人物ならば有力在庁官人であってもおかしくはありませんが断定はできません。
菊池隆直の「権守」が成功によって得られたものか、肥後国の有力在庁官人として名実ともに兼ね備えたものであったかはわかりませんが、当時の隆直は肥後国内の他の有力武士(阿蘇氏や木原氏など)を糾合できる力を持っていたことがうかがえるため、有力在庁官人ではなかったとしても、それに匹敵するもしくはそれを上回る程の実力を兼ね備えていたと見て間違いなさそうです(菊池氏の場合は肥後国に勢力を拡げた過程を考慮すると、有力在庁官人であった可能性は大いにあります)。
エスカレートする菊池隆直の乱
治承4年(1180年)11月に大した理由もなく菊池隆直を許してしまった朝廷ですが、これで乱が収まるはずもなく、翌治承5年(1181年/養和1年〔7月に改元〕)に入ると、いよいよ鎮西(九州)の状況が看過できない事態となりました。菊池隆直が肥後国の有力武士である阿蘇氏や木原氏らの協力を得て大軍勢を催し、鎮西統治の要である大宰府に向けて軍勢を進発させたのです。「鎮西養和内乱」とも呼ばれる内乱の本格的な始まりです。
そして、平家はついに菊池隆直の乱の鎮圧に向けて、平貞能を大将とする追討使を九州へ下向させることになるのですが、この続きはまた別の機会に【中編】としてお話ししようと思います。(中編アップロードしたらここにリンク貼ります)
ということで、今回はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございました。