【菊池氏 vol.4】 肥後国の菊池氏
今回は肥後国内で勢力を拡げる菊池氏についての話です。
ということで、早速菊池氏初代当主とされる藤原(菊池)則隆から見ていきたいと思います。
前回記事はこちらから↓
肥後で勢力を拡げる菊池氏
菊池氏が肥後国にいつごろから勢力を築いていたのか明確ではありません。
現在、肥後国に菊池氏が勢力を持っていた時期が明確にわかるのは、長暦4年(1040年)以降ということです。これは従来菊池氏の氏祖とされた菊池則隆(藤原則隆)が“彼の国(肥後国)の人”と藤原資房の日記『春記』の長暦4年(1040年)4月13日条に記されていることに拠ります。
では、菊池氏がどのようにして肥後国で勢力を拡げていったのか、これもはっきりわかっていません。
もともと古代豪族として肥後国に勢力を築いていたものなのか、それとも京下りの官人として大宰府府官となり、その立場を利用して勢力を築いたものなのか、菊池氏の起源をめぐる諸説、とりわけ藤原蔵規と菊池(藤原)則隆との関係とあいまって定かではないのです。
(蔵規と則隆の関係については前回の最後節をご覧ください)
ただ、菊池則隆やその父とされた藤原蔵規が大宰府府官であったことを考慮すると、それがわかる手掛かりとなり得る事例があります。
それは日向国(今の宮崎県)の島津庄が成立した事例です。島津庄が成立したことについては野口実先生の御研究に詳しいので、それに基づいてお話ししますと、
この島津庄が成立したのは万寿年間(1024年~1028年)で、ちょうど藤原蔵規や菊池則隆が活躍していた時期に当たります。そしてこの荘園を成立させた人物は平季基という者で、彼は現地の豪族ではなく京下りの人物で、蔵規や則隆と同じ大宰府府官(大宰大監)でした。
島津庄は平季基が荒野を開拓して自らの本主である藤原頼通(宇治関白家、道長の嫡子)に寄進して成立したものと伝えられていますが、実際はすでに在地の豪族らの手により、開拓が進んでいた地域だったようです(※1)。
つまり、最初期の島津庄一帯(日向国諸県郡)を開拓した在地豪族が国守からの収奪を避けるために大宰府府官である平季基の権威を頼り、さらに季基は自らの本主で、中央で絶大な権威を誇る藤原頼通に寄進することで島津庄の安泰を図ったというのが実情だったようです。
実際、季基は在地豪族である伴氏(肝付氏)と婚姻関係を結ぶなどして、島津庄周辺の在地勢力を組織していたことがうかがわれますし、一方の在地勢力側も大宰府と摂関家と両方の結びつきを同時に可能にしてくれる季基を領主として迎え入れ、島津庄政所の別当などになることで島津庄の経営にあたったのです。
ちなみに、島津庄はやがて日向国だけにとどまらず大隅国や薩摩国にも庄域を拡げ、南九州随一と言われる約8000町歩もの広大な大庄園へと成長していきますが、それは在地勢力、とりわけ肝付氏の力によるものでした。
さて、そこで話を菊池氏に戻して見てみると、藤原蔵規や菊池(藤原)則隆は島津庄を立庄した平季基と立場や条件が似ています。
藤原蔵規は大宰大監から大宰少弐になり、その子とされる菊池則隆も“大夫将監”と諸系図にあることから大宰少監であった可能性が高く、有力な大宰府府官でした。
そして蔵規は中央権門である藤原実資との結びつきを持ち、則隆も藤原隆家と主従関係であったと『春記』にあることから中央(都)との結びつきを持っています。であれば蔵規も則隆も大宰府と中央権門との両方の結びつきを同時に作れる人物たちだったのです。
繰り返しになりますが、肥後国で菊池氏がどのように勢力を拡大したのかは断言できません。しかし、もし蔵規や則隆が大宰府府官としての立場で肥後国に進出したなら、季基同様、肥後国の在地勢力は彼らを頼みにし、蔵規や則隆らは在地勢力を編成して勢力拡大したということが考えられますし、もし菊池則隆自体が在地の豪族だった場合は、大宰府府官で中央権門との結びつきを持つ蔵規の婿になることで、蔵規の権威を頼み、ひいては中央権門の藤原実資や藤原隆家の権威を頼むことで勢力を拡大していったと考えることができます。
菊池市深川付近に拠点を置いた則隆
熊本県菊池市深川地区には、菊池則隆が館を構えたとされる深川館(菊の池城跡)や則隆の墓といった彼にちなむ旧跡が存在します。
この菊池市深川地区は菊池川中流の河畔(右岸)にあり、菊池川に面した場所には船場と呼ばれる河港(湊)があったようです。
このことから当時の交通は主に水路(菊池川)をメインに使っていたことがうかがわれ、深川館の別称である「雲上城」という名前が運上(官物などの貢納物を都へ運ぶこと)にも通じるということで、この付近の貢納物の集積場所にもなっていたようです。
また、『菊池市史』(1982年)によれば、菊池の旧家には「煕寧元宝」や「元豊通宝」といった中国・北宋の古銭が多量に残っているといいます(※2)。
この「煕寧元宝」は北宋の1068年発行の通貨、「元豊通宝」は北宋の1078年発行の通貨であることから、菊池川を通じて海外と交易をしていた可能性があります。ただ、これらの通貨が使われていたのは菊池氏初代・則隆や菊池氏2代・経隆の活動時期と重なることから、則隆の父とされる蔵規(政則)が筑前国高田牧に拠って宋国との交易をしていたように、引き続き筑前国で交易を行って得た宋銭を菊池に持ち込んだ可能性もあります。
いずれにしても、内陸の菊池に多量の宋銭が残されているということは、やはり菊池氏が単なる肥後国の在地勢力(土豪)ではなく、有力な大宰府府官として、宋国との交易が容易にできる立場にいたことを示唆していると思われ、こうした面からも初代・則隆とその父とされる蔵規との連続性が見いだせるのではないでしょうか。
前肥後守・藤原定任暗殺事件
菊池氏が大宰府府官という立場を利用して肥後国で勢力を拡大していくにあたり、利権を巡って対立したと考えられるのは肥後の国守(受領)です。
そんな中起こったのが、この「前肥後守・藤原定任暗殺事件」でした。この事件は前職と現職の国守の対立という側面も見えるので、単純に菊池氏と肥後守との争いというわけではなかったようですが、大きく見ればそのように見ても間違いないと思われます。
この事件のことは藤原資房の日記である『春記』に記されています(※3)。そこで『春記』の記述を基にして、ざっと事件のあらましをお話ししていこうと思います。
長暦4年(1040年)4月10日の宵。前肥後守・藤原定任が父・藤原為任の邸宅から帰ろうとしたところ、自身の邸宅まで1町(約109m)足らずの四条町尻において胡簶(矢を差し入れて携帯できるようにする道具)を背負った者が2人、長刀を携えた者が1人待ち受けているのに出くわしました。
そこで定任は四条大路から自身の邸宅の門へ向かおうとしたところ、先ほどの者たちが走り寄り、まず一人が矢を放って定任の牛車を操縦する牛飼童を射殺し、それから定任の牛車に向かって次々に矢を放ちました。
定任はたまらず牛車の前から出て、襲撃の理由を尋ねようとしますが、今度は牛車の後ろから矢を放たれ、その矢は定任の肩を射通って、定任は牛車から転げ落ちました。そして、この間に襲撃者たちはてんでに逃げ去っていきました。
辛くも襲撃から走り逃げた定任の雑色(身分の低い従者)は急いで定任の邸宅へ向かい、家人たちにこのことを告げました。やがて定任の家人たちが駆け付け、定任を牛車に担ぎ乗せて邸宅で治療しようと試みますが、もはや定任は言葉を交わすこともできないほどの重体で、翌11日の朝、治療の甲斐無く息を引き取りました。
洛中でこのような事件が起こったことは、人々に大変な衝撃を与えました。
検非違使(京中の治安を司る役人)は昨晩の内から所々で犯人の捜索を開始し、各地へ通じる関所を封鎖して交通を遮断しましたが、結局犯人を捕まえることはできませんでした。
その後、何人かの者が定任殺害の容疑者として浮上し、中には捕らえられる者もおりましたが、どれもこれといった証拠もなく、決め手に欠けて犯人特定には至りません。そんな中、ある情報がもたらされます。
それは殺害された前肥後守・定任は現職の肥後守(為弘〔姓は不明〕)と対立してほとんど合戦に及ぶような状況だったというのです。そして、折しも肥後国の運上物押領使(※4)として‟平正高”(藤原〔菊池〕蔵隆のこと。※5)という者が都へ上ってきており、現職の肥後守・為弘はこの正高に定任の殺害を指示したのではないか?というものでした。
そこで今回の事件を知る重要参考人として正高を捕らえるよう指示が出ます。また、正高の父で五位の位階を持っていた“平則高”(藤原〔菊池〕則隆のこと。※5)も都へ上ってきているのではないかとして、彼にも捕縛の指示が出ました。
しかし、則高は今回上京してきておらず、正高も早々に都を発ってしまったとのことで、両名を捕縛する事はできずに終わります。
この両名は当時大宰権帥であった藤原隆家の郎等(従者)でもあるということで、藤原隆家自身にも人々は疑いの目を向けるようになっていきました。
やがて、時間が経つにつれて色々なことが判明してきます。
なんでも殺害された定任は大宰府の府老(大宰府の下級役人)とその兄である法師を殺害しており、殺害された府老の弟と兄法師の子たちは武勇の者であったためか辛くも難を逃れていて、今も行方知れずになっているというのです。さらに、定任殺害の容疑がかかっている蔵隆(藤原〔菊池〕蔵隆)は定任に殺害された府老の近親であることを定任の後家が明かしたのです。
これでいよいよ蔵隆に定任殺害の動機が見えてきたということで、大宰府へ蔵隆と則隆両名を拘束した上、都へ身柄を送ってくるようにとする官符(太政官符。太政官から出される朝廷の重要な公文書〔命令書〕)を発行することになりました。ところが…。
この太政官符は結局出されたのか、出されてないのかはっきりしません。
それというのも時の関白・藤原頼通は定任が殺害された事件が起こった当初から取り立てて驚きもせず、一応犯人を捕らえるよう指示は出しますが、事件についてあまり関心がない様子であって、筆者の藤原資房もなぜなのか奇怪であると記している通り、消極的な姿勢を見せていました。そのため官符を出すことに際しても承諾はするものの、どこか上の空といった様子だったようです。
さらに、太政官符が出される時、多くは左大弁(※6)を通じて行われるものだったんですが、当時の左大弁は藤原経輔で大宰権帥の藤原隆家の子だったため、それでは色々都合が悪かろうということで、右大弁(源資通)(※6)を通じて行いたいところでしたが、その右大弁もこの時任国へ下向しており、都にはおりませんでした。
それでは左中弁(源経長)(※6)を通じてということになったのですが、まずは前例を調べることになり、あれやこれや遅々として発行されなかったようです。
そこから『春記』に定任の事件に関する記述が見えなくなり、次に記されるのは半年ほど経った11月5日の記事で、そこにはこう記されています。
‟定任を殺した容疑で大宰府に使いを出し、藤原盛隆(蔵隆の誤り)を召喚している所であるが、数か月経った今でも返報はない。最近わずかに返事があったといい、盛隆(蔵隆)は海上へ逃げ去ったということだ。”
とは言え、これで蔵隆への追及が止むということはなく、朝廷から大宰府へ改めて蔵隆の逮捕と則隆の都への召喚を求める返書が出されることになったようです。
しかし、この事件のことがわかるのは残念ながらここまで。
なぜか『春記』にはこれ以降定任暗殺事件に関する記述がなく、結局蔵隆や則隆がどうなったのかわかりません。おそらくですが、結局はうやむやになって沙汰止みになってしまったのかもしれません。
ちなみに、『春記』を著した藤原資房は当時蔵人頭(天皇の秘書室長のようなもの)の役職についており、この事件の処置で関白・藤原頼通や右大臣・藤原実資の許へ度々訪れて、官符の発行などで東奔西走していました。
そこで気がつくのは、実資と言えば藤原(菊池)則隆の父である藤原蔵規と深い関係にあり、その実資は関白・藤原頼通とは昵懇の間柄で、頼通としても長老である実資の意向を無視できませんでした。つまり、則隆や蔵隆が事件の追求をなんとか逃れられるよう実資に根回ししてたことも想定できるのです。だから関白も右大臣もこの事件に関して、資房が首をかしげるほどどこか消極的なところがあって、官符の発行も遅々として進まず、事件自体もうやむやになってしまったのかもしれません。
菊池川流域を中心に分布する菊池氏族
前節でお話しした藤原定任暗殺事件の結末がわからず菊池則隆や蔵隆(政隆)がどうなったかは定かではありませんが、この事件以後、大宰府府官として菊池氏出身の者が誰一人見えなくなったことから、菊池氏は小さくない影響を被ったようです。
そして、菊池氏の家督も蔵隆(政隆)ではなく、菊池氏諸系図に蔵隆(政隆)の弟として見える経隆が継いだようで、菊池氏はこの経隆の子孫が代を繋いでいくことになります(※7)。
しかし、菊池氏は大宰府の機構から排除されても肥後国で勢力を拡げていくことになります。
こちらは政則(蔵規)~菊池氏6代・隆直までの『続群書類従』所収の「菊池系図」と『菊池市史』所収の「菊池氏略系図」ですが、ここに見られる諸氏の名字の地となったと思われる場所をわかる範囲で拾って地図上に表してみると、このようになります。
これを見ると菊池川の中流域やその支流で形成された菊鹿盆地(菊池盆地・山鹿盆地とも)内に集中しているのがわかりますが、ほとんどの地点が川沿いにあります。
これは菊池諸氏が水路を利用して徐々に勢力を拡げていったことを表していると言えますが、その一方で菊池川流域ではない地域にも進出しています。
地図には示されていませんが、肥後国の南部の天草郡には菊池氏族の天草氏(菊池氏3代経頼の子・経長が祖)、球磨郡には永里氏や岡本氏(菊池氏2代・経隆の孫・隆明〔高明〕が祖)なども見られます。
これについて工藤敬一先生は、
と述べられ、菊池氏が大宰府の府官としてではなく、肥後国衙での有力在庁官人として力を蓄えていったことを指摘されています。
また、菊池氏略系図(『菊池市史』所収)を見てみると菊池氏2代の経隆には「右京大夫」(正五位上のちに正四位下相当)、3代の経頼には「民部大輔」(正五位下相当)、菊池氏4代・経宗と5代の経直には「鳥羽院武者所」という肩書がついています。
注目すべきはこうして在京していなければ任じられない官職が肩書についていることです。特に経宗と経直には鳥羽院武者所という肩書がついていて、これは中央(都)の有力権門の一つである鳥羽院と結びついていた可能性を示すものではないでしょうか。
つまり、菊池氏は大宰府を事実上追われたのち、肥後国衙内の力を徐々に高めていくのと同時に中央(都)の院権力を背景に勢力を拡げていったと見る事ができます。そして、6代・菊池隆直の代に至って、ついに肥後の一国棟梁的な存在として歴史の表舞台に登場してくるのです。
筑前山鹿氏について(余談)
上に掲載した系図(『菊池市史』所収)を見ると、菊池氏3代・経頼の子に「詫磨四郎(経遠)」という者がおり、さらにその子が秀遠となっていて、(筑前)山鹿氏を名乗ったとされています。
この山鹿秀遠は6代・隆直と同時期に活動した人物で、治承~文治の内乱では平家方の勢力として登場します。
『菊池市史』には、福岡県の歴史として菊池氏3代の経頼が筑前の鞍手・嘉麻・穂波の3つの郡(現在の福岡県筑豊地域)に進出して1000町歩にも及ぶ広大な所領を所有しており、その所領を鳥羽院に寄進することによって粥田庄を立庄し、息子の詫磨四郎(経遠)(粥田経遠とも)が鳥羽院武者所となって、鳥羽院の院司であった平忠盛(清盛の父)と関係を持つに至ったとあります。
そして、経遠の子・秀遠は筑前遠賀郡山鹿庄に本拠を置いて山鹿と称し、山鹿一族は有力な大宰府府官である大蔵氏(原田氏)と相互に姻戚関係を結ぶことでますます勢力を拡大させて、父・経遠から関係を持つ平家の大きな力を背景に、大宰府府官の肩書と筑前国の有力在庁官人の権威をもって北九州ににらみを利かせていたと記されています。
今回は菊池氏の話なので、筑前山鹿氏についての調査は別の機会にしたいと思いますが、この話が事実であれば3代・経頼がにわかに筑前国に広大な所領を持つことは考えにくく、やはり菊池氏初代・則隆の父とされる政則(藤原蔵規)の代に所有していた筑前国の所領が引き継がれたものと考えた方が自然と思われ、そのあたりについても藤原蔵規と菊池氏(特に則隆)との関係に絡んで興味深いところです。
ということで、今回はここまで、菊池氏の紹介記事は一旦終了となります。
機会があれば、菊池氏6代・隆直以降の菊池氏についてもお話ししようと思いますが、治承~文治の内乱での菊池氏は随時「治承・寿永の乱」シリーズの中でお話ししていこうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。
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