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人生つらすぎん?と、生きる意味の話

リハビリ記事②です。

人生が過去一やばかった時の話

なんか…ここ数年、
わたしはわたしの人生がつらすぎたことをここに告白します。

それというのも、
コロナで対面の機会が減って、大人数の対面ワークショップ・研修という自分のメインの仕事が全部キレイにふっ飛んだから。

そして、何もできない。オンラインでコンテンツは考えるけど、オンラインが対面の代わりになるワークショップって実はそれほどない。そもそも人と会えない以上、私の得意分野がまったく活かせない。代案ができず、まるで演奏者が楽器を奏でるための手や口を縛られたまま生きるような。

それによって、「え、わたし、世の中の役に立ってない…?」「生きていていいのかしら?」という、視界が暗くなって息もできない、視界不良と酸欠の感覚が、断続的に4年近く続きました。まだもどってないので完了した話ではないのだけれど。

これまでのnoteの文章にある通り、世の中の常識論や、ふつう・当たり前から人々を楽にしたい。自分も楽になりたい。そんな思いでいたところ、幸いワークショップやカードツールなどコンテンツデザインの才能に恵まれたので生業にした。

けれど事業主になってしまったら、お金をかせぐことを考えなくてはいけないし、世の中の変化によって、サービスは本当に柔軟に変わるべきで、人に必要とされないものならば、それにみっともなく執着すべきではないし、したくない。そう思うのに、今自分がただしがみついているだけなのか、逆に将来を考え耐え忍ぶべきところなのか、見極めがまったくわからなかった。

やってきたことにしがみつくべきではないと仮定して、まず試行錯誤してみた。コロナ禍による事業転換のための補助金申請書類を書いているときに、え…お金もらうにはガラリと業態変える必要あるん…? 私が例えば今から急に飲食をやるのか…? と思ったら、本気でそれを取り組んでこられた方々のいる業界で、付け焼刃の私が一体何を…?と、ほんとに思考が停止してしまった。会社員になるべく面接までしたけどだめだった。面接ハラスメントもされたし。(あれは絶☆許)

来年、来月どころか一週間後自分が生きていられる感覚がない。感染してなくても食べ物の味がしない。支援金も使い切り、お金を借り、でもそれを返せるビジョンが見えない。なんとかオンラインでできるものを開発して提供をしても、対面時ほどの手ごたえはない。プロの癖に今の時代の人々に合うものをチューニングできてない。のうのうと生き恥をさらしてる焦燥と無力感。

ところがこの無力感を共有しようとしても、近い業種で全く困ってない人もいる。もともとオンラインもやってた人とか。対面大人数メインなのは私くらいだった。企業などが顧客に多かったからこそ、密を避けると同時に敬遠されてしまった。その上、リモートで仕事が多忙で、働く人もいっぱいいっぱい。コミュニケーションのワークショップどころじゃない、という雰囲気。むしろ会社員の方大変すぎて、研修受ける時間あるくらいならデジタルデトックスして寝てほしいくらいだった。

誰にも何も言えず、恐怖を共有できない。何かしなくてはいけないのに有効なことができない。先が見えなくて怖くて怖くて、気をそらさなければ近所を裸で「ワー!!」と叫びながら走り回ってしまいそうになって、震えながら口を押さえた。自分がここでこうして生きていていいのかわからない。もうほんとだめ。もう全部クリアにして、北海道で、大好きな某貝類を手作業で開くアルバイトで生きていくこととか、色々考えた。体調もずっと悪いし、楽しい研修もずいぶんたくさんやらせてもらったし、もうこの業界からは引き時なのかしら。あとは若い方に頑張ってもらったらいいじゃない。

しかし。

そんな時に限って、私が作ったコミュニケーションカードツールを、会社や学校で密に注意しつつ使ってくれた人たちから、スンッとお礼のメールが来たりするんですよ。

「今年は卒業の年なのに対面の授業ができなかったんですが、最後の卒業式の日に●●(ツール)で遊ばせてもらって、本当に楽しいひとときを過ごせて、いい卒業式になりました。ありがとうございます」とか。

「社内で交流のために使わせていただき、お互いに知らないユニークな部分を知り合ったり、この言葉はこんな解釈をするのかと違いを知ったり、とても盛り上がり、結果社内のコミュニケーションが円滑になりました。ありがとうございました」とか。お礼のメールを、一度もお会いしたこともない方からいただいたりするんですよ。

もうみっともなく泣きながら、ああ、生きていてもいいんだ…というのと。
ああ、私はまだ、この仕事を続けていいんだ…というのと。
自分はここから逃げられないのだから、守るべき家庭もないのだから、この機に振り切ろうと、本当にあたまおかしいけど、採算度外視でひたすらコンテンツの品種改良を進めるのと。

そんな感情ジェットコースターを繰り返した。


今はましにはなったけれど

2024年5月の今は実はまだ、事態は戻ったわけではない。コロナ前ほどの戻りには時間がかかりそうだし、これまで仕事が決まりそうになるたび、コロナの第〇波や時事問題がおきて、研修やワークショップのお話が飛びまくった、そのPTSDはぜんぜん克服できていないし、なんというか私から見える世の中の多くのビジネスが恐る恐る動いているから、正直停滞感はある。

けれどコロナ禍が明けて、これから対面の対話が戻ってくるであろう今はもう、「演奏をするための手や口の縛りがほどけた」ような、少なくとも身動きがとれることが、5万倍くらいましだ。

自分の開発するものに対する「絶対にこれからの世に必要」という思い込みや、私の作ったものを好きで仲間になって広めようとしてくれている人たちの気持ちと動きや、対話の参加者が見せる笑顔やお礼の言葉を、生きるための心のごはんとしている感じ。

笑顔ひとつで、救われるし、あーがんばろうと思う。
ほんとに色々、起きるけど。少しでも希望があるなら、また立ち上がろうと思うし、頑張れるのだろうと思う。

でも本当に、人生ってこんなにつらいものなのかって、何度も思ったし、今も思うよ。わたしにとって、人の人生を生きることは、喜びもあるけれど、基本つらい。

あえて主語を大きくするけど、みんな、すごいよ。この時代はこの時代の大変さがすっごいある。人にはそれぞれ、つらいとか大変なことがあって、それぞれの人生を生きている。本当にみんなすごいよ。


生きる理由がわからない時に思い出したいこと(私が)

私のnoteを好んでくださる方は、きっと、「ふつう・当たり前・常識」を疑って、しんどくても、不器用でも、自分の答えをみつけたいと願いながら生きる方が多いのだろうなと勝手に思っている。私がそうだから。

自分が生きることや、はたらくことに、理由がほしい。

私はどうしても、人に対しては思わなくても、自分に対してはそう思ってしまう人間で、だからこそ喜びの機会がありながら、しんどさもついてまわるのだろうと思う。意味を考えすぎてわからなくて、結婚やまともな恋愛もできなくて、生まれた家以外の自分の家庭を持てなかった。日々を疑問なくただ生きることができない。意味を考えてしまう。なんで私はこんなに小難しく生きているんだろう。草花や木や虫に生まれたらよかったのに。

そしてそれなのに、日々をきちんと、ふつうや当たり前を疑わず、人間らしく、堅実に生きられる人が、嫌味でなく純粋にうらやましい。映画「男はつらいよ(第八作)」の寅さんのように、自由や孤独を愛しながら、きれいに手入れされた花が庭にある家の、お茶の間のだんらんの光を見て、泣いてしまう感じ。あまりにあたたかくて恋しくて、それが自分のものでないのが寂しくて。望んでひとりで生きているのにね。

書いててつらくなった。

で、これは私の個人的な考えというか、ジャストアイデアなので、もしも気に入ったら、心の片隅にでも分けておいてもらえたら嬉しいのだけど…

宇宙ってあるじゃない? そう、ユニバース。

コロナウイルスから、花の種の遺伝情報から、人間の細胞や進化から、地球の核運動から、地球の大気の奇跡的な元素の割合から、太陽系の惑星の距離バランス、原子核とその周りを回る電子から、無限に広がる複数の銀河系まで、恐ろしい量のこの世の情報全て、宇宙を設計している存在を仮にX(エックス)だとする。とするとよ。

宇宙やそれを設計した存在Xにとって、今私がここに生まれた、存在している意味は因果関係や前後関係から読み取れるけど、小さな存在である私自身の頭では、その存在理由、設計書の意味が決して分からないと思う。だって、私の知能指数がせいぜい100とすると、存在XのIQは…億、兆、京、垓とかゆうに超えて、ゼロの数が100000000000000000000000000……のさらに何乗とかなわけで。IQが違いすぎると決して理解できないもの。2桁の足し算を10秒かけてがやっとな計算機が、宇宙を統べる超ウルトラスーパーコンピューターの思考を理解したがるようなものでしょ。

存在の意味があって、わかるかもしれないとして、そんな設計書を私は宇宙からホラ~と見せられてもぜったいに読み取れない。IQ100だから。2桁足し算10秒の計算機程度だから、考えてもわかるわけない。わからないけど、存在している以上は、なんか宇宙的に意味はあるんだろ、ただの予定調和的なランダムだとしても、バグだとしても、神々の遊びでも、きっとなんかあるんだろ。生きている以上は、あるんだろ。死ぬことにもきっと理由や因果関係はあるけど、きっとそれは読み取れないだけなんだろ。IQ100だから。

生まれたことにも、生きていることにも、生き方にも、死ぬことにも、大きな視点からみて理由はあるが、それは私の視点、私の頭のスペックではわからないだけ。理解できなすぎるだけ。宇宙はヤバいので。私が今生きているなら生きるし、死ぬなら死ぬのだろう。

たぶん。

私自身はそうイメージしたら、少し楽になった。楽になったし、ちょっと自分を肯定できたと思う。自分が自分でないものになろうとせず、このままであることが、いやそういう無理やあがきも含めて、おっきい意味でオッケーなのかもしれないと。自分の心が惹かれるほうに任せて、なんかもういいんじゃないかと。それも設計の予測範囲内でしょ。

誰かに迷惑とか、申し訳ないとか、短期的に考えてしまうけれど、今近しい人を心配にさせてしまっているけど、もっと長い長い時間の中で、自分のしたこと、悪あがきが、ほんの少しの水しぶきを立てて、バタフライエフェクトのようにさざ波になって、死後300年後になにかを引き起こすかもしれないじゃない。

今無力でも、何も見えなくてもわからなくても、きっと無意味じゃない。色々考えてややこしい自分でもきっと、大丈夫だよ。今生きていていい。なにかと比べなくていいんだよ。と。

悩みながら苦しみながら、それも自分らしさと思って、みっともなくても、生きているかぎりは、なんかあるんだろと思って引き続き生きたいな。この時代に生きることが初めてなのに、何かをわかったような賢い顔をして生きていたくない。すっごい迷子だけど、迷ってるがどうした!と思いたい。

そしていつか、迷いの中に、自分の中に納得できるなにか、誇れるとか、心地よい、確かななにかを、いくつかみつけられたらいいな。くるしいけど。ブッダ先生が、生きることは苦だって言ってたから、くるしいのが、苦しい中で楽になれるものをみつけることが、生きることのひとつなんだろう。

ほんと、今この時代に、私という体をもって生きることが、初体験だし、おお~~きな宇宙にある設計書を読み取れないんだから。わかんなくて当たり前。でもここにいる意味は(宇宙的に)ある。いずれいなくなっても意味はあり続ける。だから大丈夫。悩みながら生きて大丈夫。宇宙のヤバさを信じろ。

そんなかんじのことを、思っています。長くなっちゃった。
もし、なにか、1ミリでも、今じゃなくても、誰かおひとりの参考になったら。


※寅さんのくだりについて、心にしみた仲間は「男はつらいよ」第8作「寅次郎恋歌」を見てもらいたい。サブスクでもたくさんやっているので。他の作品もどれも素敵。寅さんは周りの人のあたたかさに、私は毎作泣く。


#生きること #価値観 #人生

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