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村上春樹の短編6選

村上春樹の短編は全部読んであろう私が選ぶ6選です。
※ネタバレ注意です。


【1】ドライブ・マイ・カー(2013年、『女のいない男たち』掲載)

愛し合っていた妻がなぜ他の男と寝るのかと問いを抱え続けていた男。自分に何が欠けていたのか、寝ていた相手の男は自分にない何を持っていたのか。その疑問を解くために、相手の男と友人になるまでする。でも、なぜ妻がこのような奥行きのない男に惹かれたのかという自問に答えが出ない。
そのことを打ち明けた時、話し相手の運転手の女の子が口を開く。
「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか。」「だから寝たんです」
女とは、苦しみを受けたときに、ただ抱かれることを求める病を抱えていると女の子は告げる。それを告げられ、男は静かに目を閉じる。
――問いの答えから逆算として構成したような、見事な小説だ。答えを告げられた時の、女の子の沈黙に感謝して眠りにつくエンディングもいい。
老境に入った男の人生の疑問を、ちょうど娘くらいの寡黙な女の子が解くというのも意外な話だ。しかし、相手は寡黙な娘でなければいけなかったのだとも思う。女性でなければならなかったし、言葉に重みを持たせるには寡黙な娘でなければならなかった。真実を告げる神が、饒舌であるはずはない。

【2】眠り(1989年、『TVピープル』掲載)

「眠り」というタイトルだが、実際は「覚醒」の話である。平凡な、いやむしろどちらかというと恵まれた家庭生活を送る主婦が、ある夜から何週間も睡魔知らずの覚醒状態になる。アンナ・カレーニナを3回読み、ドストエフスキーも読破し、ブランデーを何杯も開け、水泳も何十分と泳ぎ続ける。年齢を感じさせなくなり、若返りしたようにさえ思える。
しかし主婦は、どこかで発狂することを自覚している。夫と息子を不快な存在に思えてくる。そしてある夜、ついに闇の男たちに車ごと襲われる。現実なのか、発狂したのかはわからない。
カプセルのように守られた世界の、ほんの小さな裂け目から、闇と狂気が入り込んでくるような絶妙な構成力だ。しかし主婦のこの小さな裂け目とは何だったのだろう。実は夫と息子を深くは愛していないという無意識かもしれない。それとも、性向のぶれと是正を繰り返し、老いていくだけの人生というものへの不条理感だろうか。

【3】トニー滝谷(1990年、『レキシントンの幽霊』掲載)

生は結局、生にしか宿らない。死んだ妻がいかに洋服に執着していたとしても、死んだ父親がいかにトロンボーンとともに生きたとしても、それが生から離れたとたんに、形見にしかならない。それはもう、生の残滓ですらない。だから、孤独な男、トニー滝谷は結局、形見を捨てる。そして「今度こそ本当にひとりぼっちになった」。
トニー滝谷は、生来孤独な男だった。愛した妻も、空虚な人生に刹那、通りすがった影のようにしか思えない。空虚に生まれた人生は結局、愛をもってしても埋められない。そんな無常観が伝わってくる。

【4】パン屋再襲撃(1985年、『パン屋再襲撃収録』)

あらすじを説明すると、主人公は昔、パン屋にパンを強盗に行った。パンは無料で手に入ったが、強盗は成立しなかった(ここらへんは微妙なので本作を読んでください)。この事件を期に、なぜか人生の歯車のようなものが微妙に狂ってしまった。その話を聞いた妻は言う、「もう一度パン屋を襲撃するのよ」。夫婦はパン屋再襲撃を決意する。
ところがその時は夜で、パン屋はどこも開いていなかった。そこで二人は妥協して、マクドナルドを襲撃する。襲撃は成功して、ビックマック30個が手に入る。食べながら主人公は言う「こんなことする必要が本当にあったんだろうか」。妻は言う「もちろんよ」。
人生を再出発させるために、終わってしまった場所から再スタートするというのはドラマとしてよくあるし、よくわかる心情である。ところが村上春樹ときたら、マクドナルドを襲撃するところから人生をやり直そうとする。
村上春樹にとって「人生の歯車の狂った瞬間」は、存在する。しかしそれを元に戻す作業は、人から見れば無為に見える。そもそも人生を取り戻すなんて作業は、無為か、少なくとも無為にしか見えない。村上はそういいたいのかも知れない。

【5】ファミリー・アフェア(1985年、『パン屋再襲撃』収録)

村上作品としては非常に珍しい家族を題材とした話。仲の良い家族(ここでは兄妹)に家族以外の人物が入ってくることでぎくしゃくしだすという話はよくあるが、村上は家族愛だのといったべたついた感じを一切出すことなく、妹の婚約者という異物によって、今までの関係性が微妙に狂う感覚を見事に描いている。
村上は、例えば長編では『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』、短編では「パン屋再襲撃」などで、なんらかの出来事をきっかけにあるべき世界が狂ってしまうというテーマをある意味執拗に描いているが、メタファーに頼らずに、シンプルに現実の世界を舞台にすれば、こんな佳作もきちんと書ける

【6】象の消滅(1985年、『パン屋再襲撃』収録)

アメリカでは短編集の表題作となった作品で、海外では村上作品のこういったポスト・モダン的な要素が受けているんだろうなあと推察される。一方、日本でも教科書に載ったそうだが、単に「女と寝た」とかいった描写がない、村上作品では数少ない作品だからかもしれない。
読み返してみると、この「女と寝た」とかいう描写がないことは、この小説の重要な要素になっていることがわかる。「パン屋再襲撃」で、パン屋への強盗が未遂になった瞬間、物事が上手くいかなくなったのと同じように、この小説では象の消滅を目撃して以来、「僕の内部で何かのバランスが崩れてしまっ」た。そして、かなり魅力的で、気を許し合った女性に対しても、(寝ても寝なくても)どちらでも差はないという感覚に陥ってしまう。
象と飼育員の物理的な縮小と消滅については、いろんな解釈があると思うが、「ときどきまわりの事物がその本来正当なバランスを失っているように、僕には感じられる」と、比較的明確に原因を述べている。
症状名でかたづけてしまうのは味気ないが、現実感を喪失した「離人症」において、現実の距離感が失われたり、対人への関心が薄まったりするのは、典型的な症状である。村上はその感覚を、外界の物理的な事象で表しているかのように思える。しかし実際は「いろんな外部の事物が僕の目に奇妙に映るかもしれない…責任はたぶん僕の方にあるのだろう」と自覚している。
離人症という症例に閉じ込めなくても、目の前の事象に対する距離感が失われることは、正常な人間でもありえることである。すごいたとえが悪いのを承知で言うが、私は全盛期の巨人の松井秀喜選手がバッターボックスに立つと、球場が狭くなり、松井選手が大きくなる錯覚に陥ったものだ。それと逆の例で、この慎ましい老いた象と老人は、小さくなって、消えてしまったのだ。ここでは物理的か非物理的かを問う必要もないだろう。

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