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私の生い立ち:高校の日々 Part 4

学力が低かったため、地元で評判の悪い高校に入学しました。
最初のうちは、私の独特な雰囲気で一時的に有名になりましたが、中学校と同様に、関わる内にみんなが離れていきました。

しかし、もう慣れていたので特に気にはせず、このころは怠惰の極みのような日々を送っていました。

中学校の後半あたりから、宿題をやる意味、例えば漢字をノート一冊に書き写すなどの意味がわからなくなり、それをやらなくなりました。それがさらに怠惰の道へ突き進んだのでしょうか。

授業中はほとんど寝ていましたが、教師との関係は、寝ていても静かにしていれば何も言われませんでした。元々授業が崩壊していたからです。
そのせいか、独特な雰囲気を持つ私は「怠惰のキャラ」として定着していたのかもしれません。

不良グループの一部も、別の学区から来た新しい生徒たちの声のおかげで、次第に私に絡むことが少なくなっていきました。
別学区から来た生徒たちは、不良グループと仲が良くなりましたが、同級生に対していじめることや絡むことはしませんでした。
彼らは私に絡んでいる不良グループに対して「なぜそんなことをするの?」と言っていたようです。

留年さえしなければいいという思いで、出席日数と学力をぎりぎりで保ちながら進級していきました。

家庭内では、ついに両親が別居することになり、母、兄、私の三人と父が別々に暮らすようになりました。

父からの恐怖はなくなったように思えましたが、母からの精神的な虐待が過激化していきました。兄とは一言も話さない関係になってしまいました。

母の精神的虐待は、特に母の機嫌が悪いときに顕著でした。あるとき、母に「おまえなんか産まなければよかった」と言われたことがあります。

その言葉に傷ついたかと言うと、既にそのころ全てに対して無気力で、何も期待せず、無感情になっていたため、特に何も感じませんでした。

家にいてもこんな状態だったので、アルバイトを始めました。社会性がない私でしたが、アルバイト先では色々と怒られながらも面倒をよく見てもらえました。

ディスカウントショップで働いていましたが、今振り返ると、商品を読み取ってレジをし、さらに袋詰めをするという流れが私には難しかったです。
これは、同時並行ができないという発達障害の特徴によるものでした。
単調な作業は問題なかったのですが、複数の作業を同時にこなすことができませんでした。
また、無表情で愛想も良くなかったため、勘違いされることもありました。しかし、周りのスタッフは年上で優しい人ばかりだったので、なんとかやっていけました。


そして、進路も決まっていなかったため、興味を持っていた分野のひとつに進むことにしました。

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