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小学校への進学が親子移住を考え始めたきっかけに。特別支援学級か海外移住か?

低体重児として産まれた我が子には発達遅延がありました。産まれてから1ヶ月ほど新生児集中治療室に入院、やっと退院する時に言われたのは「MRIの結果、PVLでした。脳の足の神経部分に一部に壊死が見られるので、将来は車椅子になると思います。」

親としてショックと同時に我が子に思うことは(なんとかなる。)という漠然とした自信でした。それでも親戚や友人が「大丈夫だよ、お医者さんは大袈裟に言ってるんだよ。」という言葉に「何を根拠にそんなこと言えるんだ。」という相反する気持ちと、(車椅子になったら大丈夫じゃないってこと?世の中には車椅子で社会生活してる人だってたくさんいるのに、どういうこと?)というやさぐれた気持ちも持っていました。

そんな中でも生後半年からリハビリを兼ねて、発達を促すために主治医の勧めもあって地域の療育に通い始めました。月に二回、遊びながら足を刺激するというマッサージみたいな療育でした。
そして周囲の予想に反して、そして親の期待通り、我が子は1歳8ヶ月の時にフラフラと歩き出しました。保育園に迎えに行った時に、
「お母さん、息子くん、歩けましたよ!」と言われた時は意味が分からず理解に時間かかっていると、先生の後ろからサプライズのごとくよちよち2、3歩ほど歩いて登場した我が子を見て涙が溢れました。
担当医から支援サポートの申請手続きなどを説明されていた矢先のことだったので、すごく嬉しかったのと、なんだ、やっぱり先生は大袈裟だったのか。といろんな感情が湧き出てきたのを覚えています。

そうは言っても、やはり特に<身体面の発達は同年代の子よりは遅いです。>と言われていた通り、走ることやバランスを取ることはとても苦手で、脳性麻痺の特徴の一つであるつま先歩きも目立ちました。しかし身体面の発達とは裏腹に学習面の成長、特にコミュニケーション能力と記憶力の発達は明らかに同年代の子よりも顕著に伸びていました。いわゆる五角形で表される発達グラフが凸凹な状態でした。

そして、同年代のお友達からは話し上手なことよりも、運動が苦手なことに注目されていました。
保育園の低年齢の時は(本人も)あまり周りも意識していなかったのですが、年齢が上がるにつれ、「走るのが遅いから同じリレーチームになりたくない。」や、「すぐに転けるからお散歩の時に手を繋ぎたくない。」「どうして変な歩き方をするの?」と歩き方を真似をされることもありました。息子はよく喋るので、本人から聞くこともありましたが、お迎えの時に無邪気な子供たちから直接親の私に言われることもありました。

そしていよいよ小学生になると、周りからの息子への無邪気な(?)指摘は増えていきました。
女の子は<なんとなく言わない方がいいのかな?>という気遣いが出てきていたようですが、男の子からは特に運動会や身体を動かす練習になると指摘されることが増えたようです。おかげで息子は運動会が大嫌いになりました。本人は走ることも外で遊ぶことも大好きでしたが、「僕が同じチームになるとみんなに迷惑がかかる。負けるから嫌だって泣く子もいる」と言って泣くこともありました。休み時間の鬼ごっこは「みんな鬼になると、まず初めに僕をタッチしにくる。その後ずっとみんなに追いつけなくて、ずっと鬼をすることになる。それが嫌だから、教室にいる子たちと塗り絵をしてる。」というようになりました。「まぁ、絵かくの好きだし、文章書くのも好きだし、休み時間なんだから楽しいって思えることやってリフレッシュするのが一番だね。」と言って嫌な思いをするくらいなら鬼ごっこしなきゃいいよ。とか、鬼交代してーって言ってみたら?とか色々アドバイスしながらやり過ごしていました。

そんな矢先、息子が学校を休みたい。と言ってきたことがありました。
普段は学校に行くのも大好きで、休むことは滅多になかったので、
「〇〇くんと喧嘩した。」と普段仲良くしている友達と喧嘩した。と言っていたので、「じゃあ無理に行かなくてもいいんじゃない?」とお休みをさせたところ、学校の担任の先生から放課後電話がかかってきました。
「息子君、もう学校辛いんだと思います。」と突然言われ、
「どういうこと?」という状態です。友達と喧嘩して、ちょっと休みたい。というので休んだだけなのに、「学校生活、限界じゃないですか?」と言われ、とにかく驚きました。
小学校へは予め、療育や、足のことをを詳しく説明していたのですが、
入学後、コロナ禍で全然学校に通えなかった小学校1年生。やっと通えるようになった5月、そして言われたのは7月くらいでした。小学校に通い始めたばかりの2ヶ月で<学校生活限界>とはどういうことですか?
と先生への疑問から始まりました。



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