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私はハサミではないーフリースクール雑文記(1)


はじめに


こんにちは!

BASEスタッフのHARUです。

7月に入り気温も高くなるこの頃、現場に常駐せずにBASEの活動を遠隔で見守っているうち、

「やっぱりオレもこどもたちのために何か学びになるようなことをしてあげたいなあ〜。。。」

という気持ちになることがだんだん増えてきました。

「けどズマみたくみんなで遊んだりするのもそんなに得意じゃないし、(てか今東京だし、)どうするかなあ〜。。。」

とかいろいろ考えてみた平日の深夜2時、この機会に今までに自分が影響された思想やら哲学やらをブログにまとめ、生徒含めBASEの活動に協力してくれている皆さまに、気が向いた時にでも読んでもらおうと思いつきました!

思想や哲学といっても岩波文庫の本みたく学術的な内容をゴリゴリに記述していくのでなく、いっけんコムズカシそうな内容をなるべくとっつきやすく、暇つぶしに読めるくらいの手軽さで紹介していければと思います。

ちなみに私は大学で哲学を専攻した訳でもなんでもないので、見る人が見ればだいぶいい加減な解釈がちょくちょく混ざってるかと思いますが、そこは雑文記として多めに見てください(笑)

そんなこんなで前置きはここまで。

今回は歴史や美術の本なんかでもたまに出てくる、「実存主義」とはなんぞやというテーマについて紹介してみようと思います!

それでは、最後までよろしくお願いします♪


「ハサミ」とは何か


実存主義の紹介をしていくにあたり、まずは「ハサミ」というものについて考えてみましょう。

記事をご覧の方はここで目を閉じ、「ハサミ」というものを頭の中で思い浮かべてみてください。

さて、きっと今この記事を読んでくれている方々の中で、他の誰かが思い浮かべたのと完全に同じハサミを頭の中に思い浮かべた方はまずいないと思います。

ある方は青い持ち手の工作用のものを思い浮かべたり、また左利き用のものを思い浮かべた方もいたりして。

ちなみにこれを書いている私が思い浮かべたハサミは、右手で持った際に親指側にある刃の付け根だけが錆びており、持ち手にはたぬきのキャラクターのシールが貼ってあるハサミでした。

では、ここで一つの疑問があります。

記事を読んでいるみんなの思い浮かべた物はすべてが違う物であるはずなのに、どうして私たちは自分や他のみんなの頭の中にあるハサミを(たぶん)ハサミだと認識できるのでしょう?

考えてみれば不思議なことですよね。

「本物のハサミ」みたいなものがどこかにあるわけでもないのに。

ここで大事なのは、そもそも「ハサミ」とは何か、ということです。

そしてみんなの知っているように、「ハサミ」とはざっくり「紙を切るための道具」です。

ということで、ここで「ハサミ=紙を切るための道具」という図式が成り立つことになります。

つまり私たちは、「紙を切るための道具」という<用途>から出発し、「ハサミ」というモノを認識していたというわけです。

さっきの疑問に立ち戻るなら、私たちは「ハサミ」というものをイメージする時、それが青い持ち手の工作用のモノであっても、左利き用のモノであっても、右手で持った際に親指側にある刃の付け根だけが錆びており持ち手にはたぬきのキャラクターのシールが貼ってあるモノであっても、それが「紙を切るための道具」である限り、それを「ハサミ」だと認識できるわけです。

(カッターはどうなるのか的なことを言い出すと例がヤヤコシクなるので、今度で(笑))

長々とした例え話でしたが、この用途から考えてモノを認識する<用途→モノ>のやり方が、私たちが普段している認識の手順です。


「私」とは何か


さて、「実存主義」について、いよいよ本題へと入っていきましょう。

ハサミの例で見てきたように、私たちは用途から考えてモノを認識する、<用途→モノ>のやり方で世界を見ています。

「ハサミとは、紙を切るための道具だから、ハサミである」

(=紙を切るための道具でないものは、ハサミではない)

勘の鋭い方はもうお気づきかもしれませんが、この<用途→モノ>の考え方を「人間」に対して当てはめてみると、すぐにうまくいかなくなることに気づきます。

「人間とは、『ーーーーーーーーーーーー』するための存在だから、人間である」

(=『ーーーーーーーーーーーー』するための存在でないものは、人間ではない)

この考え方は、人にとって、なんだかあんまり居心地のいいものではなさそうですよね。
ハサミの例ではうまくいったはずの<用途→モノ>の考え方が、どうして人間になるとうまくいかなくなるのでしょうか。

それは私たちが「人間」と聞いて思い浮かべるすべての人物が、ハサミやカッターのように、工場で作られた製品でなく、あらかじめ特定の用途を与えられて生まれた存在ではないからです。

しかしそれに気づかず、うっかり<用途→モノ>の手順で人間である自分を眺めてしまうと、まるで自分自身には用途がない(=価値がない)存在であるかのように錯覚してしまいます。

これはけっこう、中高生の時期に陥りがちな思考の罠です。

情報化した社会が無自覚にそれをばら撒いている面もあります。

だってハサミやカッターのように、もともと何かの目的のために生産された存在でないのだから、人間にとって用途がないのは、当然と言えば当然ですね。

花が飾られるために咲いたわけではないことと同じです。

では、こういった<用途→モノ>方式に始まる思考の罠から、私たちはどのように抜け出せばいいか。

そこで20世紀のヨーロッパで「実存主義」という考え方が広まりました。

実存主義はこの<用途→モノ>方式の考え方をまるっきり反転し、モノとは何よりもまずありのままのモノであり、使い方はその後に考えれば良い、という<モノ→用途>方式の考え方が重要であることを示しました。

つまり「私」とは誰かにとって何かの使い道があるから生きているわけでなく、とにかくありのままの自分としてこの世界にまず生きており、その生き方自体は「私」自身が自由に決めていけばいいのだという、自分の生き方を自分で選んでいく自己決定の姿勢を重視するのが、この実存主義の特徴だといえます。

もしかしたらちょっぴりエゴイスティックな考え方に聞こえるかもしれませんが、ここまで自分で自分の存在を根こそぎ肯定してしまっても、生きていく上でまったく問題はないはずだと私は思います。

なんたってかけがえのない自分なのだから!


まとめ

いかがでしたでしょうか?

実存主義とはものすごく簡単に言えば、「自分の生き方は自分で決めていくことが大事」という考え方のことです。

記事をご覧のBASE生はぜひ、何かの機能に沿うようにと自分自身を改造していくのではなく、まずは自分の感性を見つめてやりたいことを探してみましょう。

そして三角形の面積の公式をはじめて習うときに感じるような「こんなことが何の役に立つんですか?」的な気持ちは、生命に向けては抱かないでおきましょう。

それにしてもコムズカシイ内容をフラットに、と前書きで宣言しておいたのに、どうしてこんなに分かりづらくなるんだろう(笑)

読み返してみて悲しくなりますね、向いてないのかも(笑)

記事についてご質問等あれば、お気軽に私までご連絡ください!

最後までお読みいただきありがとうございました♪


※あと、余談ですがこの雑文記、毎週月曜日にアップすることにしました。早くもネタ切れが予想されているので、こんなこと知りたい、こんなテーマで書いてほしい、などあれば、どなたでもぜひぜひ教えてください。

それではまた次週!


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