笑いに関する名言集――藤子・F・不二雄、上岡龍太郎、シェイクスピア、おまけで孫子
みんな名言が好きなんだな、という事実を、書籍やネットで山ほどある名言集から間接的に知ることができます。何かのテーマに絞った名言集も珍しくない。
「笑い」に絞った名言集もあるにはあるんですが、まだまだ限定的で発展の余地があると感じました。そもそも私自身、笑いの名言にどんなものがあるのかまだよく知りません。じゃあ、ちょっとずつ集めてみればいいやと思いました。何だったらここで公表してみてもいいんじゃないかとも思いました。どれだけ続くのかは神のみぞ知る状況ですが、試しにやってみます。
ここでは笑いの名言を以下のみっつのどれかに当てはまるものとしました。
そして、今回は藤子・F・不二雄さんの名言から笑いに関するものをふたつ選んでみました。
まずはこちらからです。
表現は大きく分けて「何を表現するか」と「どう表現するか」のふたつに分ける見方がございますけれども、この名言は「どう表現するか」の大切さについて語っています。そして、「どう表現するか」の大切さを知るには落語が確かにうってつけです。古典落語を中心に、誰が同じ噺をやっても平気な文化が根づいていますし、それゆえに演じる人の腕が如実に出てくる。
落語に覚えのある方が藤子・F・不二雄作品を読むと、「これはあの噺を参考にしたのかな」とか分かるんでしょうか。
続いてこちらの名言です。
まず気になったのは「いまの若い人たち」です。少なくとも藤子・F・不二雄さんは、「いまの若い人たち」は「お笑いはどこか低次元なものというとらえ方がある」とお考えだったようです。この名言の原出典は上に記した通り1993年に発行された漫画新聞です。私、当時は子供だったんですが、お笑いが好きなこともあってか、お笑いを低次元と思ったことが生まれてから一度だってありません。私が特殊な人類だったのでしょうか?
簡単ではございますが、当時のお笑い界に手がかりを求めてみました。1993年はお笑い的にどんな時代だったのか。
その昔、元漫才師でタレントもやっておられた上岡龍太郎さんはこうおっしゃったそうです。
1993年はコント55号、ツービートはもちろん、ダウンタウンも活動していました。
ダウンタウンの東京進出は1988年、翌1989年には「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」が放送開始され、1991年には「ダウンタウンのごっつええ感じ」、そして1993年には「ダウンタウンDX」も始まっています。更に1994年には彼らがMCの音楽番組「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP」が開始される。テレビ番組以外では、後の芸人に多大な影響を与えた書籍「遺書」の元となるエッセイが「週刊朝日」で連載開始されたのが1993年です。つまり、1993年とはダウンタウンが東京でも影響力を広げ、その地位を確固たるものにしつつある時期でした。
藤子・F・不二雄さんは1993年当時で59歳、亡くなる3年前です。作品で言うと「大長編ドラえもん のび太とブリキの迷宮」「大長編ドラえもん のび太と夢幻三剣士」の辺りです。当時、新進気鋭のお笑いコンビとして東京で奮闘し、結果的にお笑い芸人の地位向上に繋げつつあったダウンタウンの活躍を藤子・F・不二雄さんはどう見ていたのか、分かるような資料は見つかっていません。それ以前に、藤子・F・不二雄さんがダウンタウンを知っていたかどうかも不明です。
ダウンタウンは芸人志望の方だけに留まらず、広く影響を与えました。前出の著書「遺書」が250万冊売れたことからも、その一端がうかがえます。影響を受けた人の中には、漫画家志望の人だっていたに違いない。藤子・F・不二雄さんがもう少し長生きされていたら、笑いに関してもっと違った言葉を遺したのでしょうか。
そう言えば、藤子・F・不二雄さんに関する名言として、こんなものもありました。
あのジャイアンの名言「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」に原作があったとは。と驚いていたら、友人に「そんなことも知らなかったんかい」と呆れられました。調べたら、まずシェイクスピアが上記の名言を書き、それを「ガリバー旅行記」で有名なジョナサン・スウィフトがもじって「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」と書き、更にそれを藤子・F・不二雄さんが採用したという経緯のようです。
友人はこうも言いました。「まさか、風林火山は武田信玄の言葉だと思ってないだろうね」。
えっ、違うんですか。調べたら原出典は「孫子の兵法」でした。すげえや孫子。さすが「百戦危うからず」の人ですよ。
己の無知をさらしたところで、今回はここまでといたします。
◆ 今回の名言が載っていた書籍
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