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コーヒードリップ

 カランと音が鳴って溶けた氷が黒い海に落ちた。外は相変わらず雨が降り注いでいる。ときどき店の入り口の自動ドアが開閉し、そのたびに生ぬるい風が頬を撫でた。注文したアイスコーヒーは一度口をつけただけで、汗をかいたコップが折りたたんだ紙を濡らしていた。僕はただ、雨がガラスにあたって流れ落ちていく様を眺めていた。

 どれだけ時間がたっただろう。いつの間にか隣でカタカタとキーボードをたたいていた男性はいなくなり、店内も少し落ち着いていた。大学生くらいの男性店員が同じくらいの年齢の女性店員と小さな声で会話し笑いあっていた。チラッと店内を見回した僕は、また窓のほうに目を移し小さく溜息を吐いた。今日も、ダメか。雨は知ったことかというように、飽きずに路面を濡らし続けていた。

 ふと、視線を感じて顔を上げると隣に少女が座っていた。高校生くらいだろうか。肩の長さで切りそろえた艶やかな黒い髪がよく似合っていた。彼女はじっと僕の目を見据えてそこに座っていた。澄み切った凪のような瞳は、なぜだか僕を落ち着かない気分させ僕は目をそらした。

「何を待っているの」

彼女がしゃべったことに驚いて僕は彼女のほうを向いた。彼女は変わらず僕の目を見据えていた。

「え?」

思わず聞き返した言葉は、しばらくコーヒーの香りと一緒に宙を漂って、それから消えた。彼女は何も言わなかった。聞き間違いだと思いまた窓のほうを向いた。視界の隅で彼女がコーヒーカップを手に取るのが見えた。もう僕のほうを向いてはいなかった。彼女はホットコーヒーにミルクを入れて飲んでいるらしい。こんな蒸し暑い日に、と思ってちらりと彼女を見やると、彼女の服装は夏のものではないようだった。えんじ色のセーターは秋服のようにみえる。それでも彼女は気にした風でもなさそうにコーヒーを啜った。少しばかりの勇気をもって言った。

「何も待っていないさ」

コーヒーカップを置く気配がした。僕は窓を見やったまま彼女の気配に耳をそばだてた。けれど、彼女はどこからか文庫本を取り出すと、それを読み始めた。聞こえなかったのだろうか。カランと音が鳴って溶けた氷が海に落ちた。

 コーヒーは相変わらずおいしかった。まだ薄まってはいない。一気に半分ほど飲んで、コップを置いた。じわっと、折りたたんだ紙が濡れた。店内も変わらず人はまばらだった。小さく流れる音楽とざわざわと聞こえる人の会話が、均一な空気感で店内を満たしていた。先ほどから少女は静かに本を読んでいた。何を読んでいるのだろう。たまに片手でコーヒーカップをとり、一口啜った。彼女のほうを向き、勇気をもって言った。

「何を読んでいるの?」

本を読む気配が消え、彼女は手にしていた本の表紙をこちらに向けた。「雪国 川端康成著」の文字が見えた。本までも季節感がないな。と思ったが、口にはしなかった。

「面白い?」

一拍おいて、彼女の口が開いた。

「報われないもの」

しばしの沈黙があった。何のことだろうか。面白いかどうかの回答にはなっていない。本の内容だろうか。何か別のことを考えていたのだろうか。彼女はさっき僕がしていたように窓を見ていた。けれど、それは窓を見ているようでその奥の景色を見ているのかもしれないし、あるいは何も見ていないのかもしれなかった。何を考えているのかまったく読み取れない。僕はそんな彼女の横顔を見つめていた。彼女は美しい顔をしていた。長いまつ毛が澄んだ瞳にやさしく寄り添い、美しく通った鼻筋が上品な唇をさらに引き立てていた。透き通るようなきめ細かく白い肌は、触ると指の温度で溶けてしまいそうな、それでいてこちらの干渉など受け付けないような、不安定な完璧さを彼女に与えていた。彼女はガラス細工を彷彿とさせた。

「報われない?」

「何を待っているの」

彼女は僕の疑問が聞こえなかったのか、再び聞いた。疑問詞を抜きで話すのが彼女の話法のようだ。

「僕は誰とも待合せてはいないよ」

「あなたは待っている」

僕の気持ちを断定する彼女を見て、驚きよりも先に感心した。それとも僕の顔に何か書いてあるのだろうか。でも彼女は僕を見てはいなかった。文庫本はテーブルに置かれ、彼女はただ外を見ながらコーヒーを啜っていた。カランと音が鳴って氷が溶けた。

 雨は次第に弱まっていた。傘をさす人に交じって、少し濡れながら歩く人もいた。店内は先ほどより空いてきていた。大学生風の男性店員がテーブルを拭いて回っていた。彼女は窓を見ていた。

「自分でも何を待っているのかわからないんだ」

しばしの沈黙があった。また聞こえなかったのだろうか。

「でも、確かに何かを待っているのかもしれない」

沈黙。彼女の表情は変わらなかった。僕も彼女の目の先を追った。スーツに身を包んだ男性が、電話をしながら通り過ぎた。雨はだいぶ小降りになっていた。窓には流れ落ちそうにない細かい水滴がぽつぽつとついていた。彼女は僕の声が聞こえないのだろうか。そう思った時、彼女が口を開いた。

「待っていてもやってこない」

僕は、彼女のほうを向かなかった。なぜだか、胸が疼いた。聞きたくない言葉だった。しかし同時に、真実の言葉でもあった。僕はそれを直感で感じ取った。知っていて、気づかないふりをしていたことに気づかされたのだった。彼女が言葉を続けた。

「あなたがいく」

ああ、そうだ。そうするしかないんだ。僕は彼女の横顔を見やった。肩の力が抜ける感覚がして初めて、自分がこれまで気を張っていたことを知った。心の中で、なにかつっかえていたゴロゴロとしたものが押し流されていく感覚がした。

「僕が、いく」

「あなたがやる」

「僕が、やる」

繰り返した彼女の言葉は、僕の口から言われるのを待っていたかのように輝いた。彼女はコーヒーカップの中を覗いた。その中に何かがあるというように。僕も彼女のコーヒーカップを覗いた。しかし、黒と白とが均一に混ざった液体の中には、何もないように見えた。彼女には何かが見えるのだろうか。彼女はコーヒーをゆっくりと啜った。このやさしい茶色をした液体が、彼女の身体にするすると入っていくのは何だか不思議な気がした。彼女は空になったカップを置くと、その凪のような瞳で僕の目を見据えた。

「 あなたは 自分で 自分を 決定する。 」

澄んだ瞳の奥に、遠く輝くものを見た気がして、僕は目をそらすことができなかった。彼女の顔は目の前にあった。息遣いまで聞こえるのではないかと思った。同時に、僕の身体の中で彼女の言葉が神経や血管の一本一本にまで沁み渡り、心地よく響き渡っていく感覚を感じ取った。これまで味わったことのない感覚だった。

「僕は、自分で自分を決定する。」

彼女の言葉を繰り返した。僕の口にした言葉は、最初から僕の言葉だったかのように空気と調和して僕の耳に届いた。

「あなたにはそれができる」

そこまで言うと、彼女はそっと口づけをした。彼女の艶やかな髪が頬に触れた。彼女の唇は僕のコーヒーよりも甘い香りがした。彼女は顔を離すと、そっと椅子を引いて立ち上がった。そしてそのまま自動ドアをくぐって人波に消えていった。しばらくして、小さな音楽と人の雑踏が耳に戻ってきた。店内はさっきより多くの人で賑わっていた。夢、だったのだろうか。彼女のいたテーブルは何もなかったかのように空席だった。しかし、まだ神経一本一本に沁み渡った彼女の言葉が僕の体に残っていた。僕は残ったコーヒーを一気に飲むと立ち上がった。コーヒーは氷で少し薄まった味がした。雨はいつの間にか止んだらしく、雲の切れ間に青空がのぞいていた。コップの底に重なった小さな氷が、カランと音を立てて澄んだ水に溶けた。

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