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初盆の晩

坂道を登り切るとそこからすぐに下り坂が始まるので、運転に慣れるまで気付かなかった。少し視線を上げると、待ち構えた次の上り坂のその先につるっとした若草山が見えることに。下ると一旦消え、上ると先程よりぐっと近くに現れることに。

このままだと今日から始まったお盆休みの5日間も、アニメとスマホのパズルゲーム三昧で終わってしまう。猛暑とお盆が揃えば、お出かけという選択肢は私にはない。しかしそれではあんまりだ。変わり映え欲しさに「夜のスタバでフラペチーノ」というマイクロサイズの非日常を思いつき、車に乗り込んでお天気アプリを確認したのが、この地方の日の入り時刻だった。
お盆休みの間に観る予定にしているのは、西暦2030年代の世界を描いたアニメ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』シリーズ。脳をコンピュータ化(電脳化)、体をサイボーグ化(義体化)することが一般化した世界を描く、20年近く前に放映されたテレビアニメだ。
運転中に(電脳化してたら、瞬きひとつであるいは思念ひとつで撮れるのに!)と思う景色に出会うことがある。あと8年で電脳化や義体化が普通な未来がここに来ないのは確実で納得済みだが、この50年余りでなぜ黒板とチョークはどうにかならなかったのだろうか。小学校低学年の頃「未来の学校」というテーマで絵を描かされたことがあった。昭和50年代の児童の思いつくことには限りがある。テレビ授業、ロボットが調理する美味しい給食、校舎と校舎を濡れずに移動できる動く渡り廊下、必要になったら2倍の面積になる体育館など似通っていて、自分が通う小学校に足りないものを託したものも多かった。同級生の多くが描いたのが、粉の出ない何かを使って書き、授業が終わるとボタンひとつで文字が消される黒板だった。それは後年のホワイトボードと専用マーカーの出現で叶えられたかのように見えた。しかし、2022年の私は小中学校の教員を養成する新校舎で、黒板を拭き、黒板拭きをクリーナーにかけ、チョークの粉を集めて捨て、床や教卓に飛び散った粉をモップや布巾で拭いて、紺色の制服のお腹のあたりを白くしているのだ。黒板とチョークが使われ続ける理由はあるのだろう。しかしそれに代わるものは生まれなかったのか。てのひらにテレビ電話が乗る時代になっても。
窓の外は刻々と暮れ、光の減退と共に色も沈んでいく。もうじきあの2つの坂に差し掛かる。

光が湧き出ていた。若草山の背後から。月!でかい!満月?と思う間もなく、下り坂になって視界から消えていく。2つ目の坂の上で、小山ほどの弧を持つ月が昇ろうとしているのを真正面から捉えた。
浮遊感がすこし怖い。ドローンなら撮れそうだ。でも待ち構えるより突然偶然出会いたい景色もある。これを撮れないのは惜しいと思い、記憶の中で風景が改変されていくことを諦め、でもこの出来事の輪郭は当分残るだろう。残すよ。池のほとりのスタバまでもう少しだ。

夏の夜のフラペチーノは屋外で飲むに限る。池を見下ろすベンチに座って、月はどうした?と東の空を探すと、聖武天皇陵あたりの上空の雲がぼんやり明るい。
夜にここに来るのは初めてだった。池に信号や街灯や看板の明かりが線になって映り込んでいる。白系・緑・赤。時々黄色の線が出現してすぐに赤に変わる。
前から不思議に思っていたのだけど、点の明かりが水面で線になるのはどうしてだろう? 池から少し離れた所にある物も、まるで池のすぐ近くに存在するかのように地上と水面でシンメトリーな像になるのは何故?月の大きさがソフトボール大からガスタンク大まで違って見えるのはいったい・・・光の性質とか反射とか屈折とか、なんちゃら効果とかだろうか。ネットで調べれば、わかりやすく解説したサイトはたくさんあるだろう。それを読んで私が理解できるかは怪しい。不思議のまま取り置いててもいいんじゃないの?という内なる声に押されている。電脳化されたらこういうこともすぐに理解できちゃう?

あれ? あそこの草、妙な揺れ方してる。私の足元から池に向かって降りていく斜面の途中、ここから斜め下に3〜4mのところ。視角の端で拾った異状に目を凝らす。わからない。運転免許更新に必要な数値をやっと満たす程度の視力ではだめらしい。一旦視線を外す。すぷぷぷぷ。フラペチーノの最後に残ったクリームをストローで吸うのは難しい。あ、また動いた。やっぱり何かいる。虫や鳥よりも大きい塊。まさか光学迷彩?「じっと見る」から「ぼんやり見る」に変えてみる。プレデターだったら瞬殺だな。暗がりごと大きく揺れた。不意に現れた曲線の連なり、これは・・・ツノだ。鹿の。
先週の日中にもこの運動公園内に牡鹿がいた。ここは奈良公園からそう遠くはないが、鹿がよく出没する場所ではない。鹿の生首が空中に浮かんでいる!?と驚いてよく見たら、垣根の後ろからこっちを見ていただけだった。同じ鹿かもしれない。
近くのベンチに座って談笑しているカップルやグループは気づいていないようだ。もし「鹿だ!」と騒ぎだしたら、確実に奈良県民ではない。夜の牡鹿は引き続き雑草を揺らし、いつのまにか消えた。

帰宅後、沖縄に帰省した友人からのLINEで、旧盆がすでに昨日から始まっていることを知った。完璧に忘れていた。いつなのかチェックさえしていなかった。父からも弟からも従姉妹達からも特に連絡はなかった。どうなっただろう。
リビングの隅の「母上コーナー」に目をやる。棺に入れてと頼まれていたのに、決まりで不可になり貰ってきた円空仏っぽい木彫りの像、ドライの蓮の実、グラスの水、花が長持ちしないので代わりに飾ったポストカード。ここひと月ほど代わり映えのしないトレイの上に昨日加わったばかりの無花果。母上、今年の無花果は美味しいでしょ。それに免じてぎりぎりセーフってことにしてくれないかな。



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