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芸能界の社会ってまじどうなってんの

 男性芸能人のセクハラや性犯罪が報道される。
 何年も前の話だと、記事は批判される。
 そんなの女側も分かってただろと、被害を訴えた人が批判される。

 マスコミの残酷さや、被害を訴えることができる女側の優位性への批判は、理解はできる。

 何年も前の話だからと片付けたり、女も悪いと言ったり、芸能人が嵌められただけの話だと主張することは、世の中の流れに果敢に挑戦する、”尖った”主張だとして、主張する本人含め、世間全体が捉えるだろう。でもよくよく考えてみると、その主張は「楽な方向に流れている」だけなのではないだろうか、と思えてくる。

 芸能人のいる飲み会に女性を連れてくる、そんな集まりは日常的にある、真面目な女は来るな、とMYFIRSTSTORYのhiroさんが主張している動画を観た。ぺえちゃんのチャンネルに出ていたときに知った方で、明るい突っ込みと不意なやさしさがなんだか心地よいなーと思っていた。その動画のコメント欄は、hiroさんのファンの方だけだからなのか、世間一般の捉え方がそうだからなのか、賛成するコメントで埋まっていた。

 確かに、女性には松本さんを貶めようとする意図があったかもしれない。性的に消費されることをわかって、集まりに参加したのかもしれない。それでも、だ。そういう理由で批判が成り立つのは、男社会が、システム的にも認識的にも完全に消滅した世界のみである。男尊女卑という主張も同様である。女性に松本さんをはめようとする意図があったとして、その動機については考えないのだろうか。単純に人を陥れる快感を得たいだけだと主張するのだろうか。その女性が、松本さんの言動に、一瞬でも怒りを、侮辱に対する嫌悪を、感じたからではないかと、考えないのだろうか。その時の感情が、何年たっても再現できる、少なくとも、記事になった松本さんが女性に言った言葉は、忘れなかったのだ。
 性的に消費されると分かって集まりに行く、それが批判される前に議論すべきことがあるだろう。”性的に消費されるための女”が、この世に存在すると当たり前のように考える男がいることを、なぜ批判しないのか。真面目な女は来るな、と言い放つことが、自分は人間を消費することを厭わないと声高に叫んでいることになるとなぜ気づかないのだろうか。

 ジェンダーについて”真面目に”考えることはしんどい。面倒くさい。なにげない日常の中の、性別というカテゴリーが、あまりにも自然に、不可分な形で私たちとつながっているからだ。ジェンダーについて考えるほど、日常生活は脅かされる。特に、社会的地位を占める男性や、私を含むシスジェンダー(生まれたときの性器をもとにした性別と、自分の認識している性別が一致している人)の人々は、ジェンダーについて思考を停止することで、いくらかの利益をごく自然に、無意識のうちに独占できているからだ。

 その前提を踏まえてもう一度hiroさんの主張に戻ろう。尖っているというより、自分たちのテリトリーを守っているように思えないだろうか。むしろ体制に従順な印象を受ける。

 ジェンダーに関する話は、センシティブで、一部の人間にとってはリスクが高い。けれども、同じ社会を、同じ地の上を生きる、同じ人間の受けている重圧、差別、生きにくさを解決せずに生きられるほど、私たちの他者とのつながりは脆弱ではないだろう。

 楽な道を選んではいけない。正しい道を見つけなければ、進んでいくことはできない。



 


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