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阪急の中島マンハッタン構想

 1998年に週刊ダイヤモンドに「阪急電鉄が背負うバブルの重荷 数千億円土地開発計画の破綻」なる記事が掲載されました。この土地開発計画についてネット上でのうわさ程度に聞いていたのですが、国会図書館に当時の週刊ダイヤモンドがあることがわかり、数年前に国会図書館へ行った際記事を確認していました。

 掲載されたのは週刊ダイヤモンド1998年6月27日号です。バブル崩壊から癒えぬまま阪神淡路大震災という天災により阪急電鉄の経営状態は悪化、記事では阪急電鉄の"側近秘密経営"(記事より)が批判の対象となっていました。   この記事の核となる阪急電鉄の経営方針について特に批評するつもりもありませんが、その記事の中で取り上げられていた中島マンハッタン構想は非常に興味深いものでした。
 そんなわけで今回はこの計画について書いてみたいと思います。

マンハッタン構想の舞台 中島とは?
 大阪在住の方でも中島という地名を知っている人は少ないかと思います。(新大阪近くの西中島南方ではありません。)それもそのはず、この中島は大半が工業・物流の拠点に利用されており、繁華街とはかけ離れた場所です。大阪市西淀川区に位置していますが、立地としては阪神尼崎駅にも近い、いわば大阪の端の端です。

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中島にマンハッタンを作る・・?
 その昔、丸の内マンハッタン計画なるものがありました。これもバブル期に三菱地所主導で丸の内一帯に高さ200m級の超高層ビルを林立させ、日本のマンハッタンにする計画でした。この中島マンハッタン構想も同様で、阪急電鉄はこの中島にマンハッタンを作ろうとしたわけです。

関西企業の雄、阪急電鉄が中心となって、銀行・商社などとともに高層ビルが林立する「大阪のマンハッタン」建設を構想したのはバブルの絶頂期。大阪ベイエリアでは建設途上の関西新空港を軸に、無数の再開発計画が打ち出されていた。(週刊ダイヤモンド1998年6月27日号)

 十三(手前)から中島マンハッタンを望む・・・バブル崩壊が遅れていれば中島に本当にこのような高層ビル街ができていたのかもしれません。

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新線建設
 都市部では貴重な、広大な開発用地を確保できるというメリットが中島にはありましたが、前述の通り既存の繁華街・オフィス街とは程遠い場所です。交通アクセスは当時、尼崎と西九条を結ぶローカル路線だった阪神西大阪線と路線バスのみと、既に超高層ビルが立ち並んでいた梅田や難波と比べればそのアクセスは極端に悪いものでした。
しかしながらそこは阪急"電鉄"。十三から中島への鉄道新線を敷設も計画をされていたようです。
 当時、阪急電鉄ではこの計画とは別に、十三~新大阪~淡路間の新大阪連絡線、十三からなにわ筋線へと向かう連絡線の建設構想がありました。(最近に再び動き始めましたね。) これらが完成されれば十三は、京都・神戸・宝塚・梅田だけでなく、新大阪や関西空港にもアクセス可能な乗換駅として、開発が進んだものと考えられます。

JAN計画
 阪急沿線は一般的にハイソな(最近使いませんね)住宅が立ち並ぶイメージです。しかし十三と淡路は利用の多い駅でありながら駅にはどこか昭和が残っています。近年でこそ再開発の計画が発表されたり、また淡路では高架化が進展していますが、当時はまだまだ昔の風情を残していました。
 裏を返せば阪急電鉄にとっては、同業他社の乗り入れもない両駅は今でいうブルーオーシャンであったわけで、前述の中島マンハッタン構想とともにこれらの駅の再開発も計画をされていたそうです。これらの計画を総称してJAN(十三・淡路・中島)計画と呼ばれていました。


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 しかし呼ばれていたといっても、実際にこの計画を知っていたのは社長以下数人のみ。中島・十三・淡路の土地には数千億円がつぎ込まれており、これほどまでに巨大なプロジェクトを秘密裏に動かしていたこととなります。ここが週刊ダイヤモンドが"側近秘密経営"と呼んだ所以です。
 しかしながら、阪急とはいえ一私企業がなぜこれだけの大規模な都市開発を計画できたのでしょうか。この背景にはバブル経済という当時の世相がありました。住宅需要は安定的に伸びると想定されていた当時、阪急電鉄は大阪北部の国際文化公園都市(彩都)を金の成る木とみていたわけです。すなわちJAN計画に巨額投資を行っても彩都でカバーできると・・

 この「国文」*国際文化公園都市 は、いわば阪急の大規模開発ラッシュを支えるキープロジェクトで、ここで得られる収益がJANをはじめとする大規模開発の原資となるはずだった。当時をよく知る阪急関係者によれば、簿価が低いだけに、バブルの絶頂期の地価水準から考えれば、長期的な収入は二千五百億円はくだらない、と算段されていたという。(週刊ダイヤモンド1998年6月27日号)

 しかしこの国際文化公園都市も開発が遅れ、分譲が始まったのは住宅需要が落ち込んだ2000年代になってからでした。また産業用地への企業の進出も思ったほどは進まず、現在も開発は約半分程度で事実上の凍結状態となっています。またモノレールの延伸計画も途中までで中止となりました。そして1990年代後半以降、阪神大震災の影響や土地の評価損から阪急電鉄の業績は次第に悪化していきます。


最後に
 私は長らく阪急沿線に住んでいました。震災以降、新車を一向に投入できず、JRに対しては守勢一方のように思えたり・・阪急ファンからすればこの90年代後半から2000年代前半までを厳しい時代だったと記憶している方も多いのではないでしょうか。その裏で、阪急はバブル期の開発プロジェクトによって生み出された負の遺産と戦っていたわけです。
 しかし阪神電鉄の買収前後でしょうか。主観的ではありますが、阪急はこれを克服し、輝きをとり戻したかのように見えました。その後継続的に鉄道事業にも投資が行われ、最近になり新線計画を打ち出しているのはまさにその証左といえます。
 これから加速度的に進む人口減少、またテレワークの普及など鉄道経営はより厳しい時代となるかもしれません。しかし阪急お得意の多角経営、そして他にはない強力なブランドの力でこの厳しい時代を乗り切ってもらいたいと思います。

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