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#0 はじめまして

はじめまして。
ふかだもとみと申します。

長い長い自己紹介をします。

熊本の八代というところで生まれ育ちました。実家の前には田んぼが広がり、後ろには山があり、自転車でちょっと行くと海が見える、のどかで自然豊かなところです。
両親共に熊本の人で、私の知る限り先祖代々熊本で暮らしていた家族のようです。

実家付くで撮影

高校まで八代の実家で過ごして、大学入学と同時に東京で暮らしはじめました。子どものころから言語に興味があったこともあり、大学では理論言語学にドハマりしました。言語という目に見えないものを美しい理論で示すことができる、そんなところに強く惹かれました。特に統語論というマニアックな分野にどっぷり浸かっていて、言語学の本場であるアメリカの大学で交換留学生として1年間学びました。大学時代はとにかく興味が引かれることを本能の赴くままに吸収しました。

大学のキャンパス 
芝生に寝転がると気持ちいい
留学先のアメリカの大学のキャンパス 
冬は極寒で雪もつもる

大学4年生の夏に留学から帰って来て就職先を考えねばという時期でしたが、必死に学んだ言語学がキャリアで役に立つとは到底思えず、仕事では何か全く新しいことをやってみようと思いました。そんな時思い浮かんだのが高校3年生で大学入試のため東京に滞在していた時のことです。路上で生活しているおじさんたちがそこにいたのです。それ以前も路上で生活している人がいるということは知っていましたが、実際にその人たちを目の前にしたのはかなりショッキングな体験でした。その後、炊き出しに参加したりしたこともありましたが、課題の根本的な解決には別のアプローチが必要だと思っていました。そんなことを色々考えて、経営コンサルティングの会社に就職しました。

最初に就職したその会社は静岡で地元の中小企業を対象にコンサルティングを行っていました。私にとっては全てが新しいことで戸惑いつつも必死に食らいついていましたが、残念なことに社内の雰囲気と全く合いませんでした。家族経営的な雰囲気で、仕事で成果を出すためには人間関係にとても気を使う必要があったのですが、当時の私にはそのような概念はなく、日本らしい空気を読みながらの人間関係の作り方も苦手でした。実際の仕事内容も目指していた社会課題解決へつながりそうにないと思い、長時間労働だったこともあって半年くらいで辞めてしまいました。

そして、自分のキャリアをどう作って行こうかと再び考える時期が思っていたより早くやってきました。今度は社会課題よりも自分の興味に近い仕事をと考え日本語教師を選びました。アメリカに留学していた時に、日本語を学ぶアメリカ人学生たちとの出会いが自分にとって楽しい時間だったことを思い出しました。日本語教師について調べていくと、資格の取得が必須で、そのためにお金と時間が必要であることが分かりました。そこで、日本語教師の資格を取るために勉強して、その間生活のために働くことにしました。その時に英会話学校で仕事が見つかりました。

子どもの頃英会話学校に通っていて雰囲気はなんとなく知っていたので英会話学校には無理なく馴染めました。大手の会社でいくつも教室を運営していたのですが、私が働いていた教室はアットホームな雰囲気でした。同僚はアメリカ人だったりアメリカからの帰国子女だったりしてアメリカにゆかりのある人ばかりでとても居心地が良かったです。生活のためにと思って働いていましたが結構楽しんでいました。大人から乳幼児まで幅広いクラスを担当させてもらっていた中で特に子どもクラスが好きでした。元気いっぱいの子どもたちと歌ったり踊ったり遊んだりしながらエネルギーをたくさんもらいました。

日本語教師の資格も順調に取得し、日本語学校でも働き始めました。東京には日本語学校が数多くあり色んなタイプの学校があるようだったので、非常勤としていくつかの学校で働いてみようと思い3つの学校で働きました。1つ目の学校は設立して間もない学校で、ネパールとウズベキスタンの学生が多いところでした。2つ目は比較的歴史の長い学校で規模も大きくかなり多国籍なところでした。3つ目は老舗で日本語教育の専門性が高く教科書など出版したりしているところでした。日本語教師の仕事はかなり楽しかったです。色んな国から来た学生から母国のことを教えてもらったり、外から来た彼らから日本がどう見えるかを聞いたり、とても刺激的で勉強にもなりました。

ネパールで流行っている髪型を教えてあげると言ってネパールの学生が髪を編んでくれた


同時期に知り合いの紹介でインドの子どもたちにも家庭教師として日本語を教えてみたりして、子どもに外国語としての日本語をどう教えればいいか試行錯誤したことも良い経験になりました。

日本語教師の仕事はかなり楽しんでいましたが、自分のキャリアについて考えた時にもう一歩専門性を高めたいと考えるようになりました。同時に、日本語を教えることよりも日本語の支援をすることに関心が高まっていきました。

そのきっかけとなった出会いがあります。知人の紹介で公立小学校でフィリピンの子どもたちに日本語のサポートをするボランティアをしていた時のことです。小学校の途中でフィリピンからやってきたその子たちは日本語をあまり話すことができず、クラスにもなじめていませんでした。先生たちも外国の子どもを受け入れた経験が少ないのか、どう接していいか分からない様子でした。そんな中で先生たちも私も精一杯努力しましたが、学校に来ることができなくなって結果的に不登校になる子もいました。

どうしてこんなことが起こっているんだろう、どうしたらこの状況が改善するんだろう、そんなことを考えて、外国の子どもたちを支援する地域の団体の活動に参加し、大学院でも学ぶことにしました。私が参加していた団体では外国の子どもたちの居場所づくりをしています。毎週開かれる学習教室に通って勉強しながらそこにいる大人の人たちと信頼関係を作っていくことで子どもたちは自分の居場所を見つけていきます。大学院では、その学習教室で起こっていることを言葉にして論文としてまとめました。

学習教室のクリスマスパーティーの様子
遠足で海に行った時の様子 
海に入る予定はなかったのに服のままじゃぶじゃぶ海に入る子どもたち

それからは、外国の子どもたちの支援を専門としている団体で働いてみたり、現在も、日本に住んでいる外国人の支援をしている団体で仕事をしています。どうしたら外国の人も日本の人も日本で豊かに幸せに暮らしていけるんだろうか、そんなことを考えたり考えなかったりしている日々です。

最後まで読んでくださって感謝感激、有難いです。

私がこれまで海外で出会った人たちや日本で出会った海外出身の人たちのことをこれから色々と書いてみたいなと思っています。


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