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オッカムの本質と神学的基礎づけ

レポートを投稿するシリーズの第2弾です。

1. オッカムの本質

存在と本質 

 ウィリアム・オッカムは、本質とは、外界に存在するようなものではなく、言語的、論理的な次元で成立するものだと考えた。それにあたり、オッカムは、「存在」と「本質」を明瞭に区別する。たとえば、馬を例としてあげたとき、この現実世界に存在する一体一体の馬それぞれが馬という「存在」であり、ここで用いられる「馬」という言葉が馬の「本質」を表している。このとき、馬の「本質」は、「馬とはなんであるか」という「馬性」なるものを表すものとして考えられている。
概念と本性を対応づけ
 外界にある「存在」は、馬であれば、白い馬もいれば茶色い馬もいる、といったように、一個体ごとに異なった存在である。したがって、ある種や類に属するすべての個体がまったく同一であることは考えられず、「存在」は普遍性をもたない。しかし、また同時に、こうしたあらゆる「存在」は、馬であれば「馬」と呼ばれるにたる共通の性質、すなわち、馬性を有しており、さらには、馬を「馬」と呼ぶ人間も「馬」の概念を有していることがわかる。このように、われわれが、馬を馬であると理解するときには、馬の本性と「馬」という概念がつねに対応づけられているのである。
 オッカムは、本性と概念の対応について、普遍と関連させてこのように述べている。「どんな普遍も単一な個別的なものであり、それが普遍であるのは、それが多くのものの記号であり、多くのものを表示する働きをするからである。(中略)普遍は、心の中の、多くのものに述語づけられる本性を有する一つの個別的な観念である。その観念が、多くのものに述語づけられ、自らをではなく、多くのものを代示する本性を有するが故に「普遍」と呼ばれ、しかるに、その観念が知性のうちに実在的な仕方で存在する一つの形相であるが故に「個」と呼ばれる。」
 ここで、普遍は、個別的な「存在」であり、記号、つまり、言葉として、その本性が表示されるために、それが普遍たりえるものだと考えられる。「述語」すなわち言葉を、オッカムは普遍性を持つものと考える。そして、この言葉によって、「存在」を述語づけるという仕方こそ、この本性と概念の対応づけの方法なのである。

心の観念

 では、この述語づけるとは、より具体的にどのような作用であるのか。オッカムの言葉を見てみたい。「心の観念が述語づけによって、外界の複数の事物に共通の普遍なのである。……外界の事物の側には、端的に個である物以外には、何も存在しないのだからである。」まず、述語づけは、外界の事物の「個」を言葉によって表現することからはじまる。このわれわれが言葉によって「個」である「存在」を表現しようというとき、同時に、われわれの心の中にも、その「存在」の観念が浮かんでいることに気付く。心の観念は、外界に存在するものではないがゆえに、形而上的立場が与えられ、よって、複数の事物に対して普遍性を持つだと言われる。したがって、述語づけとは、たんに「存在」を指示するのみならず、普遍性を指示する心の観念をも呼び起こす働きをなしている。

2. 神学的基礎づけ

言語は普遍的か。

 ここまでで、オッカムの説く「本質」は、論理・言語的次元で成立するものであり、普遍性を持つことがわかった。だが、言語が普遍性を持つという論証はまだなされていない。たとえば、A=Aという論理は、いつでもどこでも成り立つ普遍的なものである。しかし、一方、言語は時とともに、意味内容が変遷していくもので、また、同じ記号が地域によって異なる指示内容を持つこともある。さらにいえば、語の概念が個人によって相違することもしばしばある。それでもなお、言語は「本質」を表す普遍的なものたりえるのであろうか。

神学的基礎づけ

 オッカムは、言語の普遍性を論証するにあたって、神学的な基礎づけを行った。この世のすべての個物は神の被造物であり、また、神自身もある個物である、とオッカムは考える。しかし、神は、単なる個物ではなく、あらゆる存在を包括する単一の存在であり、それらすべての本質と同一の存在である。したがって、あらゆる存在は、神にその本質を与えられていると言えよう。このとき、この本質とは、われわれ人間の論理や言葉によってのみ表現されうるものであり、よって、言葉もまた、普遍者たる神によって与えられているのである。このようにして、言葉が普遍的なものであることが言われるのである。

心の次元

 とはいえ、言語はつねに変遷を遂げてきたものである。それでも、言語が普遍的であるとはいかなることであろうか。
 先述のとおり、述語づけは、心の観念を思い浮かびあがらせる。この時用いられる述語は、たしかに、われわれが日常で交わす変遷的なものだが、しかし、ここに現れる心の観念は、それが言語を契機として現れたものであれ、必ずしも言語によって構成されるものである必要はない。ならば、この心の次元においては、この観念が普遍性を帯びることは可能である。オッカムは、まさに、この心の次元において言語が普遍的であることを表そうとしたのではないだろうか。

3. さいごに

 オッカムは、「存在」と「本質」を区別し、述語付けという言語的作用によって、「存在」と「本質」が同時に指示されると考えた。また、言語の普遍性は、神学的に基礎づけられる可能性がある。よって、神学的立場を支持するのであれば、このオッカムの存在論も、ある程度論理的によく構築されたものだと言えるのではないだろうか。

(以上レポート)

〈感想〉

オッカムの本質とその論拠について書いた。
自分自身で読み直してみても、なんかのっぺりとしていて、新鮮さを感じられないのは、オッカムの理論の古さゆえではなく、まったく私の文章の所為だ。
論文ゆえ仕方ない部分もあるのだが、同じ内容を記しても、表現者が変われば、言葉も変わる。
面白い論文は、その内容もさることながら、表現が実に豊かに展開される。
文章を書くときは、言葉にこだわって書きたいなぁ、なんぞと思いつつ、まあ、授業のレポートなのでそこに時間をかける必要はなかろうと、理想と現実の数直線上を移動している。

※引用箇所は、授業で配布されたものから引いているので、引用元は記していません。

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