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子どもを大切に想う気もちが「心配」では伝わらない理由

わたしたちは、
「心配をすること」=「愛していること」「大切に想うからすること」
と、体験で学んできています。
 
子どもが不登校になった時にも、
勉強に遅れることを心配し、人間関係を築けなくなることを心配し、
将来を心配し、とにかく心配でいてもたってもいられなくなるもので、
わたしも、ありとあらゆることを心配して、いろんなことを考えました。

当時は必死でいたけれど、
心配されることはとても気が重いことで、
息子自身、ただでさえ考えることがあるのに
さらに不安に追い込んでしまったと思います。

一言でいうなら、わたしは、
「心配した」=「迷惑をかけた」と思っています。

でも、開き直るでもなく、心配をすることは仕方がないことで、
わたしは「心配」=「愛」と思い込んでいたのです。

なので、心配することを、なかなかやめることができませんでした。

「心配」=「愛」というのは、
戦争中など、不安や恐怖がベースにある時代の表現で、

今の子どもたちには、
「心配」は「愛」「思いやり」として届きません。

戦争中などの、いつ死が訪れるかわからない、
生きるか死ぬかの毎日を過ごしていたら、
相手を思いやる気もちは、
「大丈夫ですか?」「元気ですか?(死んでいませんか?)」
「どうか生きていてくださいね」
「どうか奪われないでいてくださいね」と。

奪われることが前提だからこその
「心配」という表現になります。
そして「心」よりもなによりも「肉体」があることを願う。

どんなに本人に生きる気もちがあって、やる気があって、
能力があって、向上心があって、いい性格であっても何であっても、
そんなことより、「肉体」がありますように!

本人にはなんの決定権もなく、主導権もなく、
いつ突然「肉体」がなくなるかわからない毎日なのだから、と。

「奪い合い」の時代に、
「奪われないこと」を願う時代の「愛」が「心配」です。

でも、今の子どもたちに戦争はなくて、
生きるか死ぬかの毎日は終わって、
「肉体」の維持をいつもいつも気にかける時代は終わりました。

本人のやる気、能力、次第で
人生を歩んでいける時代になりました。
「生きること」=「奪われないこと」ではないのです。

そうすると、「愛」が「心配」から「信頼」に変わります。

自分のことを、自分の心を信じて人生を切り拓く、
自分の個性や才能、能力を分かち合うことが「生きること」に
なりました。

かつては「愛」だった「心配」は、相手に届く時には、
「自分は、ダメなのか?」
「自分が思っている以上に、わるい状態なのか?」
「なんで、自分のことをできないって決めつけてくるんだろう!」
と、相手にとっては、とても居心地がわるいものとなります。

自分を疑ったり、自分に対して不安になったりするので、
「心配」を、怒りで拒絶を現すようになるでしょう。
「心配」を受けとりすぎて、心を病むようになるでしょう。

「心配」を突き返された時に、
「なによ、心配してる(大切に想ってる)だけなのに、、」なんて、
子どもに全然伝わらないことに
腹を立てたり、悩んだりすること、ありませんか?

子どもたちが住んでいる世界が、子どもたちの生きている時代が、
わたしたちとはまったく違うのだから

「心配」は、「愛」「相手への思いやり」として
伝わらないのは、仕方がないんです。

心を病んだ子どもが、「心配されすぎて苦しかった」と
言い出すことがあっても、仕方がないんです。

誰がわるいということではなく、
時代が変わったのだから、
今に合わせていく必要がある、
というただそれだけのことなのです。

それだけのこと、とは言え
とっても大変でひとりではできないことだから、

相手に伝わるように、伝える。
自分の価値観や、愛の定義を変えて、伝えていくこと。
一緒に始めませんか?


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