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データと手触りのはざまで

おはようございます。今日はデータと手触りのはざまにいようよ、という話。

私が今取り組んでいる仕事は、センシングしたデータを分析して、アウトプットして、価値をつくったり、その先のサービスやプロダクトの種にしたりするっていうことをやっています。データって、おもしろくって、世の中的には「Aですよ~」と声高に言われていることも、よく紐解くと実はそうじゃなかったり。また、データとデータを合体させて、新しい主張を作ったり(それが正しいかは別にしても。)…一つ数字が入るだけでやたら説得力が増すわけです。

数字って、わかりやすいですよね。2は1より多いし、売り上げなら多いほうがなんとなくいいし、体重なら少ないほうがなんとなくいいし(それは私だけか。)という感じで、数字の裏側にあるものも、言葉にしなくても共有できるので、まぁ便利、わかりやすいです。

すこし話がそれます。以前、シュタイナー教育に興味を持って調べていた時に出会ったお話。シュタイナー教育では、「1+7=?」という問いかけではなく。「8になるのは何がある?」という問いかけをするそうです。そうすることで、答えは一つではない、という感覚が身につくとのこと。日本の一般的な教育を受けてきている人達にとっては、前者の問いかけが普通ですよね。先ほど書いた、数字ってわかりやすい、っていうのはこういった一般的な教育を受けたことが背景にあり、またそれはより広がることができる発想を狭めているのかな、なんてことも感じたりします。

話を戻します。私は一度答え?として出てきているデータに向き合って、差分を比較したり、くっつけたりして新しい何かを言語化しようとしているのですが、日々違和感を感じるわけです。

本当に?と。

同じ属性、同じ結果がでたとしても、その裏側にあるものってあるよね、そこに至るまでのものって違うよね、って。だからこそ、かけてほしい声も寄り添ってほしい方法も違うよね、って。そんなことを言い始めるときりがなくって、答えを出せないことはわかっているし、データですべてを解決できるとみんな思っていないとも思うのですが、どうしてもわかりやすくて強い数字をもっているものが通りやすくなってしまう、この社会になんとか手触り感のあるものを滑り込ませていきたいと思うわけです。

また、そういうものが選ばれる社会だと思うし、そういう社会にしたいと思うのです。

左手にデータをもって、右手にざらっと手触り感をもって、ぐるぐる頭を回しながら生きていきますよ、という話でした。

それでは、また。

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