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グッナイ・マイ・サマー

 海がひかる、
 ナツの棲む、とおく淡い海が。
 
 

 
 茹だるような暑さにうなされるたび見知らぬ海辺のまちの夢を見る、街灯のひとつさえないくせに、やけに明るい、けれど、いつだって夜のまち。明るいのは星がみんな落ちてきたみたいに、ううんもっと、一晩中、水面で花火が咲いているみたいに、海が光っているからだった。
 そのまちでのぼくはうんと自由で、清潔な木製の家を出て、ちいさな市場で蒼いりんごを買って、かじりながら浜辺をとろとろと歩く。浜辺はとくに明るいので、そこで座り込んで家から持ち出した古い本を開くのだ。魚の骨みたいな文字がならんでいる、こんな文字読めるはずない、とはじめは思ったのだけれど、どうしてか、すらすらと物語は頭に流れ込むのだ。
 夢って、ほんとうに都合よくできている。
 

 その本に書かれているのは、このまちに伝わる童話だった。かつてはクジラの神に守られ、昼と夜が順番に訪れる平和なまちだったここは、海に祈るものが減り、信仰が薄れていくにつれ夜に満ちるようになり、いつしか昼を失ってしまった。 
 暗く、海の底に沈んだようなまちで暮らす人々は、ある日、海に流れ着いたぼろぼろの少女を助ける。 
 少女を助けてから、まちでは不思議なことが起こり始める。陽がなくなってから育ちの悪くなった果物や作物が見たことのない蒼い色で大きく実りはじめ、海は、夜漁を助けるように時折ちかちかと光りだす。相変わらずあたりは暗いまま、けれど、人々は少しずつ明るさを取り戻していった。
 しばらくそこで暮らしていた少女は、そのうち、どこかさみしそうな瞳で、毎日祈るように海を見つめるようになる。その姿を見ていた人々は、少女が、昔いたあの海の守り神のこどもであること、故郷である海に帰りたがっていることに気づく。
 ずっとここを守ってくれていたかつてのクジラへ、またここに光を取り戻してくれた少女への感謝のための盛大なお祭りに見送られて、少女は海へと帰り、その日から、海は昼よりもやさしく、明るく光るようになったのだ。 
 
 
 
 ぱたんと本を閉じて、目を瞑り海をおもう。
 ゆっくりとまぶたが持ちあがるのとおなじくらいに、聞き慣れた声がする。 
「また、その本読んでたの」
「これを読んでいると、ナツが現れる気がするから」
 海みたいな深い青色のワンピースが今日もよく似合っている。あっちのナツにもプレゼントしてやろうかな、と、眠る前の世界で夕飯に使うトマトを刻んでいた同じ顔の恋人のことが浮かんだ。
「そんなもの読んでいなくたって、この海で思い出してくれればいつだって会いに来るのに。そもそも、呼んでるのはいつもわたしなんだから」
「そうだったね」
 浜辺を訪れる人々には、ただの恋人同士に見えているだろうか。そうだったらいい。まさか、彼女がお話の中の少女だなんて、この海を、まちを守る神さまみたいなものだなんて、誰も気づきやしない。
 ナツは軽やかに隣に腰をおろして、そうすることが当たり前みたいに自然に、白い手をぼくの角ばった手に重ねる。
「ねぇ、おんなじわたし同士でも、魂がおなじでも、別の世界でこうしていたら浮気になるかな」
「どうだろう。ナツがこの世界だけのナツだとしたら、きっとぼくも、今はこの世界だけのぼくだから問題ないよ」
「そっか。でも、あっちのわたしはヤキモチやいたりするかも」
「そうかな」
「うん。わかるの、だってわたしのことだもん」
 ナツは悪戯っぽく笑うと、重なったぼくの手をひろって持ちあげて、きゅうっとにぎる。それからほんの少しさみしそうにぼくを見つめて、ゆっくりとキスをした。
 今回もそろそろ、お別れの時間らしい。
 
 
「ねぇ、ちゃんとあっちのわたしを離さないでいてあげてね。海を守る役目もなんにもない、あなただけのわたしが、なんかの拍子に間違って海に誘われたりしないように」
 あぁ、と応えた言葉がちゃんと声になってナツに届いたかは分からないまま、ぼくの意識は溶けていく。最後にぼくを見つめるさみしそうな瞳を思い出して、お話の中の彼女が海を見つめるとき、あんな瞳をしていたんだろうかと思った。 
 それならなんのためらいなく、ぼくはナツを離さずにいられる。目を覚ました先の世界のナツは、きっとぼくを、この家を、海にしてくれる。
   

 
「おはよう」 
 貝殻みたいな白いワンピースを着たナツが、目覚めたばかりのぼくの顔を覗き込む。
「よく寝てたね。夜眠れなくなっちゃいそう」
「そうだね。ねぇナツ、そうしたら、眠れなくなったらさ、海に行こうか」
「突然だなぁ。海の夢でも見たの?」
「うん。浜辺を歩きながら、聞かせてあげるよ」
「そんなにいい夢だったんだ、楽しみ」   
「ナツは嫉妬するかもしれないけど」
「なにそれ、どんな夢なのよ。そしたら、海において帰ろうかな」 
 くすくすと笑うナツに、 蜃気楼みたいにあの夢が重なる。
  

 
 
 ひからない海、
 めぐる昼と夜に揺られるぼくたちの棲む家、
 青い青いナツのいない、冷たくて鮮やかな海。








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