『文豪ストレイドッグス』における豊饒の海――三島由紀夫の『豊饒の海』と、『文豪ストレイドッグス』の天人五衰事件や白紙の文学書の関連性に纏わる一考察――
※この記事は『文豪ストレイドッグス』に関する考察となっております。
※今回は備忘録メモはありません。書き終わってから、口語体じゃなくて文語体で書いてしまったことに気づきましたが、直すのが億劫だったのでそのまま投稿致します。お許しを。
はじめに
フョードル君(ドス君)が本格的に動き出した『共喰い』編から地続きで現在も連載されている『天人五衰事件』編。
その題名となっているのが、ドス君もメンバーとして参加しているテロ組織『天人五衰』である。
メンバーは、組織名が示す通り五名。
地下組織の盗賊団『死の家の鼠』の頭目であるフョードル・ドストエフスキー。
現在、ムルソーにてニコライゲーム(ゴーゴリゲーム)を主催している、「感情という洗脳から自由であると証明する」という目的のために奔走しているニコライ・ゴーゴリ。
天空カジノの総支配人で頁から生まれた過去を持たない人間故に「家」を求めて『天人五衰』に参加した本名不明のシグマ。
北欧の伯爵で、かつては『人類を滅ぼす十の災厄』にも数えられた、『不死公主』のブラム・ストーカー。
そして、虫太郎君曰く、彼らを束ねる総帥である、『天人五衰』の首魁・神威。軍警最強の特殊部隊《猟犬》の隊長・福地桜痴。
この『天人五衰』の仏教的な意味、衣裳垢膩、頭上華萎、身体臭穢、腋下汗出、不楽本座は作戦の第二段階で探偵社を嵌めるために引き起こされた五つの事件という形で再現され、しっかりと回収されている。
ゴーゴリ(ニコライ)は作中で「天人の世の終焉を告げる五指」と自分達のことを呼称しているが、それは天人=為政者を輪廻させる自分達のことを『天人五衰』という言葉と重ねているものであり、構成員一人一人が五つの言葉と合致する造形がされている訳では無さそうである。
シグマについて
『天人五衰』の構成員、シグマについてはそのモデルについて複数の考察がなされている。
過去記事でも度々引用させて頂いているものあし様も、モデルが三島由紀夫であるという説と、サンテグジュペリであるという説、安倍工房であるという説の三つを扱っていた。
実は私も安倍工房がシグマのモデルであるという説に同意している。
シグマと安倍工房作品の登場人物の間では様々な類似点が見られるが、今回はその中で『壁―S・カルマ氏の犯罪』の主人公との類似点について確認したい。
『壁―S・カルマ氏の犯罪』は主人公のぼくが名前を書くことができなかったことから始まる。
身分証の名前が消滅して自分という存在を証明できなくなった主人公は白紙の文学書から生まれた故に名前と帰属する場所を持って生まれなかったシグマと重なっている。
帰属する場所を失くした主人公の彼はその後、砂丘風景を胸の中に吸い込んだことや、動物園のラクダを吸い込み掛けたことから窃盗罪で捕まり、裁判に掛けられることになる。
持っていた異能力故に利用されて犯罪者にされてしまったシグマと、自らが望んだ訳でもなく窃盗罪で捕まり裁判に掛けられる主人公もとてもよく似ていると言えるだろう。
他にも、様々類似点があるが、シグマに関する考察についてはここまでにしたい。
安倍工房の作品集『壁』については大学時代の先輩の素晴らしい論文があるので、興味がある方はそちらをご一読頂きたい。
テロ組織『天人五衰』と三島由紀夫
文学という視点で『天人五衰』というものを考えた場合、どうしても避けて通れないものがある。
それが、三島由紀夫の『豊饒の海』である。三島由紀夫が最後に目指した「世界解釈の小説」や「究極の小説」と形容されるこの小説の最終巻の題名は『天人五衰』であり、テロ組織の名称とも合致する。
テロ組織『天人五衰』の首領の正体が判明するまでは、三島由紀夫こそがテロ組織『天人五衰』の首領の異能力者ではないかという考察がなされていたようである。
しかし、実際は『天下の双福』の片割れである福地桜痴こそがテロ組織『天人五衰』の首領・神威であった。
――三島由紀夫は『天人五衰』の首領の元ネタの文豪では無かった。だが、『天人五衰』という組織に三島由紀夫が関わっていない筈がない。ならば、正体不明のシグマの正体が三島由紀夫なのではないか。
シグマ=三島由紀夫説は、こうした思考の飛躍により拵えられたものであると思われるが、私はサンテグジュペリ説や安倍工房説に比べてどうにも根拠が薄いように思える。
では、三島由紀夫はこの『天人五衰事件』に全く関わりのないのかと問われると、私にはそうは思えない。
私は『天人五衰事件』に関わるものに、シグマ以上に三島由紀夫や『豊饒の海』の影響を受けたと思われるものが二つあると考えている。正確には一人と一つ、ではあるが。
まずは、テロ組織『天人五衰』の首領・神威の正体である福地桜痴である。
本題に入る前に、まずは史実の福地桜痴の最晩年を確認したい。
歌舞伎座の座付作者となって活歴物や新舞踊などの脚本を多数執筆していた福地桜痴は明治三十六年に市川團十郎が死去すると舞台から手を引き、政界返り咲きを企図して翌年の第九回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補して最下位当選を果たすが、その頃には『天下の双福』と呼ばれるほどの影響力は失われていた。
一方、『文豪ストレイドッグス』における福地桜痴は大戦後、三度映画化されるほどの影響力を持つ存在となっている。
朝霧カフカ先生は、よく史実の立場と作中人物の立場を逆転させることがあるが(例として挙げられるものの一つに太宰治と芥川龍之介の関係がある)、ただ晩年の福地桜痴の立場を反転させたものが『英雄』福地桜痴であるとは少し考えにくい部分がある。
ここで、晩年の三島由紀夫について考えてみたい。
昭和三十四年、三島由紀夫は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌年の昭和三十五年には『からっ風野郎』でチンピラ的なヤクザ役を演じている。また、昭和三十六年には後に自身で監督・主演で映画化する『憂国』を『小説中央公論』に発表、同年九月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになるなど、メディアへの露出が比較的多い人物であった。こうしたメディアと関わりが深い点は活躍が三度映画化された福地桜痴とも重なってくる。
三島由紀夫は最晩年、自身が隊長を務める「楯の会」のメンバーと共に憲法改正のため自衛隊に決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件、通称三島事件を引き起こした。
ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、日本国外においても広く認められた作家の引き起こした前代未聞の事件は日本国内だけでなく、海外にも衝撃を走らせており、世界的な著名人が世界に影響を及ぼすほどの事件を引き起こしたという点では、ある意味で三島事件は『天人五衰事件』と共通点があると言えそうである。
ここで、木春氏の織田作之助不在説を引用したい。
この論では、『文豪ストレイドッグス』の織田作之助と実在する作家レイモンド・チャンドラーの類似点が考察されている。
こういった例から、別の作家の要素が組み込まれて『文豪ストレイドッグス』の登場人物が作り出されている可能性が浮かび上がってくる。
私は、こういった他の作家の要素を含んだ作家に『文豪ストレイドッグス』における福地桜痴も入るのではないかと考えている。
一方、『文豪ストレイドッグス』における福地桜痴と三島由紀夫にも大きな相違点がある。
三島由紀夫は風邪で寝込んでいた母から移った気管支炎による眩暈や高熱の症状を出し、徴兵検査で肺浸潤と誤診されて徴兵を免れている。この戦争に行けなかったという点が三島由紀夫のコンプレックスとなり、その後の人生に大きな影響を与えている。
他方、『文豪ストレイドッグス』における福地桜痴は大戦を経験して、大きく考えを変えることになった。
三島由紀夫は晩年、憲法改正という国内の目標に向かって動き、一方の『文豪ストレイドッグス』の福地桜痴は全世界テロという世界を巻き込んだ目標に向かって動き出す。
対照的な二人の在り方だが、その根底には「戦争」がある。
こうした、対照的な点や類似点を踏まえると、やはり『文豪ストレイドッグス』における福地桜痴の人物造形に三島由紀夫は無関係とは言えないのではないだろうか?
『白紙の文学書』と『豊饒の海』
――人類が月の荒涼たる実状に目ざめる時は、この小説の荒涼たる結末に接する時よりも早いにちがひない。「『豊饒の海』について」
――月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメーヂとをダブらせたやうなもの。「ドナルド・キーン宛ての書簡」
最初に引用したのは、『豊饒の海』の題名に関する三島由紀夫の言及である。
『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』……大河の如き世界解釈の小説の根底には「これと云って奇巧のない、閑雅な、明るく開いた庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている」と語られる何もない庭がある。
月修寺門跡の言葉と合わせて、『天人五衰』のラストはここまでの物語全てが無意味なものであったと思わせる終わり方ではあるのだが、ここに「飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る」という生の回復術として発表された『仮面の告白』を合わせると、最後の場面の庭は大河小説を作り出す原点、特異点のような場所になっているという読みも可能である。
『豊饒の海』では滝の如き一回生と、唯識論哲学の大きな相対主義――つまり海が対比され、最終的に認識者の本多もその中に飲み込まれてしまうといった終わり方になっている。
しかし、『春の雪』の終盤には清顕の中に勲が、『奔馬』の終盤には月光姫(ジン・ジャン)が逆流するような描写があり、物語の流れは必ずしも一方方向に流れている訳ではないのである。
それを踏まえると、先ほどの読みも決して的外れでは無さそうである。
長々と『豊饒の海』について語ってきたが、この『豊饒の海』もまた『白紙の文学書』に強い影響を与えているのではないかとこの記事の筆者は考えている。
白紙の文学書は『STRAY DOGS』という題名が書かれた真っ白な本であり、それそのものは無機質な一冊の本でしかない。しかし、その中には無数の世界が折りたたまれており、一冊の本と無数の世界が、宇宙的虚無感と豊かな海のように重ね合わされているのである。
また、『豊饒の海』は「世界解釈の小説」や「究極の小説」と形容されており、世界を改変することが可能な本、「白紙の文学書」とも重なる部分がある。
もう一つ、『豊饒の海』と『白紙の文学書』には月という共通点がある。
『豊饒の海』に関しては題名の元ネタが月に存在するクレーターであることは前述の通りだが、では、『白紙の文学書』と月との共通点はどこにあるのだろうか?
『白紙の文学書』と月を繋ぐものは作中に大きく二つある。一つは『白紙の文学書』を見つける鍵である敦君の異能力が『月下獣』であることである。これについては、過去の記事で既に触れている。
もう一つは、テロ『天人五衰』が裏頁に書き込むタイミングである。
ものあし様が既に指摘しているように、小栗虫太郎の満月説と福地桜痴の新月説の二つが存在している。
本誌の方は確認していないが、福地桜痴の新月説は「HERO WAR,GANG WAR.」にあるものであることをものあし様からの情報提供を受けて確認している。ただし、この点はアニメでは削除されているため、疑わしい部分もある。
誤字だったのか、実際に二つの説が存在しているのは不明だが、一先ず、頁に書き込むタイミングが月に関わることだけは間違いない。
では、何故、満月や新月といったタイミングが選ばれているのか。表頁への書き込みのタイミングが月に関わりのないところだったことを踏まえると、わざわざ月に関わる日が『天人五衰』の最終目標を遂げる裏頁への書き込みのタイミングに設定されていることには何か意味がありそうである。
『白紙の文学書』の性質と『豊饒の海』のテーマの類似性や、『白紙の文学書』と月の関わりという点を考えると、やはり三島由紀夫の『豊饒の海』というテクストが『天人五衰事件』の根幹に深く関わっているのではないだろうか。そう思えてならないのである。
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