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お金に縛られない「働く」を定義できないのかと考える

先日、クリエイティブを加速させる方法について考えていたんですが、「加速させる」の逆でクリエイティブの加速を阻むものもあるなーって思ったので、今日はその辺を考えてみます。

個人的な所感なのですが、日本で独学で現代アーティストを目指すってかなり厳しいなぁって思っています。私はこれまで世界10カ国13カ所のアーティスト・イン・レジデンスに参加してきたんですが、出会うアーティストはほぼ全員美大あるいはデザイン系の学校卒、美大も修士まで出てる人が多かったです。アジア人はだいたい、ヨーロッパで修士を取ってるイメージでした。独学者ってそもそもいないんですね。これはたぶん、情報がまわってきにくいとか、大学関係のコネがないとか、そもそも基礎知識や技術がないとかいろんな事情があると思います。

絵を売って食べていくというのと、現代アーティストとしてやっていくのって成果物として目に見える「作品」が同じだったとしても、中身がまるで違うことなので、今のコロナ禍で国外に出られない独学で現代アーティストをやりたい人はそこそこきついかなと思っています。

そもそもなんですが、日本って町中にアートがあんまりない国だと私は思っています。すごくたくさんの国に言ったわけじゃないですが、パリ、バルセロナ、ニューヨーク、オーストラリアは町中で見かけるアート作品の数が多い気がするんですね。ニューヨークはぶっちぎりです。

日常でアートを見かける量が多いと、暮らしている間に自然に教育されていくと思うのです。ちなみに、上海は町中で「富国強兵」みたいな、国民を鼓舞する標語を頻繁に見かけます。日本であんまり見かけないのは国旗の掲揚ですね。海外行くと、国旗掲揚するところがすごく多いので、割とびっくりします。日本はナショナリズムが弱めなのかもしれない。

あとね、自分がアーティストとして海外に行くからなのかもしれないんですが、海外だと割と「何もしてないけど人生を楽しんでいる、それほど若くない人」にけっこう会うんです。

こういう人たちが身近にいることは社会にとって必要なんじゃないかって私は思っていたりします。理由は、こういうよく分からず休んでいる人がいると、自分が休みたい時に休みやすいからです。人生に弱ったり疲れたり、絶望したりすることってあると思うんですが、日本はいい大人が「ただ休んでる」っていうのがあんまり許されない気がするんですね。なんかのんびりしてるだけの人、みたいな存在に日本で会うことがほぼないんですが、海外だと意外と会うんです(もちろん、自分の経験という狭い範囲の話なのでたまたまかもしれません)。

追ってる夢があるわけでもなく、ただのんびりしている。

「がんばったから今は休んでる」って言って、それが「いいねー」って許される状態になってると、その社会の中でちゃんと休みやすいっていうのがあるんじゃないかなって思います。みんな働いていると、同じように働かないといけないプレッシャーが常にありますが、たまにこういう人がいると、自分もたまにはいいかと思える余裕が生まれせんか。少なくとも私はそういう人に救われたし、社会の見えるところにそういう人がいてくれることで、一度休んでまたがんばれることもあるんじゃないかなって思ったんです。

私がアーティストとしてずっと探求してきていることは「治療の代わりになるアート」なんですが、今はみんなで社会を癒して、社会からみんなが癒される関係をつくるにはどうしたらいいのかっていうのを考えてたりします。

人を癒す方法っていろいろあるなーって思うんですが、「創作」というのはすごく強い癒し効果があるなっていうのは思っています。運動とかももしかしたらそうかもしれないのですが。

すごく追い詰まった時に、ただ塗り絵をするとか、ただ線を引くとか、それだけで心が落ち着くことがあります。私は子ども病院でアートのワークショップをやってたこともあるのですが、患者である子どもたちだけでなく、そのご家族がひたすら色を塗りながら「思ったより癒されますね」っておっしゃってたことがありました。上手下手に関わらず、何かを創るって人にはとても必要なことなんじゃないかと思っています。

もう一つ、社会からの癒しという意味では「自分が必要とされていると感じること」が必要なことなんじゃないかと思っています。社会の中で自分が貢献できていると感じること、でしょうか。これの分かりやすい例は「働く」だと思うのです。仕事があると、社会から必要とされてる感じはすると思うんですよね。

でもたとえば、創作を始めたばかりって「仕事」にはなってないですよね。仕事にならないものは趣味と見なされる。では、仕事と趣味を分けるものは何だろうと考えてみると、それは今のところ「お金」しかないんじゃないかなと。

お金を稼げるもの=仕事
お金を稼げないもの=趣味

な感じですね。でも、自分は割と、お金以外でも何かを稼げていれば仕事と言っていいんじゃないかなと思っているんです。「何かを稼ぐ」という観点で考えた時、今日から絵を描き始めたという人でも、Twitterのフォロワー数が増えた!noteのPV数が増えた!みたいなことを稼ぐことはできますよね。(フォロワーさんを稼ぐっていう表現するのは微妙なんですが、、)

自分がまだアートをやるかどうかという悩みの中にいた頃、訪れたカフェで、年配のマスターが絵と引き換えにキャラメルラテをご馳走してくれました。毎回、訪れるたびに絵と引き換えにご馳走してくれたんです。絵でお金は稼げてないけど、キャラメルラテは稼げてたんですね。それは絵で600円を稼いでキャラメルラテを買ったことと同じではないかと。

「売れてるの?」「いくら稼いでいるの?」という言葉のプレッシャーが、社会にとっていい影響とあまり思えないんですね。それは「お金を稼がないといけない」という思考に人を追いやるし、お金が稼げてない自分はダメなんだという思考に追い詰めることもあるかもしれないです。また、それによって他の可能性が見えなくなってしまうこともあるんじゃないかなと。

もちろん、お金が稼げるならそのほうが便利というのもあります。たとえばアートをやってる人の夢でよく出てくるのが「海外で個展したい」なんですが、これって秒でやれちゃうんですよね。海外のレンタルギャラリーを借りて個展をやればいいだけだからです。渡航費合わせても20~30万円くらいあればやれると思います。一生の夢だったら自分ならすぐ出しちゃいます。あっという間に叶えられるのがお金の力ですね。

でも、「自分ではお金を払わず招待を受けて海外個展がやりたい」だといろいろ実績を積んだり、できるところに応募したり、そこそこ競争しないといけなくなってきます。

一度個展をやるだけならお金を払えばいいです。でも、ずっとアートをやっていきたい場合には、後者のように自分でお金を払わずに招待される状態を目指したほうがいいわけです。お金を払う関係は自分が顧客なので、その後何かに繋がるためには、個展をきっかけにあちこちに売り込むなど、自分で努力することが必要です。

招待される状態になれたほうが、その後、自分を推してくれる味方が増えている状態です。こういう状態になるべく早くなるためには、作品の質のほかに情報とかコネとか自分のファンとかいろんなものがあったほうがいいですよね。

もしそこを目指すなら、稼ぐのはお金だけじゃないかもしれない。

お金っていうものが最強すぎて、自分もそれに心を持ってかれてしまうのですが、そのプレッシャーは本当にこれからの社会にいるのだろうかと考えるのです。フォロワー数が説得力をもつ時代になったし、PV数を稼ぐと大きくお金を稼げる仕事がくるようになりました。

「仕事」によって稼げるものが多様化してるんじゃないかと。そう思ったら、初心者のうちからでも「何かを小さく稼ぐ」ことができるし、何かを稼いでいる状態を仕事をしていると言えるなら、それはもう働いている=社会に必要とされている、でいいんじゃないかなと思ったんです。

あ、もちろん「稼ぐ」意識は持った方がいいかなと思っています。何でもいいんですけどね、今はこの文章でPVを稼いでいるんだ!とかね。その意識をもつかもたないかで、アウトプットの質が変わると思うからです。

創作は初めてすぐにお金になるわけではありません。それを「サボってる」と思われちゃうと、創作を続けることができません。すべての創作活動は始めた段階で仕事となり、何かを稼ぐことができるものだと社会の中で認識されること。

何かを創ることを仕事として自主的に始め、それがまずOKだと認められる社会だと優しいのかなと今は考えています。

ちなみにアーティストですって言って一番聞かれることは「で、普段はなにやってるの(お金は何で稼いでいるの)?」です。

アートで生きられると信じる人がほとんどいない世界では、アートで生きられるようにはならないんじゃないかと思うんです。

だらだら書いてしまいましたが、冒頭のクリエイティブ活動を阻むものがあるとしたら、それは私自身が持っている既成概念なのかもしれません。そしてそれは、意外と自分では認識できてないものなんじゃないかなって思います。

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