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「#読みたいことを書けばいい」→読みたいことはないが書きたいことがあった場合

田中 泰延さんの『読みたいことを、書けばいい。』を読みました。

ニュートンの「巨人の肩に乗っていただけ」という言葉が引用されていましたが、書くということも科学と同じで、すでに存在している物に自分を加えて少し先に進めるという行為なのだなと感じました。

表題の「読みたいことを書けばいい」を改めて自分に向けてみると、私の場合は読みたいことってあんまりない気がしたんです。おもしろい医療ドラマは読みたいです。でも、多くのものは全然読みたくない。読むと役に立ちそうな気がするので読んでいるだけかもしれない。

自分は読みたいことを読んでいるわけじゃなく、なんとなく周りから見聞きして読んだほうが良さそうだと思ったことを読んでるっぽいのです。そこにあるのは純粋に読みたいという渇望ではなく、読まないと周りに置いていかれちゃうかも、という焦りがあるようでした。

それでも、読まない、という選択肢を自分は取ることができないんですね。読みたくないのに、実は読まされているだけなのかもしれません。本当に自分が欲していることを自分で分かってないのかも。

ここまで読んでくださったみなさん、この先も本当に読みたいですか?

読みたくなくても書いていたい。

私に読みたいことはそんなにない。でも書きたいことはあるんです。自分の文章だからってすごく読みたいわけじゃない。ただ、書きたい。昔は推敲マニアで、3000文字くらいの記事に余裕で6時間くらい推敲しつづけていましたが、推敲をやめると決めてから、何度も読むことが前よりずっと苦痛になってしまいました。

でも、書きたいとは思うのです。自分でも読みたくないのに、書きたいと思う。それは本当に書く必要があることなのでしょうか。求められているかと言われたら、まったく求められていないはずです。筆者も読みたくないものを、誰が読みたいと思うのでしょう。

ならばもう書かなくてもいいし、そもそも人が読む場に公開しなくてもいいはず。なのにわざわざ、書きたいものを人が見える場所に置いている。この行為はなんなのだろう。

アーティストの作品をウンコに見立て、自分のウンコと金を並べて売ったアーティストがいました。

現在ではウンコの値段はめちゃくちゃ上がってるみたいです。

クリエイティブに才能は必要なのか

通常、なんかのプロになるには1万時間くらい(約3年)がんばるとよいみたいに言われることがあります。

でも、音楽だったり美術だったり、クリエイティブに関わることは1万時間やってプロになれるみたいなものではなさそうです。1万時間くらいだったら、美大生は美大行ってる間に達成しそうじゃないですか。でも、アートで食べていってる人自体がほとんどいないはずです。

私たちの多くが関わることになる知的専門職はどうかというと、努力の量とパフォーマンスにはほとんど関係がないということが示唆されています。

努力とパフォーマンスの間に相関関係がないのであれば、がんばっても何もならないことがあるということ。記事では、努力のレイヤーをあげろってことが書かれていました。自分が求められていることを探すっていう意味だとすると、私が書くことはたぶん、全世界的に求められていなさそうです。

才能は遺伝子によって半分くらいが決まり、あとの半分くらいが環境によって決まるという話があります。クリエイティブはどうなんでしょうか。遺伝子要因で決まるはずであれば、著名な芸術家の子孫はそこそこみんな才能がありそうなんですが、ピカソは知っていてもピカソの子どもの名前は知らないですよね。親が有名すぎると同じ道を歩みにくいとか、心理的な要因もあるのかもしれません。

才能があってもなくても続けるかを決めるのは自分

もしもクリエイティブの才能が壊滅的になくて、どんなに努力しても無駄だっていうのが100%分かっていたら。

自分だったらまず、遺伝子ドーピングでクリエイティブ遺伝子を植え付けてもらうことを考えるのですが、すぐに無理な場合、考えることは一つです。

才能がなくても「続けるか」「やめるか」

読みたくなくても書きたい自分にとって、100%無駄な努力だと分かっていても、続けるを選択してしまうんだなと思って、そこそこ絶望します。〇〇したい、という気持ちは、そもそも人間にとって生きるための活力なんですね。

ちょうど、『ここは今から倫理です。』の2巻に印象的なことが書かれていました。

「人間のみが自殺する」というのは、身体の苦痛よりも精神の方が上だからです。

書くというのは、自分にとって自分の精神を守る行為なので、継続せざるを得ないんです。自分を守るために書くのであれば、読むことはやめてもいいはず。読むことを一切やめて、自分の書く時間にあてることができるのかと思ったら、書くために読むことが必要だということに気づきました。

読みたくはないが書きたい、だから書くために仕方なく読む。

読むと書くは分割することができなくて、書く人は読まざるを得ないようです。でもそもそも、すでに誰かが書いていることは自分がもう一度書く必要はないわけです。

私の「書く」はとても中途半端で、自分にも読み手に対しても向き合っている感じがないみたいです。でもそこを頑張って試行錯誤するよりも、クリエイティブ遺伝子を早くドーピングしてみたいです。

もしも才能を得たい人がみんな遺伝子ドーピングしたとしたら、クリエイティブはもっと活発になるのだろうか、それとも似たようなクリエイティブばかりになるのでしょうか。

急激に変わる細胞をたくさん抱えて、世界全体はどこへ向かうようになるんだろう。今日はそんなことを書いてみたくなりました。(でも読みたくない)

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