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村上春樹『#猫を棄てる』記憶が記録になる過程にあるもの

 中学生くらいの頃、戦争の夢ばかり見ていた。かなりリアリティのある夢だった。銃を持ってジャングルを仲間たちと一緒に身をかがめて走り回っていたり、後ろに腕を縛られた状態で一列に並べられ、端から撃たれていったりする夢。

 現実に起こったことみたいに生々しい夢で、起きた後はいつも、恐怖が身体に残っていた。授業で歴史について学び始めたからだろうか、それとも人類の歴史という川の流れの中で、水滴の一つとしてなにかを受け取っていたのだろうか。

 海外を歩いていると、村上春樹作品の人気の高さには驚かされる。ルーマニアの高校生が読んでいて、バルセロナや上海やニューヨークの友人宅に本があり、ブラジル人の小説家は多崎つくるの話が好きだと言い、ドイツ人の小説家は耳が美しい女性について動作を用いて描写し、村上春樹作品は日常がどれだけ素晴らしいかを教えてくれる、とスウェーデン人のアーティストが言っていた。

 二〇一九年、日韓関係が史上最悪だとかワイドショーが騒ぎ立てる中、私は韓国に計半年間滞在していた。その時出会った韓国人の友人は、戦争は一つの歴史に過ぎないと言っていたし、私も以前はそうだろうと思っていた。しかし、歴史という記録の一つになるには、まだ記憶として個々の脳内に留まっている部分が多くあるのだと私は肌で感じた。

 記録と記憶と、出来事が歴史になっていくまでの過程、感情を一つ一つ取り除く作業の中に、『猫を棄てる』があるような気がしている。

 固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。

 猫を棄て、でも猫は、先回りして棄てた人の家に帰ってくる。この時代、多くの人が猫を棄てなければならないような経験をしたはずで、それは多かれ少なかれ、言葉でうまく人に伝えることのできない重い体験だっただろう。それでも猫が戻ってきたことは、まるで希望の象徴みたいで救われる。

 比較することを本当はやめたいのだけど、自分の人生を選択しやすい時代にはなったかもしれない。あるいは、自分が生きやすい場所に移動しやすくなったかもしれない。社会の空気がそう変わってきているのだとしたら、それは雨水たちが一滴ずつ、空気の色を変えてきた結果なのだと思う。その空気の色には、雨水たちの感情がこもっているように思う。

 記憶が完全に歴史になった時、私自身は雨水としてどんな色をこの世界に混ぜただろう。せめて、猫が戻れる世界を維持したいと私は願っている。

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