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[日録]再び生まれる時間はされあれど流れる時間は須く遅くも早くもあつてはならず一定でなければ平等とはいへない

July 11, 2021

 映像を再生する。始めからであらうと途中からであらうと、この行為は等しく "再生" といふ言葉を用ひられ、そのとほりに機能する。私たちが鑑賞する映像は、総じて既に生まれた "何か" を今一度、眼前に生み表して眺めてゐるに過ぎない。それは映像に限らず、漫画や小説、音楽といつた表象文化の一切がさうであらう。そも/\、形として "何か" を表さんとする時点で、この者が意識的にであれ無意識的にであれ知覚したイメヱジの二次創作に過ぎなひといへるのかもしれない。しかしながら、メデヰアとして人類史上最も遅く登壇した映画にだけ内在してゐる独自性、あるひは優位性があることも亦、事実である。
 映画はしば/\総合芸術といはれる。演劇や小説のやうに物語性や登場人物の論理思考が求められ得る一方で、絵画や写真のやうに見て呉れの良し悪しも重要視されるかと思へば、実時間の流れを伴ふことにより漸く意味を成す音楽と似た時間芸術としての側面も持ち合はせており、それらの要素が複合的かつ複雑に絡み合つた文化であるから、さういはれることにも頷けなひこともない。近年のやうに映像乃至映画が普及もしてゐなひ頃、『ラ・シオタ駅への列車の到着』を観て初めて映画といふものに触れた人々は、列車がスクリヰンに映つてゐることなど忘れ、本当にこちらに向かつて来るのではなひかと慌てふためき、逃げまどつたといはれてゐる。この逸話が真実か虚構であるのかは定かではなひが、当時は小説や絵画といつたものはされあれど、映像は存在して居なかつたのであるから、幻想を現実の裡に於ひて確かなものとして感じられるやうなVRといふものが生まれてゐる時代に生きる私たちであれ、事実として容認することもさして難しくなひ逸話であるやうに思ふ。それからといふもの、映画は各国で爆発的に文化として発展して行き、一九二〇年代には、もはや映画でできることはやり尽くされたといはれ始めた。そんなさなか、まだできることはあるのでは無ひかと考へたハンス・リヒタアは絵画と映画の違いにこそ映画の優位性ともいふものがあるのではなひかと仮定し、それが "動くことである" といふ本質的なことに思い至ると、たゞ図形が拡大縮小するだけの『リズム21』といつた摩訶不思議な映画を生み出した。『アンダルシアの犬』などの実験映画が生まれ始めたのもこの頃からである。両映画の関係性につひては理解し得てゐなひが、兎角、さうして偉大な先人たちが映像表現を突き詰めた後に、今——現実を切り取つたり実験的であるだけでは飽きたあらず、漫画映画といつたものまで生み出して来、さらには映像の世界をより印象深く彩るための技法も同時多発的に開発され、スロヲモヲシオンやクヰツクモヲシオンなどで時間すらも操ることなど朝飯前となつてゐる現代——があるのである。
 誤解無きやう伝へたひが、私はこゝで映画こそが他の文化よりも優れてゐるといふ幼稚な議論を行ほうとしてゐる訳では無い。漫画なども、ある種の文学を内包してゐるから総合芸術といへるであらうし、何より初めて私が作品といふものを認識し、楽しむことになつたメデヰアも漫画に他ならず、未だに夜が明けるまで読み耽つてしまふこともしば/\である。また、私は紙のにほひに鼻腔を擽られながら、活字だけで彩られた文学といふ世界に浸ることも好きであるし、さういつた視覚といふ知覚を伴はずに行先も自身で決めず、感覚の赴くまゝに流れる音に連れられゆら/\と歩いて行くことができる音楽も大好きである。漫画や小説が視覚的な感覚だけを揺さぶる訳でも無ひだらうし、ボブ・デヰランは歌詞でノヲベル文学賞を受賞までしてゐることからも、映画だけではなくいづれの表現も、自ずとあらゆる芸術を内包してゐると私は捉へてゐるので、一つの作品だけを摘んで、じつくりと眺めてみることが楽しくて止められなひのである。いふまでもなく、私が触れる作品はいづれも私の好みによつて峻別されてゐるがゆゑに、自分の人生といふ時間を削つてゐく中で出会つた作品といふ作品を須く愛してゐる訳では勿論無いが、それらを表すいづれの文化も間違いなく存在してゐるといふ確固たる事実が、私が明日を生きるための活力として正しく機能してくれてゐることに変はりは無い。御天道様のやうに、今日も今日とて私が私として生きてゐられることの存在証明として、作品といふ作品の一切が、たゞ存在してゐるといふ現実に深く感謝申し上げ、曳ひては作品のみならず、陽の下に在る全てを等しく且つ愛ほしく思ふ心を大切に持つやうに、でき得る限りの努力はしてゐるつもりである。
 私は人生のほとんどを、それらの表象文化に触れることに費やしてきた。大学生の時分には、映画といふものが抱くたとへやうの無ひ素晴らしさを知るともなく知ると、名作とされてゐる映画や、ぱつと目に付くや否や、裡なる私の何かしらの琴線に触れた映画を片端から借りては貪り観た。 "狂つたやうに" といふ枕詞があるが、あの頃の私は本当に "狂つてゐた" と今でも思ふ。ある日、『羅生門』を観て黒澤明の手腕に圧倒された私は、邦画の名作映画——いづれも白黒映画——といはれるものをどつさりと借りてきては遮光カアテンで現実世界を映す窓を隠し、昼夜といふ概念がスクリヰンの中にしか存在しなひ外光が一切入らなひ部屋へと変貌させると寝食も忘れて次から次へと鑑賞に浸ることに努めた。さうして何時間も過ぎ去つたのち、そろ/\風呂でも入らうと漸く電気を付けた瞬間、
「世界には色があるのだ!」
 と、私が存在してゐるのは、大前提として現実であるといふ事実を認識してゐるにも関わらず、いはば『ベルリン/天使の詩』状態に陥つてしまひ、痴呆を患つたかのやうにつひ/\びつくりしたこともある。そんな風にして数千本は映画を見てきたかやうな私でも、未だに映画の魅力が何なのか、何が一番面白ひ映画であるのかなどは全く分からない。後者の疑問は考へやうとも無駄ではなからうかといつしか悟り、今は別の観点から映画を観て楽しむやうにしやうと思ひ至つたが、前者は未だにふとした時に考へてしまう。しかしながら、黒澤明でさゑアカデミヰ名誉賞の授賞式ではつきりと「映画といふものが何なのか未だに判つて居ません」と述べてゐたのであるから、映像制作といふ点に於ひても、将又人間的にも氏の足元にも及ばなひ私なぞが判らう筈もない。そも/\現実世界に色があることを忘れて白黒映画を観てゐたといふ時点で、この時の私はもはや何かが "ずれ" てゐる。正直に申し上げると、当時の私は映画を好きで観てゐたのは確かであるかもしれなひが、認識した一切を全て理解して居た訳では無ひのである。
 判つてゐる。私は、私が無駄に映画を観てきたゞけなのかもしれなひと言ふことなど、当の昔に判つてゐる。成る可く客観的に観やうとも、良さなんて何一つ判らなひ映画乃至映像も腐るほど見てきた。かと思へば、ふと改めて観返し、アラ悪くなひじアなひと掌を返すことなども、チグハグな感情の行き場である肥溜めにも似た混沌(ケイオス)といふ宇宙(コスモス)がぱんぱんになるくらい経験してきた。下卑た言葉ばかりで恐縮ではあるが、これらは私が映画に費やした時間を自分自身で肯定的に捉へやうとしてゐる訳では無ひと予め御理解して頂く為の言ひ訳であることから用ひた言葉であるといふことをどうか御承知置き願ひたい。兎角、私はこれまでに死ぬほど映画を観てきたのであるが、寝落ちしたことは数あれど、早送りして観たことなどは、たゞの一度も無かつた。早送りをするなど映像に対する冒涜だといつた暴論と断ずることもできなひ気持ちが私の中にも無ひ訳ではなひが、それは私が映像を仕事の一端にしてゐることから起因する感情的なものに過ぎなひのかもしれなひ。強くさう思つてゐるかと問はれやうとも、固くさうだと誓へるほどの感情でも無ひのである。では、早回しで観れば良ひではなひかと杜撰な言葉で捲し立てられると、それはそれで腹が立つ。かといつて、早送りにして観ることが当たり前な方々に苦言を呈するのかとぎらりと睨み付けられては、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を自身の裡に抱へる私なぞでは、へら/\と笑つてその場を何とか取り繕ふことしかできない。
 では、何故かやうな文章を書き綴つてゐるのかと詰め寄られたとしても、私はたゞ、ふと私がどうして早送りにして観なひのかが気になつたけであるから、これから述べる一切は私情に他ならない。それでも御目通し頂けるのであれば、通読後に思ふところを感じて下さるだけで嬉しひことこの上無い。
 私がかやうに筆を取らうと思ひ至つた契機としては、たま/\以下の記事を読んだことにある。

 私とて日々の仕事で忙しひ為、本記事をきちんと読んだ訳ではなく、さあと流し読みしたゞけで僭越ではあるが、述べられてゐることをぞんざひに、簡潔に記すならば、

問:映像を早送りで見るとはどういふことなのか?
—解1:日々に追はれる現代人が膨大な作品数を消化する為
—解2:家族友人のみならず仕事で関はり合ふ人等とも会話を成立させる為

 といつたことが、Netflixなどのサブスクリプシオンサアビスが席巻する現代の世相を踏まへて記述されてゐる。亦、さういつた現象から生ずる問題点──先の冒涜といつたことなど——も、庵野秀明監督の諦観とも捉へられ得る吐露した発言を交へて書かれてゐるが、兎角、昨今は日本のみならず世界的に早送りで映像を体験する人々が増へて来てゐるらしひ事実が存在してゐると理解できる。詰まりは、資本主義原理の基に日常を生きる私たちは、私たちの感情を差し置ひて効率性を何よりも尊ぶことを余儀なくされてゐるから、暮らしの中で出会ふ一切の事柄が先ず金銭が在ることから生じてゐる事実を受容しなければならず、金銭が無ければ家族友人と楽しく戯れることも格段に難しくなる世の中が無常であることを願ふばかりなのであり、かやうな現実に足を根差すのであれば、たゞ/\映像をじつくり愉しむ時間など無駄であると断罪されても致し方無ひのではなからうかといふことなのであらう。それにつひては年収二百万円台で辛ふじて現実にしがみ付ひて生きてゐるかやうな私であつても、さうだよなアと肩をぽんぽんと叩き叩かれでもしなひとやつてられなひ糞みたいな社会であると思ふことに加へ、何時如何なる時代であれども私のやうな社会的に弱き者は辛酸を舐めて生きざるを得なひのだといふことは、世界各国の映像乃至映画を阿呆みたひに涎を垂らして再生し続け、投影される無限と等しく存在する虚構としての一つの現実の一切といふ、平たくいへば現実として描かれる虚構の世界といふものと、下らぬ現実とを何度と無く行き来して来た私としても、これがまさしく現実なのだなアと感慨深く考へてしまふ事実であるやうに思ふ。
 現実と虚構の問題などをつひ持ち出してしまつたが、兎角、私はこゝで早送りして映像を観ることの是非を問ひたい訳ではなひから、それに対する私の解としてはまじでどつちでも良い。先述したやうに、私は私自身が映像を早送りで観なひ理由を知りたひだけであるので、このまゝつら/\と書き綴ることにして理由といふ私がペテン師であることをも理解した上で、この正体を暴ひてみたい。
 先ずは、来月で二十八歳を迎へる為に伝説のロツクスタア足り得る可能性が永久に葬られた現代日本を生きるサラリヰマンである私が、現実の私として至極一般的な目線で先の記事を参照し、自分に当て嵌めて考へてみることにする。記事で述べられてゐる "膨大な作品数" といへる数が具体的にどの程度なのかは一旦脇に置き、生涯に出会つた中で私が単純に観た映画の数である "数千本" と同程度の数ほど映画を観たといふ人々が居なかつた事実からも一般的に "数千本" イコヲル "膨大な作品数" と置き換へて考へても差し支へ無ひのであらうが、問題はそれらを "消化する為" に私が早送りで観たことが無ひことにある。現時点で私が早送りしなひ理由を述べるのであれば、映画乃至何かしらの作品を崇高なるものとして捉へてゐる訳では無く、そも/\として作品を "消化する" といつた態度で観てゐる訳では無ひからであるといふことに尽きる。私は自分が観たひ作品だけを、自分が観たひと思つた時に観たひだけなのであり、畢竟、家族友人のみならず仕事で関はり合ふ人等と会話を成立させる為などといふ下らぬ理由で作品を観てゐる訳ではあらう筈が無ひ。かやうな私は、庵野秀明監督の作品はほとんど観てゐるものゝ、未だに『シン・エヴァンゲリオン劇場版:‖』を観て居ない。前提として、こゝで用ひてゐる "観る" といふ行為は、流し見であれ何であれ、視覚の内で認識したといふことを指してゐる。兎角、私は漫画映画も大好きであるから、新海誠監督の作品なども学生時代の頃に観ては、なんて耽美な世界なのだらうと、ほうと溜息を付ひてはどつぷりと浸かつて居た経験もいふまでもなくあるにはあつたが、一方では『君の名は。』も『天気の子』も、公開当時に文字通り仕事に忙殺されてゐた為に劇場で観ることが叶ふことはなかつた。さうして "まあいひか" と思ひ過ごしてゐる内に月日は経ち、両作品の主題歌を歌つたRADWIMPSの野田洋次郎氏のこの呟きを目にして思はず気分が悪くなると、これからの人生に於ひて私は何方の作品も絶対に観なひでおかうと決めた。個人の見解ですなどと本来であれば糞の役にも立たぬ予防線を張つた上で差別の局地ともいへる言説を易々とかやうに垂れ流すやうな人物が作つた楽曲を意気揚々と聴かせられることは確定してゐる事実であらうし、作品に罪は無ひといふ言葉の意味を如何せん理解し切れて居なひ私は、観たひと思ふ作品しか観なひのであるから、独断と偏見を以てして何かしらの作品を観なひと決めて掛かることも、私が私として成る可く人様に迷惑を掛けなひ限りに於ひては許されてゐるのである。さういふ私の態度からは、私が本記事で述べられてゐる現代人とは異なり、誰かと会話を成立させる為に作品を観ることなど、人生を棒に振つても良ひと感じる程の恋でもしなひ限り起こり得なひ事実であるとも見て取れる。
 御推察のとほり、私は誰かの為に、あるひは誰かと語り合ふ為に作品に触れるなどは成る可く御免被りたい。誰かの為と考へるならば、生み出した作者の為といへるのかもしれなひが、さういつた意識を常日頃から抱ひてありとあらゆる作品に触れてゐるかと問はれゝば、さういふ訳では無ひといふ他無い。こうして文章を綴つてゐる間も音楽が絶へず流れてゐるが、意識は耳には行かず、聴き流してゐる。この部屋に居る私でしか捉へることのできなひ音楽を私が捉へずに文章を綴ることは、果たして音楽への冒涜として見做され得るのであらうか。無論、私は恭しく音楽を聴くことも往々にしてある。スマアトホンの電源を切り、室内に置かれたキアンプチヱアに身を預け、音の世界だけに浸ることは束の間の休日を彩る密やかな愉しみとして、皆と同じやうに享受してゐるつもりであるが、さうして音楽に聴き入ることが冒涜では無ひとも私はいひ切れない。何が冒涜で何が冒涜で無ひのかなど、現実を生きてゐると訳が判らなくなつてくる。彼の呟きが人類に対しての冒涜であると考へてゐる私が居る一方で、自身の存在こそ人類に対して何の役にも立つて居なひのでは無ひかと疑ふ私も存在してゐるし、将又かやうな私でも存在できてゐる現世、まじ最高☆と都合良く世の中といふものを解釈して生き長らへんとする畜生のやうに生きる私も等しく存在してゐる。万物に等しく存在する時間といふ概念が支配する現実世界に産まれ出でた私の一切が存在してゐることを明確にしてくれるものは、これ亦時間に他ならない。その時間を精一杯謳歌する為、乃ち効率的に生きる為に、早送りにして映画を観るのだと皆がいふのであれば、わざ/\私に止める権利などは無い。さうではなひ私も私として映画をじつくり愉しむことが赦されてゐる限りに於ひては。
 繰り返しになるが、私は早送りして映画乃至映像を観ることを悪だと糾弾したひ訳では無ひし、本当に心の底から何方でも良ひと考へてゐる。亦、私は他者と会話を交へる為に映画を観てゐる訳では無ひことも今や後理解頂けたことかと思ふが、周囲からは映画に詳しひ人物と思はれてはゐるので、会話の流れでオスゝメの映画は何ですかと問はれることもまゝある。そんな時は、いつも憮然とした態度を気取る私であつても映画ヲタクとして認識されてゐるやうな気持ちがして何故だか嬉しひ気持ちになることも事実であり、どのやうな映画が好きなのかと先ず問ふと、鬱映画が好きですと屈託の無ひ笑顔で答へられても怯むことなく、成程と頷ひて見せてはたとへばどのやうな映画であるかと聞き促し、相手方から『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が好きだと答へられるや否や、私に蓄積された私だけの破茶滅茶な映画デヱタベヱスから、では同監督の『アンチ・クライスト』は如何かなと勧めたこともある。同日夜、彼女からぽろんと一通のメツセヱジが届ひた。私が勧めた映画を観たのだが、面白かつたといふか何といふか、兎に角凄かつたですといつた旨が書かれてゐたが、正しくは彼女は映画を観た訳ではなかつた。どういふことかといふと、彼女は動画投稿サヰトに挙がつてゐる映画の要約チアンネルを観てどのやうな映画であるかを知ることが好きなだけで、多忙な日々の中でじつくりと映画を観るなどとてもできなひといつた姿勢で生活してゐるのであり、私が勧めた映画も同様にして、映画を観た誰かが要約して纏めた映像を更に二倍速にして鑑賞したゞけなのであつた。無論、私は彼女の多忙振りを理解してゐる上に、彼女のみならず日々の業務に忙殺される人々が、たまの休みに嬉々として『アンチ・クライスト』をじつくり観る世の中などそれはそれで如何なものかと思ふ気持ちも無ひことは無ひ一方で、映画祭で失神した人も出たといはれるほど衝撃的な彼の映像を、彼女が何も知らずに一から十まで観なかつたことに対して、矢張りちよつぴり哀しひ気持ちも存在してゐる私の返事がその時、スタンプ一つであつたことは、最大限の努力をした上の行為であると認めて頂きたい。兎角、かやうな体験を幾度となくしてゐる私が早送りで映画を観なひ理由のもう一つとしては、映画の本質が追体験——まさに再生──にこそあり、その途上で意識がスクリヰンから遠ざからうとも、成る可く正確に眼前で繰り広げられる展開を、この虚構の世界の時間軸と等しく理解しやうと努める現実の私として考へたひといふ気持ちから来る感情にあるが、それは私がさう考へて愉しんでゐるだけで、彼女あるひは彼女たちの愉しみはもつと別のところにあることは理解してゐるのであるから、私はわざ/\『時計じかけのオレンジ』のアレツクスさながら、彼等を縛り付けては器具を用ひて目を見開かせ、さあ映画をしつかと観るのだと強要するやうな真似はしない。早送りをして映画を観ることで損なわれるものは確かに存在してゐるとは思ふが、一方で私のやうに暗い部屋で誰に命令されたわけでもなく映画を一人で愉しむことで闇に葬られた時間も同様にして存在してゐるであらう。所詮、現世はシヰソヲゲヱム。嗚呼、何時だつて……。サビしか知らなひ歌であれども、かやうにして私が音楽をこゝに呼び寄せ援用することもできることにこそ、ポツプソングといふ音楽に内包される一ジアンルに内在してゐる良さともいへる。多様性といふ言葉に対して、私はどうしても苦手意識を感じてしまふが、音楽のかやうな幅広さ——私の独断と偏見による冒涜であると捉へられるかもしれなひが——や、望むのであれば映画を早送りで観ることのみならず、映画を要約して語る映像を倍速で観て感想をいひ合ふことが叶ふといふことは、まさに文化の多様性といへるのでは無ひだらうか。多様性の名の下に何をしても良ひ訳では無ひことはいはれずとも理解してゐるが、何といふか、一つの物事を絶対的な一つの何かとして理解しなければならなひと詰め寄られてしまふ世の中は窮屈で仕方が無ひとも思ふ。翻つて、多様性を異常なまでに強ひられるやうな社会も、まさしくさういふ道を歩んでゐるのではなからうかとも感じ入るところであるが、一先ずこの問題は考へなひことにする。私がいひたいことは、音楽も映画もひとたび再生されてしまへば、等しく流れる時間の中で享受する他無ひ訳であるが、それはいはば複製された何かに他ならず、どこまでいつても個人の見解として消化されてしまふことは止むを得なひのではなからうかといふことだ。無論、だからといつて、個人の見解を盾に何をしても良ひ訳では無ひであらうから、成る可く真摯に物事に向き合ふことを要求されてしまふことも同時に起こり得る事実として間違ひ無く存在してゐる。無責任に何かを理解し発言することが赦されてゐるからといつて、全てが赦されてゐる訳では無ひし、況してやそれらが結果的に個人が個人として存在できなくなるやうな差別に行き当たる道と成るのであれば、私たちは私たちとして生きる為に断固として拒否せねばならない。『夜と霧』を読んで、あるひは観て、ナチスを肯定などできる筈が無ひことと同じく、私たちはその是非すら問ふてはならない。自由の為に戦つた先人たちを思ふのであれば、私たちは是非を問ふ必要すら無ひ物事といふものが確かに存在してゐるといふことを理解せねばならない。疑問に思ふ間すら与へず、知性ある私たちが非であると直ちに認識する必要がある物事が存在してゐる事実を、私たちは知らずともなく知つてゐる。生死に関わる物事がそれであらう。私は今すぐ糞を漏らさなければ殺すといはれたならば、下着を脱ぐ間も惜しんで肛門に全神経を集中させ脱糞することに努めるであらう。かやうな私は、野田洋次郎氏が望む世の行く末からは死のにほひが蔓延つてゐると直感的に理解したからこそ、彼が携わる一切を受け入れることなく非であると認識し、距離を保つて日々を暮らしてゐるのである。今のところ、私は私として生きて居たい。生物的にも精神的にも、私は死にたく無い。そも/\個人の見解といふのであればいち/\いふ必要など無ひのではなからうが、それはそのまゝ今の私に投げ返つてくる疑問だらうと皆は笑ふかもしれない。しかし、これは私が非と感じるものへの抵抗の証でもある。かやうな姿勢に賛同頂きたひ訳でも無ひとはいへども反対されてしまへば、世の中はかくも生き辛く尊ひものであつたかと私が絶望といふ死の影を抱へるだけである。後者を皆が望むやうであれば、結果的に皆の秩序を乱す邪の道に繋がつてゐるのであらうが、私と同じくさう気付いてゐる方々は反対などしなひであらうと信じる以外に私にできることは無い。
 脇道に逸れたが、兎角、私はこの作品はかやうな意味があるのだといつた風に、衒学的に行き過ぎた作品乃至さうでは無ひ作品であつてもさう理解することを強ひられる状況に陥ることが嫌ひである。かといつて、作品の上澄みだけを掬ふやうにして、適当に触れる姿勢を自分が取ることは我慢ならない。私が私として、その時にでき得る限りの真摯な姿勢で作品に触れなければ、作家に対して失礼であるとかいふ以前に、私が私を赦せなくなるだけであり、詰まりは利己的な感情から私は早送りなどしなひだけで、理由としてはそれ以上でも以下でも無ひのかもしれない。同じくして、作品に依つては何かしらの予備知識が必要となるものが要求されることも事実であるから、いくら私が全神経を集中して触れたからといつて、その全てを理解できることなど有り得なひことも理解してゐる。そも/\として、誰であらうと先ず以て言葉を理解できなひと——たとへ翻訳されてゐるとしても——映画のみならず、漫画や小説なども何が何やらさつぱりであらう。言葉を理解してゐたとしても、次は各々の文化に固有の型といふものがあることを理解しなければならない。映画でいふのであればカツトバツク——同時に起こつてゐる二つ以上の出来事を交互に見せて行く手法——といつたことや、カメライコヲルスクリヰンがそのまゝ人物の目線として機能する主観カツトなどといつたものが簡単に挙げられる。漫画でいふならば、手塚治虫に起因する今や複雑化したコマ割りや漫画記号の概念などもさうであらう。小説であれば、鉤括弧は会話を意味するといつたところであらうか。私たちは確かに、それらを理解することなく理解してゐるが、それはそも/\どういふことなのかと疑問に思つたが最後、一つの作品として気軽に触れることが難しくなるであらう。作り手が恣意的であれ意図せずであれ、一度作品として生まれたのであれば、それを作品足らしめる無数のいろはがどの作品にも内在しており、そのいろはが全体となり一つの宇宙を象つてゐるのだと気づくや否や、思はず畏怖の感情が芽生へた経験は一度や二度では収まら無い。そんなことをいち/\考へたく無ひから、要点だけを掻ひ摘んで知りたひのだといふのであれば、それはそれで真に結構なことである。作品は、たゞ私たちと同じやうに世界にぽつんと存在してゐるだけであり、私たちが触れなひ限りは無ひこゝ同義であり、それであれば、早送りであれ要約であれ何であれ触れられることを至上命題としてゐるのであらうから、知つてやつたゞけ有難いと思へと偉さうにいわれやうとも、作品自体に反駁することなどできやしない。だが、だからこそ、私は成る可く作品といふ作品を、作品として象られた正しひ時間の中で平等に歩み、じつくりと余すところなく愉しみながら、虚構の世界といはれる世界をまるで現実のやうに錯覚してゐると認識した上で歩んでみたひだけなのだ。現代を生きる私も皆と同じく決して暇では無ひから、全ての作品に対して我が子を愛でる親のやうに、同等の無償の愛を分け与へて接することは哀しい哉、人類が生み出した作品といふ全てに私も含む皆が触れることができなひことと同じく、永久に叶ふことは無ひだらう。
 判つてゐる。映像乃至映画を早送りで観やうと観まひと、音楽を流し聞きしやうとしまひと、絵画や漫画を構成する線の一切を認識しやうとしまひと、小説に記された文章を脳内に焼き付けやうとさうしまひと、死ぬまで作品に触れることを赦されやうと赦されまひと、私が表象文化の全てに触れ、その一切を理解することなどできやう筈が無ひことなど、いち/\いはれずとも判つてゐる。かといつて、では最初から触れなひでおかうだとか、要点だけ理解すれば良ひだらうとかいつた態度で作品と対峙することは、作家が象つた世界としての作品が展開する宇宙が現実の宇宙と等しく無限にも似た豊穣で魅力的な謎に包まれてゐることを理解してゐる私には到底できなひことも、私は判つてゐる。さうしてこの私こそが、自己と呼べる私なのであると考へてゐる為に早送りをしなひといふ事実に、結局は落ち着くのかもしれない。作品と同じ時間を過ごす──それは、秒速五センチで落ちてゐく桜の花びらを、実写ではなく漫画映画として象られてゐるにも関わらず、本当に計算されて描かれてゐるのではなひかと思ひながら観ることにもなるが、早送りで観るといふ人々が仮に一.五倍速で彼の作品を観たとするならば、秒速で七.五センチ進む世界として認識してゐることになり、現実としての世界認識からも "ずれ" てゐるのみならず、新海誠監督が象る虚構の世界に於ける世界認識からも "ずれ" てゐることにもなる。かやうにして作品を鑑賞したのであれば、第一話の「桜花抄」の始まりで明里が語る言葉にも嘘が含まれてゐることにもなるし、それは花が落ちるといふイメヱジだけでなく、雪が落ちるといふイメヱジをも写実的に描ひたことを無惨にも否定するやうな態度であるとも解釈できる。亦、本作は昇るといふイメヱジも多分に出てくる。鳥が飛ぶイメヱジもそれに類するが、他には、明里に会ふ道中で電車が積雪の為に停車を余儀なくされ、ホヲムで待つて居るであらう明里に対して、どうか、もふ家に帰つて居てくれと願ふ遠野が二時間後に漸く駅に着くと、明里が小さなホヲムですや/\と眠つてゐる姿を目にして思はず感極まり、そして、人の気配に気づいたのかすぐさま起きた明里自身も、遠野に出会へたことに信じられなひといつた顔をし、二人でつひ/\涙を流した次のカツトである盤に入つた水が沸騰し湯気が立ち込めてゐる画などもさうである。無論、第二話で飛び立つロケツトもさうであるし、第三話でベランダで遠野が手にする煙草の煙もさうであるといへるが、本作は上下の理解と認識だけではなく、右と左の概念もきちんと静謐に落とし込んでおり、登場人物の進行方向などもさう計算されて表されてゐる。最後のシヰクヱンスで山崎まさよしの曲がぱんと流れ『秒速五センチメートル』と題名が出るところに於ひても、交錯する遠野と明里の関係を電車の進行方向と、踏切が点灯させてゐる矢印(⇆)でも見事に示してゐるのだ——といふことは、かやうにして本作を二度しか観たことが無ひ私でも熱を上げて素晴らしさを語る為にも必要なことなのである。もし倍速で本作を観、気になつてはもう一度等速で見返したといふ人が居るのであれば、先ほど私が述べたことの一切を理解乃至共感できたのか、正直に申してもらひたい。かやうにして、倍速で観ることの愚かさを解くことは、倍速で観ることの一切を愚かであると断ずる行為ではないが、兎角、等速でじつくり観ることが無駄であるとふんぞりかへつていへるほど偉ひ事実とは成り得なひのであらう。
 長々と書いてきたが、学術的な見地からして映画を早送りにして観ることが如何に誤りであるかを明言することはあへて避けてきた。何故かと問はれれば、さうして奮われた言葉の群が、衒学的であると侮蔑されることを恐れた為でもあるが、こゝでは私が私として生きてきた中で用ひられる言葉だけで理由を解明してみやうと思つたからでもある。さうでもしなければ、読んでくれてゐる方々に申し訳が立たなひと私自身が勝手に思つてゐるからであるが、明日になれば何故つら/\と駄文を書き綴つたのだらうかと、失われた時間を惜しむ私へと変貌を遂げてゐるかもしれなひだけでなく、何故かやうな駄文をこゝまで読んでしまつたのかと、皆様を後悔させてしまふやうな本末転倒な結果になつてしまふことにも繋がる道であるのかもしれない。しかし、私たちはこれまで、ともに歩み等しく目を通すといふ体験をして来たからこそ、お互ひに理解できる何かしらの連帯感とでもいふ共感めいた何かを享受できたのではないのであらうか。それは私が自慰的に感じてゐるだけなのかもしれなひが、明日の私は今日の私では無いからこそ、私はさして気にも留めない。映画を早送りするかのやうに、私の綴る文章が流し見されやうとも、私はどうでも良い。たゞ、早送りで映画を観たことで彼の映画を理解しましたとにこやかに話し掛けられては作り手が行き場の無い感情を抱へることゝ同じくして、作り手と同じく等速で観ることに努める私の意図することを理解し、曳ひては私のことを理解しましたとへら/\いはれてしまへば、後に続く言葉が肯定的であれども否定的であれども、私は有耶無耶とした茫漠たる混沌に逃げ惑ふことであらう。
 何がいひたいのかと問はれても、いひたいことは以上に尽きる。理解できなひのであれば、私の力不足に他ならず、誰が悪ひといふ訳でも無い。強いていふなら私が悪いのかもしれなひが、私を非として認識するのであれば、私は明日には一切から消へて無くなつたも同然、私も含む皆が今の私を皆の目に触れなひやう努めれば良ひだけのことであらう。かやうな文章を "作品" であると力強く宣ふことは気が引けるが、さういふ側面が無いともいひ切れなひのであるならば、後は皆様の良心の自由に委ねる他無い。私自身、当たり前のことをだら/\と書くことに良ひ加減疲れてきた。上も下も右も左もあるのはこの地球の上で認識することのみに於ひてだけであり、宇宙に於ひてはかやうなものは存在せず、あの二人が空を見上げながらどこまで行くのかと想ひを馳せるロケツトの行き先が銀河の果てをも超へ、楽園といふ天国を見つけることが死ぬことゝ同義であるのかもしれなひと思ふのであれば、せめて生きてゐる間だけは、自由に楽しませてくれる聖域としての環境が減らなひことを——望むらくは、増へることを——願ふばかりである。


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