ハートランドの遙かなる日々 第12章 チーズの家
牧場の朝は早い。家に隣接する離れに住み込むカルバンとペーテルはまだ暗いうちから起き出して牛の世話を始め、同じ頃にカリーナは今日のミルクを絞り、水を汲みに泉へ出かけ、そしてパンを焼き、食事の準備をする。朝食が出来るのは日が山の上に昇る頃で、アフラやマリウスはその頃起きて来る事が多い。ブルクハルトは今日も不在だが、いれば起きるのはエルハルト達と同じ頃だろう。
「おはよう。朝ご飯まだ?」
後ろに付き纏ってそう言うマリウスに、カリーナの返す言葉が素っ気なくなるのは仕方がない。
「もうすぐだから大人しく待ってなさい」
マリウスはそれでもカリーナの視界をヒョイヒョイと上手く躱しつつ後ろをウロウロしている。しかし、程なく見付かった。
「待ってなさいって言ったでしょう! アフラもさっき起きて来たから一緒にリビングにいなさい」
「ハーイ」
マリウスはそこから走り去り、リビング兼ダイニングのテーブルを見ると姉がいない事に首を傾げた。そのままの勢いで階段を駆け上がり、アフラの部屋へ向かう。ノックもせずに部屋のドアを開くと、アフラはシュミーズを捲り上げて口に咥え、怪我をしていたお腹をぐるぐる巻きにしていた包帯を解いている所だった。ドアを振り返るとキョトンとしたマリウスがいた。
「こ、こらー!」
近くの鞄を取り、アフラは思いっきりマリウスに投げた。
「うわっと」
マリウスはドアをサッと素早く閉めてそれを躱した。アフラは叫び気味に言った。
「やだーっ! ノックしてよ! 包帯巻き直してるのよ」
「ごめーん。もうすぐゴハンだってー」
慌ててそう言いながらそこを逃げ去って、マリウスは階段を駆け下りた。
その途中で階段下正面のドアをノックする音が聞こえる。
「ハーイ。どなた?」
ドアの向こうからは女の子の声が二つ、ほぼ同時にした。
「ソフィアです」
「ポリーです」
マリウスは勢い良くドアを開け、ドアノブに凭れた。気が付くと息切れしていた。
「ハアハア。やあ」
ソフィアもポリーも目を丸くしてマリウスを見た。
「何してたの?」
ソフィーにそう言われてマリウスは答えに困った。
「えーと、えーと、何でもないんだ」
「ハアハアしてる。怪しい……」
ポリーが呆れ気味に言うので、マリウスは冷たい汗が出て来た。
「結構走って来たからね」
「ドアはすぐ開いたのに?」
「階段を上がったり下がったりしたんだ」
「上でアフラの叫び声がしたわよ?」
ソフィアの鋭い指摘の連続でマリウスの鼓動はさらに高まった。
「ちょっとあってね……」
「何があったの?」
「いや、名誉の為に言えない……」
「ふーん……」
訝しむソフィアの声を他所にポリーが言った。
「私達、ミルク貰いに来たついでにアフラのお見舞いに来たの。お邪魔していい?」
「えーと、お見舞いはしばらく待ってくれる? 今は着替え中で、多分まだ包帯巻き直し中だから」
「ふーん。アフラの着替えを見て来たみたいな言い方ね?」
「あ!」
「そうなの?」
「え! ちょっとした偶然なんだ!」
「やっぱり!」
「見たのね!」
ソフィアとポリーは頷き合ってそう言った。全てが露見してしまったマリウスは項垂れて、ドアノブから落ちる様に床に手を付いた。
「きっと許してくれるよー。ちょっとドアを開けたタイミングが悪かっただけなんだー」
「じゃあ、アフラに聞いてみましょう!」
「そうしましょ!」
二人は玄関のドアを潜り、二階への階段を上がって行った。マリウスはそれに追い縋る。
「ちょっと待って。着替え中だって言ったのに」
「私達女の子ですもの。大丈夫よ。あなたはダメーっ」
「えー」
逆にマリウスはソフィアに手の平で遮られ、階段を押し戻されるように下がって行った。
二人が二階に上がってしまい、階下に一人取り残されたマリウスは、カリーナの所へ行ってソフィアとポリーが来た事を言いに行った。
「ああ、来たのね」
カリーナはそう言って貯蔵庫へ行き、重そうにミルク樽を一つ持って来た。
「きっとこれね。帰りに寄って貰ってね」
「そう言えばミルクのついでにお見舞いをって言ってたよ。良く判ったね」
階上ではアフラが何か地団駄を踏む音と笑い声が聞こえる。良からぬ噂をしているに違いない。
しばらくすると、アフラを先頭に、ソフィアそしてポリーが階段を降りて来た。
「お母さん。ソフィア達にミルクの樽を渡してあげて」
アフラは台所のカリーナに声をかける。マリウスはリビングに用意していたミルク樽を叩いて二人に示した。
「これでいい?」
ソフィアがその傍に駆け寄った。
「あら? もう!」
そこへカリーナが顔を出した。
「もう用意しておいたわ」
「いつもお世話になります。お代は後で母が纏めてお持ちしますので」
「いつでもどうぞ。あと、いい牛肉があるの。お裾分けに少し持って行って」
カリーナはそう言って肉の入った包みをソフィアに渡した。
「いいんですか?」
「マリウスが頑張って貰って来てくれた肉なの。美味しいのよ」
「へえー。マリウスが? いただきます」
マリウスは頭を掻いた。
「うん! でも、ゼンメルなんだ」
「ゼンメル?」
そう言って首を傾げるポリーはつい一昨日、ゼンメルと語らっていた仲だ。マリウスは少し悲しそうに言った。
「うん。あの後、傷が悪化して死んじゃったんだ」
「大変!」
目を丸くし、両手を広げたポリーはマリウスの表情が気になった。
「悲しかった?」
そっとマリウスに近付くと、小さな手でその頭を撫でた。マリウスは思わず涙が出て来るのを上を向いて堪えた。ポリーは必死に涙を堪えているマリウスを見てニンマリと笑った。年下の余裕だ。
カリーナが溜息混じりに言った。
「ウチでは皆んな思い入れのある牛でね、あまり食べてくれないの」
ソフィアはゼンメルの勇姿は知らないが、国境の小屋に怪我をした牛がいた事は聞いていた。
「大事なお肉なのね。ありがとう」
ソフィアもマリウスの頭を撫でると、マリウスの涙腺はもう堪えられる限界を迎えた。途端、マリウスは戸口へ背を向けて駆け出しながら言った。
「馬車を用意してるよ!」
「マリウス……」
追いかけようとしたポリーをアフラが止めて言った。
「しばらく一人にしてあげて。私もああ言ってあげればよかったのね。失敗しちゃった」
「お二人さん、ミルクを飲んで行って。搾りたては美味しいから」
カリーナはそう言ってテーブルに二人を案内し、搾りたてのミルクが入ったカップを運んで来た。
「ありがとう」
「ご馳走になります」
ポリー、そしてソフィアはそれを口に運んで目を輝かせた。
「おいしい!」
「ホント美味しいわ」
「フンフー」
アフラはミルクを片手に台所から自分で持って来たパンを食みながら、何か言って歩いて来る。母としてはこれは見過ごせない。
「こら、歩きながら! はしたないわよ。アフラ」
「フフンフフーン」
アフラは急いでテーブルに着き、パンをさらにひと齧りして頬張り、牛乳で流し込んだ。
ソフィアはそんなアフラに笑って言った。
「それだけ食欲があればもう病人じゃあないわね」
ポリーが手を打って言った。
「判った! さっきのはゴメンナサイね」
そう言ってポリーもミルクを飲んでフフンフフンと言ってみた。
「フフッ!」
アフラは思わず笑って一筋のミルク吹き出し、慌てて手の平で口を強く蓋をし、勢いで頬が膨らんだ。
ポリーはそれを見て顔を背け、下を向いてしばらく我慢していたが、やがてミルクを派手に吹き出した。
「ブッハハハ! ゲホッ! ゲホッ」
ポリーは酷く咳き込みながら、そして笑いながら、ミルクを吐き出した。
「堪えて!」
すぐさまソフィアはポリーを抱きかかえてテラスへと出た。その先の石段から朝靄のかかる牧草地に出て、咳き込むポリーを下ろした。
「ゲホッ! ゲッホ! ハアーもうダメー」
「ヤダ! 冷たーい!」
ソフィアが立ち上がると、吐き出したミルクがスカートにかかってしまってビショ濡れだった。
「もう、ポリー? 白のいいスカートなのに!」
「ごめんなさーい! だってー、面白い顔なんだもの。ゲホッ、ゲホッ」
布巾を幾つか持って追ってきたアフラは、ポリーの口元を拭いてあげた。残りの布巾をソフィアが受け取ると、自分の服を拭き、そしてポリーの服もかなり濡れていたので、ソフィアはポリーの服も拭いてあげた。ポリーがグズるように言った。
「気持ち悪い。パンツまで濡れちゃった」
「すぐ着替えなきゃね。私達もう帰るわ」
アフラはバツが悪そうに言った。
「そう……ゴメンね。もっと話したかったのに……」
「仕方ないわ。また来るから。ミルクをごちそうさま」
「ごちそうさまぁ」
二人はそう言って外から玄関の方向へと向かった。
玄関の前にはマリウスがいて、ポニーを馬車に繋いでいる所だった。
「あれれ? そっちから来た! まだ早いよ」
ソフィアが言った。
「二人馬車に乗れる? 急いで帰りたいの」
「ええっ! 一人しか乗れないよ」
ポリーは馬車を揺らして言う。
「大丈夫よ。頑丈だったもの」
「そうかなあ」
玄関のドアが開き、カリーナとアフラが二人でミルク樽を運んで来た。
「ミルクを忘れてるわよ!」
「カリーナさん。すいません!」
カリーナとアフラはそれをそのままマリウスの馬車の荷台に乗せた。もともとミルク樽用の馬車なので、ピッタリの大きさだ。が、ここにあと二人乗るのは些かの無理があった。
「たぶん二人は乗れないよ」
「試しに乗ってみるわ」
ポリーが馬車に乗り込んで、ミルク樽の上に座ると、ソフィアは後ろの欄干に腰を掛けた。ポリーが馬車をグラグラ揺らしても馬車は頑丈で安定している。
「大丈夫そうよ。私達軽いもの」
「そうみたいだね。ゆっくり行ってみようか」
マリウスは歩きながら手綱を取って、静かに馬車を発した。
「大丈夫そうかな」
アフラが手を振って言った。
「気を付けてね」
「うん!」
ソフィア、そしてポリーが手を振り返して言った。
「美味しいミルクをごちそうさま。あと、汚しちゃってごめんなさい」
「バイバイ」
大きく手を振るカリーナとアフラに見送られ、ポニー馬車は緩やかな下り道をゆっくりと進んで行った。
しばらく先へ進んで行くと、坂道は少し急になった。それにつれて速度が上がって行く。
「わーい。少し速くなったー」
「これくらい速い方が好きね」
少しスピード狂の気配があるソフィアなどは満足の笑みだ。
しかし、道が大きなカーブに差し掛かり、そこで異変は起きた。馬車が思うように曲がらないのだ。曲がろうとするポニーが重い馬車に後から押され、足を踏ん張ってもさらに押され、千鳥足を踏んだ。そして道から外れてしまったポニーは前のめりに倒れてしまったのだ。
「わーっ! ポニー!」
その瞬間にポニーと馬車を繋いでいた木が折れ飛んだ。馬車はポニーの背に当たって跳ね上がり、さらに横へと転がった。その先は道では無く、草原の中、そして急な下り坂だった。ソフィアとポリーを乗せた赤い荷車はその坂を駆け降りて行く。
「キャーッ!」
「わーっ! 待ってー!」
マリウスは手綱を放って馬車を追い掛けた。二人を乗せた馬車はぐんぐん加速して坂を転がって行く。マリウスは必死に草を分けて走り、急坂を飛び降り、背中で滑り降りた。
そして小さな丘陵が盛り上がった所で馬車は坂を登りながら右に大きくカーブして減速し、そこでマリウスはすぐ傍まで追い付いた。
「ポリー! しっかり! 捕まって!」
「マリウス! 怖い!」
馬車にしがみついてそう叫ぶポリーにマリウスは手を伸ばした。しかしその間には草地を穿つような深い水路があった。
坂はまた下りになり、馬車は加速して離れて行く。
マリウスは手を伸ばしたまま叫んだ。
「この先は! 止まってーっ!」
「無理ーっ!」
「キャーッ!」
その先には池があった。馬車は水路に嵌まって水しぶきを上げて進み、そのまま下の沼地にザブンと沈み込んで止まった。
ソフィアとポリーはその勢いで池の中に放り出され、大きな水しぶきを上げた。
「大丈夫ーっ?」
駆け下りて来たマリウスが岸から声を掛けた。
草原の中の水溜まりのような池は浅い。ソフィアとポリーはあちこちを欄干や水底で打ってしばらく動けなかった。
「痛いよぉー」
池から立ち上がったポリーが泣き出すと、ソフィアがそこへ駆け付けた。
「大丈夫? 怪我は無い?」
「ウワーン。怖かったよぉー」
「怪我は無さそうね。よしよし。大丈夫。もう大丈夫」
ソフィアはポリー抱き寄せ、ますます大きな声を上げて泣くポリーの頭を撫でた。
マリウスは岸でズボンを捲り上げ、池に入って歩いて来た。
「大丈夫かい? ああ僕の馬車もう壊れちゃったかなあ」
通りがかりにマリウスの目は半ば水に沈んだ馬車に注がれる。ソフィアは泣きじゃくるポリーを抱きしめながら言った。
「マリウス? 私達より馬車の心配?」
「いや。そうじゃないよ。ちょっと気になっただけ」
「大事故になるところだったのよ。少しは責任を感じなさいよ」
「だって、乗ったらダメだって僕言ったよ……」
「でも、いつも乗せてたじゃない!」
「こんな事になるなんて、思わなかったんだよ。本当にゴメン」
ポリーが泣きながら言った。
「マリウスは悪くない……。悪くない……」
「いいわ。無理を言った私も悪いんだもの。いえ、私が悪かったんです!」
泣きそうな顔でソフィアはそう言って、まだ号泣中のポリーの手を引いて岸へと歩いて行く。
すっかり悄げてしまったマリウスは溜息を吐き、ふと、馬車の近くに浮いていたミルク樽を見つけた。
「ミルクの樽があそこにあるよ?」
ソフィア達は岸に辿り着き、スカートの裾を絞りながら言った。
「今はもう無理ね。お肉の包みももう水の中だわ」
マリウスは樽を取りに行き、それを水に浮かべながら岸へと押して行った。そして、岸へ上がるとマリウスは一人で気合いを込めて樽を持ち上げ、顔を真っ赤にして肩に担いだ。
「僕が家まで持って行くよ」
「大丈夫?」
「大丈夫さ。もう家はすぐそこだし。でも……」
「でも?」
「ポニーをほったらかして走って来たから、ちょっと心配だ」
「そう……。ミルクは後でもいいのよ」
「じゃあ、そうする。ポニーを家に連れ帰ってから、ミルクはその後で届ける」
「いいの?」
「ほんの気持ちさ」
「ありがとうマリウス」
「ありがと」
ソフィアとポリーは礼を言って道の無い草原の中を歩いて行った。その坂を下った所に彼女達の家があった。
マリウスは元来た道を戻り、ポニーの倒れた場所へ出た。元の場所にもうポニーは居なかった。が、少し先の草地で草を食んで休んでいるのをすぐ見つける事が出来た。幸い大きな怪我は無いようだった。
ポニーを家に連れ帰ったマリウスは、母のカリーナに事故の様相を語った。
「大丈夫だった? みんな怪我は無い?」
「うん。あちこち打ったみたいだったけど、普通に歩いてたから大丈夫だよ。ミルク樽を置いて来ちゃったんだ。また届けに行って来る」
「気を付けてね」
マリウスは厚手の大きな麻袋を一つ持って道を戻った。
先刻の転倒事故の場所に着くと、マリウスは麻袋を草の上に広げ、そこに足を開いて乗り、急坂の草の上を滑り降りて行く。
これは村の子がよくやっている草滑りだ。もちろんマリウスも滑って遊ぶのだが、牧草地でそれをすると、家族には牧草が傷むと怒られる。今回は遊びでは無いから怒られないだろうと言うのがマリウスの内心の言い訳だった。
その目論見通り、目的の池には素晴らしい速度であっと言う間に着いてしまった。そこでミルク樽を回収すると、その樽を膝下の間に挟み込み、さらに下へ続く草地へと滑り降りた。
その坂は長い長い下り坂、速度は恐ろしい程に加速して行く。そして坂には凹凸があり、その際で大きくジャンプする。マリウスは恐怖に顔をくしゃくしゃにして思わず目を閉じた。着地と共に膝の樽は跳ねて転げ落ち、マリウスの真横を並行して坂を転がって行く。
「あわわ」
マリウスはその樽に手を伸ばすが、転がる樽の勢いは止められるものでは無く、マリウスを追い越して転がって行く。
坂を下り切った先には少し平らな場所が広がり、その先には民家の石積みの塀が立っていた。樽は勢いをそのままに塀へとぶつかった。
「うわーッ! 僕のミルクー!」
平坦な所で減速したマリウスがそこへ駆け寄ると、樽が割れてどくどくとミルクが流れていた。
すぐに樽を持ち上げると、樽の割れたのはぶつかった上の方だけで、下の方が無事だった。
「良かった。でも、少し減っちゃったな」
マリウスはその樽を両手で抱えるように持ちながら、ソフィアとポリーの家へ向かった。
彼女達の家、ベルケル家はチーズ工房を営んでいた。シュッペル家からミルクを仕入れ、そこからチーズを作っている。
マリウスは家の裏からその工房へと入って行った。
「こんにちわー! ミルク持って来ましたー!」
マリウスが裏口をから中を覗くと、棚に並んだ丸いチーズの箱が見え、香ばしいチーズの匂いがする。しかしそこには人の気配は無く、静まり返っている。しばらくすると奥から誰かの声がした。
「正面口の方へ回ってくれ」
それはソフィアの父の声だった。続く細い道を回り込むと、そこには正面の入り口があった。そこにはソフィアの父、ボルク・ベルケルが居た。
「こんにちわ。ミルクを持って来たんです」
「聞いてるよ。事故ったんだって? 娘達は今、怪我の手当をしてるよ。大事な娘なんだ。気を付けてくれよ!」
マリウスは畏まって言った。
「御免なさい! お詫びにミルクを運んで来ました」
「あれ? 何だこの樽、割れてるじゃないか!」
「途中で割ってしまって、零しちゃったんだ」
「はーん? これはもう使えないな。持って帰ってくれ!」
マリウスは慌てて言った。
「ごめんなさい! でもこれは事故でじゃなくて、すぐそこの塀で割れたんだ。坂を滑って降りたら、跳ねて転がって、塀に当たって割れちゃったんだ。ちょっと零れただけだからまだ大丈夫だと思うよ」
「ダメだ。樽は泥だらけじゃないか。そんなの使っておかしなチーズ作ったら信用問題だ。持って帰るんだ」
この樽を持って帰るのは体力的にきつい。マリウスは涙目になった。ここまで抱えて来るのもやっとだったのだ。
「重くて僕には無理。捨ててもいいから受け取ってよ」
「大事なミルクを捨てるなんて出来ない。自分の家に持って帰って飲めばいいだろう」
「じゃあ、ここで飲んでもいい?」
「ああ、好きにしな」
マリウスはまだ朝ご飯も食べれずに動きっぱなしだったので、喉がカラカラだった。その場でコップを借りて、樽の割れ目からミルクを注ぎ、一気に飲んだ。
「はーっ。美味しい! 絞りたての味だよ」
「ん? そうか? 俺も飲んでみていいか?」
「うん!」
マリウスは持っていたコップにミルクを注ぎ、「ハイ」とボルクに渡した。
「うーむ。これは美味いな!」
「でしょう?」
「うちのチーズが美味しいのは、お前のとこのミルクのおかげだ。美味さに免じてこれは俺の飲む分に貰っておくよ」
「良かった!」
「良くないよ。今日チーズを作る分が無いんだ。もう一樽欲しい。持って来てくれないか。娘達は怪我でしばらく動けそうに無いんだ」
「でも、さっき馬車が壊れてしまって……」
「馬車は俺がなおしてやろう」
「ホント?」
「ああ。そうそう事故を起こされても困るからな」
「うう……ごめんなさい」
「まあ、起こったものは仕方無いとして、事故検証だ。この上にあるんだろう? 案内できるか?」
「うん!」
ボルクはマリウスに連れられて、草の坂道を上って行き、沼地へ着くと馬車を水から引き上げた。そしてそれを再び工房の裏へと引いて戻った。
「これで良く曲がれたな。四輪なのに車輪固定とは。この車輪のぐらつき加減と、後輪が浮いて曲がってるだけだから後ろが重かったら曲がらなくなる。それに加えて梶棒はここの欄干に打ち付けただけだ。梶棒で車輪が左右に回頭出来るようになっていない。これじゃあ馬が躓くし、コケれば当然折れるだろう。親父さんが作ったのか」
「うん。遠くに出かける前に急ごしらえで作って、まだ弱いから人を乗せちゃいけないって言われてたんだ」
「そうか。さっきはそれを言っていたのか。しかしこんなもの作って、親父さんには一言言ってやらねばならんな」
ボルクは折れた木を馬車から引き抜き、新しく木の棒を加工して、一箇所だけ釘を打って取り付けた。飛び出た釘の先をさらに打ち付けて折り曲げた。
「こうしておくと、梶棒が上下に動く。馬が倒れても折れない。ミルクの樽くらいは運べるだろう」
「すごーい! ありがとう! もう人が乗ってもいい?」
「いや! これだけではいかんせん弱い。上手く方向転換するには前輪は梶棒で左右に回頭するようになっていないとダメだ。少しの材料費と一週間ほど預けてくれればそれもやって置くんだが」
「お金? お金ならお父さんじゃなきゃ決められないよ」
「じゃあまたブルクハルトが帰って来たら、言ってみてくれ」
「うん。言っておくよ。じゃあまたすぐ来るよ」
「待ってるよ」
マリウスはそう言って馬車の梶棒を轢いて坂道を歩いて行った。
曲がり角に差し掛かると、以前は梶棒に体重を掛ける事で後輪が浮いて上手く曲がっていたのに、今は梶棒を下にしても後輪が浮かず、なかなか曲がる事が出来なかった。
「おじさーん。曲がらなくなったよー」
マリウスが振り向いてそう言うが、ボルクはもう家に入り、その声は届かなかった。仕方無くマリウスは馬車の縁を持ち上げながら道を曲がり、曲がる頃には息が上がって来ていた。
「フーッ! ポニーは自分でこれやってたのか。賢いな!」
そうしてマリウスは登りの山道を馬車を押して行った。家まで車を押して行くのはクタクタになる作業だった。
肩で息をしつつ家に帰るとカリーナが「おかえりなさい」と迎えた。
「どうだった? 疲れたかしら。朝ごはんが出来てるから食べなさい」
「うん、疲れた。でも、また行かなきゃいけないんだ」
「また?」
「ミルク樽を壊して少しこぼしちゃって。それはもうチーズに使えないからもう一つ欲しいんだって」
「そう……ご飯食べて休憩してからで良いんじゃない?」
「うん! じゃあ食べる!」
マリウスが食卓で朝ごはんを食べ始めると、アフラがそのテーブルにやって来て目の前にドスンと座った。かなりご機嫌ナナメなようだ。
「ソフィアとポリーに怪我させたんだって?」
「んんー?」
「そんなにアクシデントを起こすなら、馬車は取り上げにしてもらうわよ!」
「またあー? もうやだー!」
マリウスはまたここでもかと悲嘆に暮れて、その場を逃げた。
「こら! 待ちなさいマリウス!」
マリウスは台所の母の背に回って抱き付いて言った。
「皆んな僕のせいだって言うんだー。僕は乗っちゃダメだって言ったのにぃーっ」
「おお、そうなの。次から気をつければいいのよ」
追い付いたアフラは呆れて言った。
「お母さんに縋っても事故した事は変わらないんだからね」
「馬車がすぐ壊れるようになってたんだって」
「誰が言ったの?」
「ポリーのお父さんだよ。修理してくれたんだ」
「そうなの? じゃあもう大丈夫なのね?」
「それが、まだ道をちゃんと曲がれなくてダメなんだ。お金がかかるからお父さんに言わないと完全にはなおせないんだ」
それを聞いてカリーナが言った。
「お金くらい私が出すわ。すぐ直して貰いましょう」
そう言ってカリーナはエプロンを外していそいそと支度を始めた。
「本当? ねえ本当?」
「ええ。ベルケルさんの所まで一緒に行きましょう。お詫びもしないといけないし」
マリウスは目を輝かせて言った。
「うん!」
「私も行っていい? お見舞い返ししたいわ」
「あなたはお見舞いされるくらい怪我人でしょ。家で大人しくしてなさい」
「ちぇっ。けちー」
「女の子が『ちぇっ』とか言うんじゃありません」
「はーい」
アフラは情勢が悪くなって、再び自室に避難して行った。
それからカリーナは他所行きの服を着込むと、ミルクの入った樽を二つ用意して、マリウスの馬車に積んだ。マリウスも運ぶのを手伝ったが、馬車に乗せる時には背丈が足りず、あまり助けにならなかったようだ。
流石にポニー馬車に乗るような無謀はもうしない。マリウスは子馬の手綱を引き、カリーナは馬車を後ろから押して道を発した。
山道は深い轍の跡が出来ていて、真ん中には草が生え、泥濘や凹凸、そしてカーブが多い。馬車を押すカリーナはカーブの度に馬車の後輪を持ち上げて進まなければならなかった。
「これじゃあ本当に道を曲がるのが大変ね」
「そうでしょ。ポニーが転んだのもそこの大きなカーブだったし」
「どうすれば直るのかしら」
「棒で方向転換出来るようにするんだって」
「棒? この梶棒で?」
「そうだよ。今は上下に動くんだけど、左右に回るようにするんだって」
「上下と左右に?」
「詳しい事はおじさんに聞いて」
なだらかな坂道を下り終える辺りに、道の袂に右への分かれ道があり、その道沿いには木造と白い壁のチーズ小屋が並び、その道の奥の崖際にベルケル家の広い庭付きの家があった。
門前で馬車を止め、カリーナはマリウスに馬の番を頼んで家に入って行き、玄関の戸を叩いた。
マリウスは馬の手綱を庭先の柵に結え付けてから、密かにカリーナの後を追う。
コンコン。
中では何やら騒がしい声が聞こえ、扉を開けて出てきたのはソフィアとポリーだ。
「こんにちは。二人ともお怪我はいかがかしら?」
「なんともないです。ちょっと手を打っただけ」
「えっとね。ここ擦りむいただけ」
ポリーは着替えたての卵色のチュニックスカートの裾をめくって膝を見せた。その時マリウスが庭を歩いて来たので、ソフィアはポリーの裾を引き、慌てて裾を直した。ポリーは呑気に手を振っている。
「マリウスー! また来てくれたのね?」
「うん。そこまでミルクを持って来た」
「無理言ってごめんね」
「どこへ運ぼう?」
「チーズ工房にお父さんがいるわ。お父さーん!」
ソフィアに呼ばれるとボルクが工房の勝手口から顔を出した。
「やあ。カリーナも来てくれたのかい」
「こんにちは、ボルク。ミルクの追加を持って来たわ。何処へ運ぼうかしら」
「ああ、ここに持って来ておくれ。無理を言って悪いね」
マリウスは馬車に戻ってチーズ工房の勝手口までポニーを轢いて行った。
カリーナはその間にボルクに謝っていた。
「娘さん達に怪我をさせてごめんなさいね。二樽あるから一樽はお詫びに取っておいてね」
「いやいや、途中落とした分も飲料用に貰ったし、三樽になるだろう。一樽でいいよ」
「これは気持ちよ。受け取って貰う方がいいの」
「そうか。すまないね」
マリウスが庭に入って来たが、緩やかなカーブで馬車がつっかえ、車輪を持ち上げて叫んだ。
「おじさん! 曲がるのがもっと辛くなったんだ! 直して!」
マリウスがそう言うのを聞いてカリーナが言った。
「あのポニー馬車を直して頂けるとか」
「ああ、しばらく預けてくれれば直すよ。かかった部品代は後で請求するがな」
「いいわ。早速お願いしたいの。毎日のように乗っているみたいだし、安全が一番ですもの」
「わかった。やっておくよ。一週間くらいしたら来てみてくれ」
「支度金に取って置いて」
カリーナは数枚の銀貨をボルクに渡した。
「おい。こんなに……」
「足りなかったらいけないから」
「足りる! それどころか余るよ」
そうしているとマリウスが工房の前まで馬車を轢いて来た。
「なおしてくれるの? おじさん!」
「ああ、なおしておく!」
「ワオ! やったー。なおすの見に来てもいい?」
「いいが、昼間は仕事があるからな。やるのは夕方頃かな」
「じゃあその頃見に来るよ」
「そうか。その前にちょっとミルク運ぶの手伝ってくれるか」
「やるやる!」
喜び勇んだマリウスはミルク樽を一人で抱えて小屋に運び込んだ。そして、ボルクが庭先に持って来たチーズ作り用の鍋にそれを注ぐのも手伝った。
「鍋を抱えておいておくれ。ミルクを人肌くらいに温めながらかき混ぜてな、固まって来るまで練るんだ」
ボルクはミルクを入れた鍋にヨーグルトの欠片のようなものと布袋を袋ごと入れて、木作りの大きなフォークでミルクをしばらくかき混ぜていたが、不意にそれをマリウスに差し出した。
「やってみるか?」
「うん!」
「男の子はそうこなくちゃ!」
その木のフォークを受け取って、マリウスは鍋を抱えるように座り込み、ミルクをクルクルとかき混ぜた。何度もかき混ぜるが、一向に固くなる気配は無かった。その内に隣にポリーがやって来て鍋の縁を持って言った。
「なかなか固まらないね」
「マリウス下手ねー」
そう言われてマリウスは口を尖らせて答えた。
「下手? ポリーは出来るの?」
「私出来なーい。いつもお鍋の持つ役よ」と、ポリーは満面の笑顔だ。
後からソフィアも話に加わって来た。
「マリウス、もっと早くかき混ぜるのよ」
「えー。よくわからないよ。やってみて」
ソフィアはマリウスから木のフォークを受け取って、カシャカシャと慣れた手付きでかき混ぜた。
「こうしてるとすぐ疲れちゃうの。だからお父さんは人にやらせたがるのよね」
ボルクは頭に手を当ててカリーナに苦笑いした。
「こりゃ手厳しいな」
ソフィアがしばらくかき混ぜていると、だんだんとミルクに粘りが出て来た。
「あ、トロトロして来た。やっぱりソフィアは上手だね」とマリウスはそれを指差している。
「ミルクがだんだん温まって来たのよ。こらっ!」
マリウスはそのクリーム状のものを指に掬ってひと舐めしたのでソフィアが睨んだ。
「ちょっと美味しい」
「キタナイ! 汚いから!」
ソフィアは再び伸びてきたマリウスの手を叩いた。
「ソフィア。ポリー。ちょっとおいで」
ソフィアは母親の呼ぶ声に立ち上がり、フォークをマリウスに渡し、ポリーを連れ立って家の方へ駆けて行った。残されたマリウスは一人かき混ぜ始めた。鍋の縁はカリーナが持ってくれた。長い時間かき混ぜていると、だんだんとミルクが固まって糊状のものが浮いて来た。
「すごい! 固まって来たよ!」
「すごいわね。これでいいのかしら」
マリウスは鍋を抱えて、木の桶を作っているボルクのところへ持って行った。
「これでいいの?」
ボルクがそれを見て言った。
「おお、もう少しだな」
「ええー。固くなってもう疲れて来たよ」
「ある程度かき混ぜたら、冷めないようにして待ってるだけでいいんだよ」
「えーっ。早く言ってよー」
マリウスはぐったりと体を横たえた。
ボルクは笑って交代し、固まって来たミルクのカードと呼ばれる塊を切り崩して、しばらく待ってからそれを力強く練り込んだ。するとそこに白い塊が出来て来た。ボルクは妻のハンナとソフィアが作って持って来た丸い布地にそれを移し、水を濾し取りながら言った。
「こうして濾し布に入れて、しばらく水を切るんだ。そしてそれをこの丸い木桶に入れて乾かしながら寝かせればチーズの出来上がりだ。あのミルクから取れるのはこんな少しさ」
「へえー。いつ食べられるの?」
「あと二ヶ月は寝かすんだ。当分味見は少しお預けだな」
「えっそんなに?」
「手伝った権利だ。出来上がったら一つお前の家に届けてやろう」
「本当? やったーっ」
マリウスとカリーナはお礼を言い、そして家路に就いたのだった。
中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。