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ハートランドの遙かなる日々 第8章 山を越えて


 それから半月程が経った。

 アフラは家でイサベラへ宛てた幾通目かの手紙を書いていた。手紙を書く間、マリウスは遊び相手がいないので、退屈そうにしている。

「お姉ちゃん、またお手紙書いてる。お返事来た?」
「ううん」
「じゃあ書いても意味無いじゃない」
「いいの。書くしか無いんだから」
「見せて」
「じゃーま。考えてるんだからあっち行って遊んでなさい」
「けちーっ」

 アフラはイサベラを思うと心配で胸が一杯になって、なかなか筆は進まなかった。
 アルノルトなどはもう心配もしていないそぶりだったが、思い出したようにイサベラからの返事はあったかと聞く。それが今朝出かける前だった。するとアフラはその度に思い悩んだあげく、もう一度手紙を書く事になるのだった。
 イサベラがハプスブルク家に連れ去られた後、抵抗していたブルグント自由伯領は降伏し、王家への抵抗を止めたと父から聞いた。イサベラのそれ程の高貴さと、今の境遇を思うと、アフラはしっかり秘密にして守れなかった事を悲しくなる程に後悔するのだった。
 アフラは手紙を書き終えると、マリウスと一緒外へ出た。
 村で手紙を出す方法は、村長やギルドの人に渡すか、アルトドルフの駅舎のポストに直接届け、そのまま特急便馬車に乗せて貰うかだった。イサベラへの手紙の秘匿性を考えれば、当然後者を選ぶより無い。思い返せば以前はまるで無配慮に出してしまった事が悔やまれた。

「どこまで行くの?」
「アルトドルフまで行くの」
「遠いね」
「いい運動だわ」

 二人は長い坂道をビュルグレン村まで下り、そこからさらにアルトドルフまで歩いて行く。
 アルトドルフの広場を横切ると、何処かの官吏が来ていて何かの立て札を立て始めた。

「何を作ってるのかな?」

 マリウスが首を傾げて見るが、アフラはそれを気にせずに行ってしまう。

「待って」
「寄り道しないの」

 アフラはもう少し先の駅舎まで歩いた。
 その近くへ来ると、アフラは建物の影に隠れ、周囲に人がいる間は道に出ようとしなかった。

「何してるの?」
「人がいる……」
「そりゃあ大通りだもの。いっぱいいるよ」
「いなくならないかしら……」

 しばらく見ていると人は少なくなり、人が見ていない隙を見つけてアフラは走った。
 そして戸口のポストに手紙を入れようとしたところで、駅舎の建物から男が出て来た。

「やあ、こんにちは」
「こ、こんにちは!」
「慌ててどうしたさ?」
「えーと……広場に変な人が!」
「変な人?」

 アフラはそう言って回れ右をして元来た道を戻った。

「お姉ちゃん手紙は?」

 後ろから遅れて駆けて来たマリウスが言ったが、アフラは止まらず、再び元の建物の影まで戻って来た。

「なかなか手強いわ……」
「あの人こっち来るよ」

 さっきの男はアフラの隠れている建物へと歩いて来る。
 この男はヴァルター・フュルストと言って、ビュルグレンより奥の谷、シュピリンゲンを管掌とするアーマンだった。

「変な人ってどこさ?」

 ヴァルターはアフラを見つけて言った。

「向こうの広場! ね?」

 アフラがマリウスにも聞くように言うのでマリウスが言った。

「うん。木で何か作ってた」
「そうか。仕方無い、見て来るか」

 ヴァルターはそう言って広場の方へと歩いて行った。アフラはそれを見送って、大きく息を吐いた。

「はあ。ビックリしたー。手紙見られたかと思った」
「お姉ちゃん、今なら人いないよ」

 アフラはそれを見てまた駆けて行き、戸口のポストに手紙を入れた。

「アフラじゃ無いか。お手紙?」

 ちょうど駅舎から出て来たのはソフィアの母、ハンナだった。

「えええ! 見なかった事にしてーっ」
「手紙くらいで何を慌ててるんだよ。秘密の手紙?」
「もう秘密の秘密なの!」
「この子ったら、もうそこに出したら秘密も何も判らないじゃないか」
「そ、そうでした」
「黙ってすましてれば良かったのに。おかしいねえこの子は」

 そう言ってハンナは笑った。
 ハンナとは帰り道が一緒だった。マリウスとも合流し、広場の方へと歩いて行くと、町の人々が何かを取り囲んで騒いでいた。さっきの官吏が立て札を立てて文書を貼っていたのだ。

「何て書いているのかしら?」

 アフラはその立て札に貼られている紙の字を読み始めた。
 隣にいたハンナが驚いてアフラを見た。

「あんた字が読めるの?」
「うん」
「何て書いてあるの?」
「今ウーリは王様フリーの国二回目……難しい言葉が多くてよく判らない……」
「そう……残念」

 そう言っていると、ヴァルターに手を引かれ、アッティングハウゼンも広場へやって来た。

「これを見て下さい。アッティングハウゼンさん」
「一体これはどうしたことだ?」

 そこにいた官吏はアッティングハウゼンを見付けると歩み寄って来て言った。

「宮廷からの下知である。これをよく読むように」
「宮廷? じゃが字を読める者なんぞここじゃあ一握りだぞ」
「では、読み上げよう。一度しか読まんぞ。良く聞くように」

 宮廷官吏はそれを声に出して読んだ。

——現在ウーリ州は先王フリードリヒ二世の自治特許の下、王下の直轄領として自治権を付与されている。先王はハプスブルク家への借金の抵当として当州を充て、この抵当権によってハプスブルク家をしてウーリ州の管理者に任じ、その後借金を残したまま急逝されるに至っている。管理者たる王家はその自治の特許を尊重し、闘争発生時にのみその権利を行使して来た。この程、聖母聖堂の守護権者であるラッペルスヴィル伯が断絶するに至り、その諸権利は併せて王家の預かるところとなり、権利を総轄する次第となったため、ウーリ州を正式に帝国代官領とし、王の代理執政官を任じて置くこととする。五日後の正午、アルトドルフ広場にて代理執政官による発表をする——

「以上だ。五日後に代理執政官殿が来るから、ここに集まるように」

 宮廷官吏はそう言って手じまいを始めた。

「なんと! 帝国代官領とな!」

 それを聞いたアッティングハウゼンはあまりのことに絶句した。
 ヴァルターはアッティングハウゼンに聞き返した。

「これは一体どういうことなんです?」

 住民達の目はアッティングハウゼンに注がれた。
 アッティングハウゼンは頭を抱えた。

「……王がここまでやってくるとは! 早過ぎる!」
「早過ぎるって、アッティングハウゼンさんは知っていたのか?」
「いや。知ってるも何も前に話した通りじゃ。聖母聖堂の守護権者が王の預かりになったと言ったじゃろう。エリーゼ様の後継者が任じられるはずじゃったが、その他に王の代理執政官、代官がいるということじゃな」
「じゃあ抵当権とか帝国代官領と言うのは?」
「王領になるの? ウーリは!」
「ウーリの土地はどうなるんです?」
「儂等はどうなるんじゃ!」

 町民に詰め寄られたアッティングハウゼンはヴァルターを押し返して言った。

「待て。私の方が聞きたいわい! 立て札には五日後の正午に代理執政官による発表があると書いてある。それを聞いてみるしかなかろう」
「五日後の正午……」
「ここにいる皆で手分けして、五日後の正午ここに集まるように出来るだけ多くの人へ伝えてくれ。ビュルグレンや遠方の村へも忘れずな」
「そうしよう!」

 村人達は話し合って、それぞれの場所へと足を向けた。

「何かすごい事になって来たね」

 ハンナが心配げに言った。

「ビュルグレンって言ってたわ」
「ウチもきっと後で大騒動だね」

 アフラとマリウスはそう言って帰り道へと足を向けた。


 ビュルグレンの村長の家にやってきたヴァルターは、アルトドルフの騒動を村長に伝えた。

「とうとうハプスブルクが乗り出して来たか!」
「五日後にアルトドルフで発表があるそうです」
「こうしてはいられない。ブルクハルト……いや」

 村長はブルクハルトのところへ行こうとしたが、立ち止まって今度は教会の方へ行こうとし、また考えては違う道へ行こうとした。

「村長! 落ち着いて。まずは落ち着いてどこへ行くか決めましょう」
「これが落ち着いていられるか! うーん。まずはそこのヘンゼルのところへ行く」

 早歩きで出て行く村長をヴァルターは追いかけた。
 ヘンゼルは村長の家の近くに住み、年も近く、村長にとって一番の相談相手と言えた。
 家の軒先の椅子にヘンゼルは座っていて、こちらに声をかけてきた。

「やあ。村長。慌ててどうしたんだね」

 村長はヘンゼルにアルトドルフからの急報を告げた。
 ヘンゼルは沈痛な面持ちでそれを聞いた。

「ハプスブルクがそんなことを言い出しおったか……」
「そんな借金の分担金があったなんて知っておったか?」
「ああ、前村長だった親父がよく勘定しながら、土地の分担金が大変だと言っておった。しかしウーリが分担した分は確かもう払い切ったと聞いたがのう」

 ヴァルターが身を乗り出して聞いた。

「何か証明出来るようなものは残ってないんですか?」
「元々前の王の借金だからこちらに借用書は無い。借金を残した前王も死んだんじゃあ、もう内容を覚えている者もおらんだろうしのう。そんな昔のことを持ち出してくるとは、ハプスブルクも本気なんじゃのう」
「教会へ行ってみよう。何か残っているかも知れない」

 村長はヘンゼルも連れて教会へと向かった。教会へ着くと神父を呼び出し、掲示板のことを告げた。

「それは大変なことになりました。ですが村長、お二人にはくれぐれも事を荒立てないよう慎重にお願い致しますよ」
「ところで神父、立て札に書かれていた分担金のことだが、昔、王に納めていた分担金についての文書は残っていないか」
「調べてみましょう」

 神父は書庫へ行って古い文書を探してみたが、それらしいものは無かった。

「あいにく教会関係の文書しか残っていないようです。代々続いている管区長のところになら、そうした文書があるかも知れません」
「ブルクハルトの所か」
「ええ」

 ヘンゼルは難色を示した。

「あいつはハプスブルクと通じているかも知れんからな」

 村長はそれを諫めて言った。

「そう言うな。あいつは村の為に良くやってくれているじゃないか」
「下働きから聞いたが、あいつのところにハプスブルクの馬車が止まったのは本当らしい」
「そうだったか。しかし、奴のことだ。何かの交渉に動いているのかも知れないぞ。それだけで裏切り者扱いしてちゃあ、この後団結して乗り切れまい。この機会だ。お前さんも一緒に来てその件を聞いてみるがいいさ」
「そうさのう。そうしてみるか」

 村長はヴァルターとヘンゼルを連れ立って、ブルクハルトのいる牧場へと向かった。
 ブルクハルトの家に向かう道すがら、道から外れた草原を歩く老婆の姿が見えた。

「あれはサビーネじゃないか。おーい」

 サビーネは村長を振り返り手を振った。

「やっぱりサビーネじゃないか。そんなところで何してるんだ」
「孫にこの方が近道だと教わってねえ。道は悪いが確かに近道なようだよ」
「儂等もブルクハルトのところへ行くところだ。一緒に行こう」
「そう。じゃあこっちに来るがいいよ」

 村長達は道を隔てている柵を恐る恐る越え、サビーネのところへ坂を登って来た。
 村長はサビーネに言った。

「年寄りにはこの道はきついよ」
「柵を越えるのもな」

 ヘンゼルとヴァルターは肩で息をして村長の後に付いて来た。

「なんだい。大の男がそろって情けないね。私がこんなピンピンしてるってのに」

 村長はサビーネとヘンゼルを見比べて笑った。

「違いない。それはそうと、ブルクハルトのところへハプスブルクの馬車が来たって聞いたが知ってるかい?」
「ああ。聞いてるよ。なんでも白亜の豪華馬車だったらしいよ」

 ヘンゼルは呆れたように言った。

「ハ! ブルクハルトはいつの間にハプスブルクのご用聞きになったのかのう」
「それは違うよ。孫に聞いたんだが馬車に乗っていたのはブルグント公爵の娘さんだそうだ」
「そらみろ、どうして貴族の娘なんかがここへ来るんだ?」
「なんでもアフラの見舞いだとか。良くこの辺には来るらしいよ。それでアフラとは顔見知りになったらしい。でも家の人で門前払いにしたらしいよ」
「出任せじゃないだろうな」
「ヘンゼル! 何の理由でそんなにうちの子を疑うんだい? 村の為に毎日あんなに駆けずり回ってるってのに。だいたいね。ハプスブルクの王族が公用でここに来るんなら馬車一つだけで来るわけはないよ。しかも門前払いにしたんだろ? それなのに村の仲間を疑うなんて、村の団結を乱してるのはそっちなんじゃないかい? うちの孫に嘘は無いよ。家には病み上がりの子がいるんだ。疑うんならここで帰っておくれ!」
「まあまあ。サビーネ。ヘンゼルも村を心配するあまりのことだ。本気でブルクハルトが裏切るとは思っていないさ」
「あいつが……ハプスブルクの犬になられちゃ困る。それだけさ」
「そんなのなるはずがないだろう! でなきゃあんな酷い病気のアフラを置いて毎日忙しく出て行くもんかね!」

 村長は朗らかに笑った。

「サビーネが言うと説得力があるのう。ヘンゼル。これにはお前さんの疑い深さも折れたろう」

 ヘンゼルが急にしおらしくなって言った。

「ああ。変に疑ってすまん」
「ブルクハルトに用事ってそのことだったのかい?」
「ああ。いやいや、そうじゃない。実はこの人が知らせてくれたんだが」

 村長はヴァルターを差して言った。

「ヴァルターさん、一体どうしたんだい」
「アルトドルフで騒動が持ち上がってな。ハプスブルクがウーリを帝国代官領とする発表をしに広場に来るらしい。ブルクハルトに伝えに行くところさ」
「そんな大変なことになってるのかい?」

 村長が言った。

「残念ながらのう。ブルクハルトが血相を変えて走り回っていたのがよく判ったよ」
「あの子がアフラを放って出掛けるわけね。今日は共同牧場にいるって言ってたけど」

 サビーネの手が差したシュッペル家の牧場小屋の方へと一同は足を向けた。

「ブルクハルト。いるかい?」

 カリーナが玄関へ出て行くと、サビーネと老人達がぞろぞろと家に入って来た。

「お義母さん。どうしたんです?」
「ブルクハルトはいるかい?」
「今牛舎の方です。呼んで来ますね」

 ヴァルターは言った。

「そうだ。駅舎に届いていた手紙を持って来たのさ」

 その手紙は見ればアルノルト宛てだ。

「ありがとうございます。では客間でお待ち下さい」

 カリーナはお客の案内をしてからブルクハルトを呼びに出て行った。
 しかし、カリーナの後を追ってサビーネや村長らも歩いて来ていた。
 ブルクハルトは牛舎の小屋の手直しの点検をしていた。ちょうど作業が済んだ頃、カリーナに呼ばれた。

「お父さん」

 呼ばれて行ってみると、カリーナの後からサビーネと村長も続いて牛舎に入って来る。

「ブルクハルト! いるかい?」
「母さん。村長も! 揃ってお出ましでどうしたんです」
「いやいや大問題だよ。ハプスブルクの件でね。ちょっといいかね」
「客間にお客様が待ってるの」

 ブルクハルトが客間にやって来ると、深刻そうな顔でそこに座って待っているヘンゼルとヴァルターを見て顔面蒼白になった。

「もしやあのことを?」
「もう心当たりが?」
「ハプスブルクが来たことなら、勝手に来たんだ。わしゃあ知らん。わしゃあ知らんぞ」

 ヘンゼルとヴァルターは顔を見合わせた。そしてヘンゼルはぶっきらぼうに言った。

「それはサビーネにもう聞いたさ。そんなことより大変なんじゃ。この人がアルトドルフから知らせてくれてのう、アルトドルフの広場で大騒動になっているそうだ」

 ヴァルターは言った。

「大変なんだ。広場に立て札が立てられていて、それによると五日後ハプスブルクの代官が来て、ウーリを帝国代官領にする発表をするようなことが書いてあるんでさ」
「何! それは本当か!」
「嘘でこんな所まで来ませんって。とりあえず急いで皆に知らせようと動いてるのさ」
「しかし、我々には前王から貰った自治の特許状がある。王とは言え今更撤回なんてことは出来ないだろう」

 そう訝しむブルクハルトに村長は言った。

「それがのう、ハプスブルクは昔の王の借金の抵当権を持ち出して来た」
「抵当権?」
「そうじゃ。先王はハプスブルクにたいそうな借金があってな。抵当としてこのウーリを入れていたらしいのじゃ。その借金をどうやら残したまま死んだらしいが、詳しくは誰も知らんのじゃ」
「そんな誰も知らないような昔のことを持ち出して来たのか。儂等は知らんと突っぱねればいいんじゃないか?」
「しかしこのヘンゼルが、前の村長が分担金を納めていたことを覚えておってのう」
「それでヘンゼルさんが……てっきりまた言いがかりを付けに来たと思ったよ」
「わしゃそんな強情っぱりじゃないわい。今はそんな場合じゃない。お主のところに爺さんの代の税の帳簿が残ってないか? 儂の親父と一緒に税を集めて教会に納めていたはずなんじゃ」

 ブルクハルトは少し考えて言った。

「この家が出来たのは親父の代だから、爺さんの頃はここではなく、今の母さんの家に住んでいた。あそこの蔵の奥には古文書が置いてあったはずだ」

 村長達は顔を見合わせて言った。

「やれやれ。じゃあとんぼ返りか……」

 ブルクハルトは席を立って言った。

「馬車を出すよ。急ごう」

 ブルクハルトの馬車に揺られ、村長達一行は元来た道を折り返した。教会の近くにあるサビーネの家までは下り道、行きに比べればあっという間のことだった。早速ブルクハルトは蔵を開けて古文書を探した。

「村長、これを見てくれ」

 ブルクハルトは一つの紙を開いて言った。

「これは皇帝フリードリヒ二世の代理として王子ハインリヒ七世が発行した特許状の写しだ。特許状にはしっかりとこう書いてある。『これによって諸君らをハプスブルク伯ルードルフの占有より買い戻し、解放した。今後は授与によってであれ、担保としてであれ、諸君らを手放すことをせず、永久に我々帝国の奉仕のために保持し、保護することを約束するものである——』ハプスブルク伯ルードルフよりの解放、こう約束されている」
「うむ。そうじゃ。特許は王との約束じゃて」

 ヴァルターはそれを見て言った。

「しかし、今は『我々帝国の奉仕のため』というのはハプスブルク王家になるんじゃないでしょうか?」
「うむむ? そうなるのか?」
「そうだから王位が安定した今になって手を出して来たんじゃろう」
「だとすると『保持し、保護する』と書かれているから向こうに有利にもなる可能性がありますね」
「自治の特許状は自治もそうだが、王の権利も立証されてしまう書き方だったと言うわけだ。この文書では決め手にはならないな。じゃあ、こっちを見てくれ」

 ブルクハルトは紙の束を一つ開いて言った。

「爺さんの代で納めた毎年の税の帳簿だ。ここに分担金とある。やはり毎年分担金が納められていたようだ」
「そうか。やっぱりあったか!」
「しかし、これではどれくらい借金があって、どれくらい帳消しになったのか……皆目見当が付かん」

 ヘンゼルは昔を思い返すように言った。

「いつかワシの親父はなあ、分担金はもう全て払ったと大喜びしておった。それを聞いた村人も借金は帳消しだと思っておった」
「それが実は先王には残っていたと……」
「そうだ。王のところの借用証書を見ないことには、その額がどれくらいかは判らん……王も代わったことだし借用証書もハプスブルク本人のところじゃあ信じられたものではないがのう」

 ブルクハルトは神妙に考え込んで言った。

「借用証書は王宮か………待てよ。それだ!」

 ブルクハルトがヘンゼルを指差したので、その先を追った村長はヘンゼルと顔を突き合わせた。ヘンゼルはさも判らない風に言った。

「それって何じゃい?」
「ヘンゼルさんは今良いことを言ってくれた! これなら対抗出来るぞ!」
「一体どうするんだい?」
「前の王の借金なら、今の王に返す義務があるだろう! その証拠に借用証書はここでなく、王のところだ! 我々が返す道理は無いんだ!」

 村長とヘンゼルは考えあぐねていたので、ヴァルターが言った。

「今の王ってのはハプスブルクという事か!」
「そうだ! そうだとも!」
「こりゃあたまげた。王が王自身に返すというわけだ」
「そうだ!」

 村長は膝を打って言った。

「それは道理じゃ!」

 ヘンゼルもこれには相好を崩して手を差し伸べた。

「さすがは村を守る管区長だ!」

 ブルクハルトは笑って、ヘンゼルと握手をした。

「ようやく判ってくれたようだ。私こそは村の守護者だ」

 村長はブルクハルトの肩を叩いて言った。

「こういうことには智恵が回るのう。ブルクハルトは」

 ブルクハルトは少しはにかんでから言った。

「こうしてはいられない。アッティングハウゼンさんのところへ行ってこの話を詰めておくとしよう」

 ヴァルターが「案内するさ」と言って頷いた。
 一行は再び馬車に乗り込み、アルトドルフへ向かった。
 アッティングハウゼンの家に入ると既に多くの人が集まっており、対策を話し合っていた。
 そこへ割って入ったブルクハルトは善後策を発表した。その話が賞賛を以て受け入れられたことは言うまでも無い。



 エルハルトとアルノルトは羊を連れて今日も高地へと登っていた。今日の場所は夏の山小屋があるエンゲルベルク方面の山で、夏にはその山小屋に籠もるので、簡単な仕度をするつもりでもあった。
 山をかなり登ったあたりで広い平原が現れ、その手前には鏡のように水を湛えた池があった。春先は雪に閉ざされていたこの場所も、すっかり雪が解けて羊の食べられる草がたっぷりと芽を吹いていた。そこに羊を放し、アルノルトに羊の番を任せると、エルハルトは夏の山小屋へと向かった。
 山小屋には雨戸がしっかり閉められているので、エルハルトがドアを開けても中は殆ど真っ暗だった。
 しかし、中で何か物音がする。暗い小屋の中に何かがいた。

「誰だ! 出て来い!」

 エルハルトが慌てて手近な窓を開けると、歩いて来る小さな子供の姿があった。明るい所まで来ると、それはジェミだった。

「ジェミじゃないか!」

 ジェミは心から安心したように言った。

「良かったあ。知ってる人だあー」
「こんな所で何をしているんだ?」
「ここはエルハルトさんの山小屋?」
「共同だがそうだな、ウチで使う小屋だ」
「見て」

 ジェミが差す方を見ると、犬が蹲っていた。お腹がとても大きく、今にも子供が産まれそうなのが判った。

「子供が産まれるのか?」
「そうさ。急に生まれそうになってね。今日、ここを使わせて貰ってもいい?」
「いいとも。まだ長く掛かるかも知れないしな」
「ありがとう。ここに来たのがエルハルトさんで良かった」
「すぐそこにアルノルトも来てるぞ」
「本当? 会いたいな」
「呼んで来てやろう」

 エルハルトは山小屋の準備を早々に切り上げ、急な山道を駆け上がってアルノルトを呼びに行った。

「アルノルトー!」

 エルハルトは遠くからアルノルトに声を掛けた。

「なーにー!」
「交代だ!」

 エルハルトは駆けて行き、アルノルトの近くまで来た。

「山小屋にジェミがいた。羊の番を交代して、お前が小屋を点検してくれ」
「えっ! 本当?」

 アルノルトは山道を駆け下りて行き、山小屋へと駆け込んだ。

「ジェミー?」
「やあ、アルノルト」
「どうしたんだい、こんな所まで!」
「ここは山菜や薬草がいっぱい採れるからね。良く来るんだ」
「犬だ……」
「うん、マッシュだ。もうすぐ子供が産まれそうなんだ。さっきエルハルトさんにここで産ませて貰えるよう頼んだよ」
「今日はヴィルヘルムさんはいないの?」
「いないよ? 僕一人さ」
「えっ。ジェミが取り上げるの? 大丈夫かなあ」
「産むのはマッシュさ。僕はこうして背中を擦って見てるだけだよ」
「まあ、犬だから大丈夫かな? でも、かなり時間がかかるんじゃないかな。産んだ後、子犬もマッシュもきっとまだそんなに歩けないし」
「産んだ後もしばらくここにいようかな」
「ここにいるのはいいけど、両親が心配するね」
「うん。そうなんだ……」
「まだ産まれるまでかかりそうだ。一旦ヴィルヘルムさんを呼びに帰ればいい。きっとお産にも助かるし」
「うん……」
「見てるだけでいいなら、僕が時々見てるさ。小屋の屋根を点検しながらね」
「いいのかい? じゃあそうしようかな」
「ああ、それがいい。ジェミの足ならそうはかからないだろうさ」

 ジェミは頷き、犬のマッシュを撫でながら言った。

「じゃあ僕、すぐ行って戻って来るよ。アルノルト、マッシュを宜しくね」

 ジェミはそう言って山を早足で下って行った。
 アルノルトはそれから山小屋の点検をした。点検と言うのは、冬を越した小屋は厚い雪に覆われて、屋根や壁が曲がって壊れている事が多いため、雪の溶けた頃にその場所を点検し、修理をするのだ。アルノルトは屋根に登り、点検して歩き回った。傾斜で足場が悪いのと、板が脆くなっている事もあるので、少し危険な作業だ。そして案の定、屋根が一カ所大きく壊れていた。他にも窓が折れて壊れている箇所もあった。今日は木材が無いので修理は後日になる。アルノルトは修理が必要な箇所を木を削って簡単に書き留めた。

 エルハルトは羊を少し高地へ移していた。今日は頗る天気も良く、途中で崩れる気配も無い。

 エルハルトはせっかくここまで来たならと、峠に立っているケルンまで行ってみる事にした。その向こうにはエンゲルベルク領の景色が見えるはずだ。
 羊を見える場所に纏め、エルハルトは一人急な坂を登って行き、峠の上に立った。
 峠の向こうに開けた景色は壮観だ。壁のように聳える山々挟まれ、遥か眼下の谷には美しい緑の平原が広がっている。そこから峠下にまで急峻なアルプが続き、すぐ下には丸くお盆をくり抜いたような平地が広がっていて、大小の池がある。
 その平地にも、また、遥か下の平原にも、石積みに丸木を立てて旗にしたモニュメントが幾つかあり、最後尾のその向こうからがエンゲルベルクの領内という事になっている。が、エンゲルベルク側は違う主張をしているそうだ。
 その石積みを越え、山道をゆっくりと登ってくる三人の修道服の人影があった。エンゲルベルクは修道院の自治領なので、それは珍しくない。しかし、そのうちの二人は修道女のようだ。
 エルハルトの目はいい。よく目を凝らすと、その生成りの色の修道服とシルエットには見覚えがあった。それは高貴なる聖女、クヌフウタだった。

「クヌフウタさん!」

 その声は谷に木霊し、遥か下にいたクヌフウタにも聞こえた。そしてエルハルトに気が付いて手を振った。エルハルトも手を振り返した。

「何してるんですか!」
「薬草を採ってるんです」

 クヌフウタのその声は小さく、エルハルトには僅かにしか聞こえなかったので、耳に手を当てた。

「薬草よ!」

 エルハルトはああ判ったと言うように、手を上げて頷いた。領を越えてると言おうとしたが、それは見逃すことにした。
 エルハルトは高台の岩に座り、一方で羊を見つつ、もう一方ではクヌフウタの登ってくる様子を見ていた。それからクヌフウタ達はかなりの時間を掛けて斜面を登り、峠のすぐ下の平地の池あたりまで登って来て薬草を採り始めた。
 エルハルトはそれを見届けてから大きな声で言った。

「こんな高くまで来て大変ですね!」
「エルハルトさん?」

 クヌフウタはそれがエルハルトだと気が付いて驚いて言った。ここなら十分に顔も分かり、声が届いた。

「はい! 薬草取れますか?」
「ええ! もうこんなに!」

 クヌフウタは既に採った薬草を手に持って振った。しかし、それは遠くてよく見えない。
 エルハルトはその薬草をよく見せてもらって、こちら側でも生えてるか探したくなったが、羊の番も疎かには出来ない。そしてふと、羊を振り返った。すると、下の方からアルノルトが山を登って来ていた。

「兄貴ーっ!」
「おお!」
「何故そんな高く? 僕のお昼!」
「ああ、悪い悪い!」

 昼ご飯はエルハルトの袈裟に掛けたに入っていた。
 エルハルトが数歩歩いて峠から下りようとすると、アルノルトが指を差している。そっち行くという手振りだ。
 エルハルトは「登って来る気か」と呟いてアルノルトを待った。
 そこから峠までは結構な急斜面だが、アルノルトの足取りは軽い。カモシカが飛び跳ねるように駆け上がって来た。

「ふう到着! いい眺めだ!」
「カモシカみたいに登って来たな」
「あれ? 人がいる」
「あれは、クヌフウタさんだ」
「あ、本当! クヌフウタさーん!」

 アルノルトが手を振ると、クヌフウタは顔を上げて手を振り返した。そしてこちらへ歩いて来る。
 エルハルトが言った。

「薬草を採ってるそうだ。じゃまするんじゃない」
「そうなんだ。兄貴、ご飯頂戴」

 エルハルトは布袋から田舎パンを上下に切ったホットドッグ風のサンドイッチを取り出して、アルノルトに渡した。するとすぐにアルノルトはそれに齧り付き、笑顔になった。

「登って来た後だから美味い!」

 釣られて笑いながら、エルハルトもサンドイッチを大きく頬張った。
 そうしていると、クヌフウタが峠の上まで歩いて来た。

「こんにちは。こんなに見晴らしがいい所でランチだなんて、いいですね」
「こんにちは!」

 アルノルトはそう言って最後のパンを食べ、手を払った。
 続いて、まだ食べている途中なのを急いで呑み込んだエルハルトが挨拶をして言った。

「こんにちは。どうしてこんなに高い所まで?」
「高い所だけに生える稀少な薬草があるのです」

 そう言ってクヌフウタは一輪の白い花を見せた。

「その花なら、あそこの花かな?」

 エルハルトはケルンの下に幾つも咲いていた白い花を差した。
 クヌフウタは目を輝かせた。

「まあ! こっちには沢山!」

 クヌフウタがケルンに駆け寄って、白い花を一つ、根っこごと抜き取った。ケルンの周囲には同じ花が咲き乱れている。

「稀少な花なのにこんなに! これは腹痛草。腹痛によく効んですよ。花の色は高貴なる白、エーデルヴァイスとも称えられます」

 目を輝かせてクヌフウタはそう言って、愛しげに花片を撫でた。
 エルハルトは近くまで来て花を見て言った。

「綺麗な花ですね」

 エルハルトは近くの岩陰にもその花を見付け、手早く摘み始めた。

「あっ! ダメ! そんなに採ってしまっては!」

 クヌフウタはエルハルトを止めた。

「次に花が咲かなくなっては困ってしまいます。間からほんの少しづついただくんです」
「そうですね。じゃあこれ、どうぞ」

 頭を掻きながら、エルハルトは数本のエーデルヴァイスの花をクヌフウタに渡した。

「ありがとう」

 クヌフウタは輝くような笑顔で花を受け取って、腰に巻いた布袋に幾つも入っている瓶を一つ取り出し、その中にその花を短く切って入れた。
 その作業をしている横へ歩いて来たアルノルトは言った。

「ところでクヌフウタさんは、犬のお産には詳しいですか?」
「お産ですか? 少しは嗜みましたが、犬? ですか?」
「はい、犬です。向こうにもう産まれそうな犬がいるんです」
「犬はあまり判らないかもしれませんが、それは見て見たいですね」

 エルハルトが言った。

「近くの山小屋にいるんです。峠を少し越えますが、見に来ますか?」
「そうですね……」

 クヌフウタはすぐそこまで登って来ていた連れの修道女と修道士を振り返った。

「少し行って来ていいですかー?」

 クヌフウタは少し大きめの声でそう言った。

「待って!」

 連れの修道士達は早足で峠まで登って来た。そして肩で息をしながら言った。

「何処まで行くと言うんです?」
「犬のお産があるそうで。どの辺りまでです?」

 クヌフウタに聞かれたアルノルトは言った。

「この草原を通り過ぎて、あの岩山の陰くらいの場所だよ」

 それは距離は少なくても、峠からかなり下る事になる。
 修道士がその高低差を見て言った。

「少し、無理では?」
「でも、犬のお産を見る機会なんて、そうはありませんから……」
「行きましょう! これはまたとない勉強ですから!」

 修道女の方が乗り気でそう言い、勢いで押し切ってしまった。
 エルハルトの先導で一行は峠を下った。

「こっちにも薬草が沢山!」

 クヌフウタは道の途中で薬草の花を見付けては目を輝かせて、時々それを採って歩いた。
 その道の途中の草原では、エルハルトが指笛で牧羊犬のベルに合図した。茂みにいてそれを聞いたベルはあちこちを走り回り、羊を集めて行く。
 修道女達はそれを興味深げに見ていた。

「あの犬じゃないよ? あれは牧羊犬で、賢いんだ。よく走るし」

 アルノルトはクヌフウタにそう告げると、「なんて賢い!」と驚いていた。
 羊達は周囲に集まって来て、そこからは羊に囲まれながら山小屋まで下りて来た。
 山小屋に入ると、暖炉前の敷き藁の上で茶色の大きな犬が悲しそうな声を上げていた。

「マッシュ、置いて行ってゴメンな。この犬だよ。マッシュっていうんだ」

 アルノルトがマッシュの横腹を擦ってやると、横に転んで大きなお腹を見せた。

「まあ、かわいい! それに大きなお腹!」
「かわいいわあ」
「そうかなあ」

 可愛いと言うにはマッシュは大きな犬だった。今で言うセントバーナード犬の原種だったので顔つきもメスとは思えない程不貞不貞しいおじさん顔だった。

「このお腹だと、すぐにでも産まれそうですね」
「判るの?」
「いいえ、何となく……」

 修道女はマッシュを撫で始め、クヌフウタも撫でようと近付くと、マッシュは警戒してそこを立とうとした。

「あまり近くに人が詰め寄るのも、良く無いようですね」

 クヌフウタはそう言って撫でるのを諦め、修道女もそれに習って一歩引いた。
 羊を纏め上げてから山小屋へ入ってきたエルハルトは、自分の半分残したサンドイッチを出してマッシュに食べさせた。マッシュはゆっくりとそれを食べ、エルハルトはしっぽを振るマッシュの首を優しく撫でている。

「一遍に懐いたね」

 アルノルトは食事を全部食べてしまっていたので、感心するばかりだ。

「今は子供の分の栄養も必要だからな。小屋の傷みはどうだ?」
「点検は済んだよ。この辺りの屋根と、そこの窓が壊れてた。雨漏り必至だね」
「オイゲーンさんに後で言っておこう」

 そしてエルハルトはクヌフウタ達を振り返った。

「ここは山小屋で、お迎え出来るものは何もありませんが、どうぞそこの椅子にでも座って、休憩がてらゆっくりして行って下さい。まだいつ産まれるか判りませんから」

 椅子と言っても丸太を切っただけのような椅子とテーブルがそこにあった。

「ありがとう。しばらくお邪魔します」

 修道女達はそう言ってその椅子に座った。
 アルノルトは外を指差して言った。

「水くらいならあるよ。川から引いた水だけど」

 アルノルトとエルハルトは小屋の裏手へ行き、水場の水桶に木管から注ぎ続ける水を、代わる代わるで直接飲んだ。アルノルトは登山で汗をかいた後だったので、思わず声が零れた。

「おいしいっ!」

 そして次にコップ洗いつつ水を汲み始めたが、小屋に置いてあるコップは二つしかなかった。
 そこへ、クヌフウタが出て来て、水の注がれたそのコップを取り、水を一口飲んだ。

「ん! なんておいしい……」

 クヌフウタは頬を押さえて目を瞬かせた。アルノルトは山の頂上を指差して言った。

「ここの水は山の天辺からの雪解け水だよ」
「天然のご馳走ですね」

 コップが二つしかないと聞いて、クヌフウタは自分の分の水をそこで山を眺めながら全部飲んでしまい、そのコップにもう一杯水を汲んで運んだ。もう一つのコップはアルノルトが運ぶ。小屋の中では疲れてぐったりした様子の修道士と修道女が座っていて、二人の前に水を置いた。その水を飲むと、二人はとたんに元気を取り戻した。

「生き返ったようだ!」
「おいしい水をありがとう!」

 それを見てクヌフウタは笑った。

「ここでは一杯の水で大いに人は元気になるようですね」

 エルハルトは皿に水を入れて、マッシュの所へ持って来た。牧羊犬のベルも餌だと思ったのかそれについて入って来た。マッシュを見て驚いて小さく鳴いたが、対面して尻尾を振り合っている。

「水も飲みたいだろう?」

 エルハルトが水を置くが、マッシュはあまり元気が無く、飲もうとしなかった。

「どうした? 飲まないのか?」

 するとベルの方が皿から水を飲み出す。
 早々に諦めたエルハルトは火打ち石を鉄片で打ち、暖炉に火を点けだした。暖炉と言っても料理も出来るように煙突あたりから吊るしが付いていて、囲炉裏にも近いようなものだ。そこに置いてある大きな薪に火を点けるには藁で種火を取るところから始めるので少し時間がかかる。
 アルノルトはそれを見て、外へ出て言った。

「しばらく僕が外で羊を見てるよ。兄さんは中を見ててあげて」
「ああ」

 アルノルトは外へ羊を見に行った。と言っても小屋の前で座って見ているだけでいい。羊達が草を食んでいる眼下の盆地は乗り上げた大きな船のような形で、そこはあまり逃げ場も無いので、放牧にはもって来いの場所だった。草の多い夏の間はここに牛達も連れて来て、山小屋に泊まり込む事になる。
 山の斜面の下に広がる草原を見ていると、その遥か向こうから小さな人影がやって来るのが見えた。
 小さな子供と大男が手を振っている。

「ジェミと、あれはヴィルヘルムさんだ」

 アルノルトは手を振って坂を駆け下りて行った。

 暖炉に細い火が灯り、少し暖かくなると、マッシュはゆっくりと体を起こし、水を舐めて飲み始めた。

「飲んでる飲んでる。あなたも元気になってね」

 クヌフウタはそう言ってマッシュの様子をすぐ近くで見ていた。そして静かに手を伸ばしてマッシュを撫でた。マッシュは気持ち良さそうに撫でられるままになっている。そしてクヌフウタは大きく張ったお腹あたりを両手で擦ってあげた。それはやはり医者の手付きだ。

「元気な子を産んでね」

 エルハルトはそんなクヌフウタに聞いてみた。

「クヌフウタさんはローマの方に行く予定では無かったんですか?」
「ええ。長い患いの病人がいまして。それに、エンゲルベルクは薬草が多く採れるでしょう? 薬草園を作り始めるとつい手が離せなくなってしまって……。今日もその一環でここに来たのです」
「薬草園ですか。それはいい仕事ですね。ウーリにもあるといいですね」
「ここにいる方は薬草園のチームです。少し前までイサベラさんもいて、手伝ってくれたんですよ。この後は無一文の旅ですから、薬草なら持って行って、何かと交換も出来るでしょう? 診療をする事も出来ますし」
「それは上手く考えましたね」
「薬草が沢山集まって来ると、ローマでも生きて行ける自信が湧いてきました。ここへ来たお陰です。これもきっと神のお導きですね。感謝を」

 クヌフウタはそう言って小さく十字を切った。エルハルトはそれを少し羨ましく、そして眩しく思った。

「クヌフウタさんは、以前一緒だったイサベラさん? アニエスさんがどうしてるか聞いてませんか?」
「イサベラさんですか? 王家で保護したと言う通達が修道院にあったのですが、その後の連絡はありません。本人からの手紙もありませんので、手紙などの連絡は禁じられているようですね」
「そうですか……僕らの目の前で連れて行かれたので、皆で心配してるんです」
「そうでしたか……彼女はお后候補ですから、きっと丁重に扱われていますよ」
「お后? それって王の?」
「王子のです。イサベラさんはそれを自分で降りてしまって、ついには本国の事情で逃げ出してしまったのですけどね」
「そんな話、聞いてませんでした……」
「それは内密な事ですもの」
「内密なのに聞いてしまいましたよ?」
「秘密にしておいて下さいね。王家の秘密を漏らすと罪になりますから」

 クヌフウタは笑顔だが、しっかりと釘を刺して来る。エルハルトは声を最小に落として言った。

「どうしてクヌフウタさんがそんな秘密を?」
「そうですね。どうしてでしょう。弟と妹が候補だったからかしら? それとも私が昔候補だったから?」
「クヌフウタさんも?」
「相手は跡継ぎになる予定の王子でした。決まってからは勉強も大変でしたし、両家の仲は最悪で、戦争する程でしたし、実は他に小さい頃からの婚約者がいましたし、苦悩する日々でしたけどね」
「それは大変でしたね……でした?」
「……亡くなってしまったんです」
「そう言ってましたね……」
「でも、実は私、修道院に入って……それを建前に婚約を断ってたんです。叔母も昔、前の王からの求婚を修道院に入って断ったのだとか。不思議な巡り合わせです。私は小さい頃から叔母の修道院に行ってましたから、その方が馴染んでいたんです」
「じゃあ、そっちの方が良かったんですね」
「ええ。少し苦労はありましたが、神に仕える者としては周囲に恵まれてます」
「それなら良かった。でも、クヌフウタさんって凄い人ですね」
「家族や叔母が凄いだけで、私は、何も大した事はしてませんから。今は神に仕える事以外、何も出来ませんもの」
「いえ、そんなことがあっても平然と修道女をしてるのが凄いんです。しかもフランチェスコ派で」
「そうかしら?」
「お医者さんも出来ますしね」
「それは少しだけ自慢したいですね」
「修道女が自慢ってあまり見ないですが……」
「少しだけですよ?」

 クヌフウタは欠片を摘むような仕草をして笑った。

 そうしていると、目深にフードを被り、クロスボウを担いだ大男を連れて、アルノルトが小屋へ入って来た。それを見て修道士がギョッとして驚いた。
 蓬髪の大男はフードを降ろした。それはヴィルヘルムだった。

「ヴィルヘルムさん!」

 エルハルトは立ち上がって笑顔になった。

「やあ。元気そうじゃないか」

 そう言ってヴィルヘルムはエルハルトと硬い握手をした。

「しばらくぶりです」
「うちの犬が世話になるな」
「マッシュ。具合はどうだい?」

 ジェミがマッシュの所へ来ると、とたんにマッシュは喜んでしっぽを振り、鼻を鳴らした。
 それでクヌフウタにも、飼い主が誰か判った。

「だいぶ痛そうにしてるので、陣痛だと思います。もうすぐ産まれるんじゃないかしら」

 クヌフウタの言葉にジェミはキョトンとしている。
 アルノルトが補って言った。

「陣痛って言うのは産まれる前の痛みなのさ。この人はお医者さんでもある。人間のだけど」
「へぇー。アルノルト、お医者さんを呼んでくれたの?」
「偶然峠で会ったのさ。みんなエンゲルベルクの修道院の人達だ」
「はじめまして。僕はこの犬の飼い主のジェミです」

 ジェミはしっかりと挨拶をした。

「私はこの辺りでは少し珍しい名前です。言えるかな? クヌフウタです」
「クンフータ?」
「惜しい。でもそれでもいい感じ。クヌフウタです」
「もうすぐ産まれるの?」
「もうすぐです。私も見ていていいかしら」
「うん。勿論だよ」

 そう言っていると、マッシュは排泄するようなポーズになった。

「あれ? マッシュ! ここではダメ!」

 ジェミはマッシュを揺すった。
 しかし、マッシュはひどく苦しそうな声を上げた。近くで見ていたクヌフウタは言った。

「あっ! 頭が少し出て来ました」

 下腹から羊膜にくるまれた子犬の頭が少し見えていた、マッシュはそれを何度も何度も舐めた。

「おお!」
「まだ膜に入ってる」

 エルハルトとアルノルト、そしてヴィルヘルムもそこへやって来て、食い入るようにそれを見た。
 修道士も横に来たので壁のように人に囲まれる形になった。
 マッシュの苦しげに鳴く声と共に、少しずつ少しずつその体は出て来て、最後にはスルリと敷き藁の上に落ちた。
 クヌフウタが慌ててまだ膜のある子犬を取り上げようとするが、ヴィルヘルムはそれを止めた。

「犬に任せるんだ。人の匂いを付けない方がいい」

 マッシュは子犬を何度も舐めてその羊膜を食べ取ってしまい、臍の緒も噛み切って食べてしまった。すると子犬は産声を上げて鳴き始めた。そして目も開かないのに母犬の方へとヨタヨタと歩いて行く。

「鳴いた! 無事産まれたぞ!」
「お父さん、やった! マッシュ、やった!」

 ジェミ達親子は大喜びで何度もハイタッチをした。他の一同も感慨深くそれを見ていた。

「神秘的ですわ……全て、犬が自分でやってしまうなんて……」

 クヌフウタは少し涙ぐんでいた。
 ヴィルヘルムが言った。

「まだ二匹目、三匹目が産まれてくるはずだ。まだまだ時間がかかるぞ」
「次はどれくらい後?」
「すぐの時もあるし、一時間以上かかる時もある。四匹か五匹もいれば、夜遅くまでかかるだろうな」

 外はもう日が傾いて来ていた。エルハルトは言った。

「ここは使ってもらって構わないんですが、オレ達は用があって、羊もいるから、そろそろ帰らないといけないんです。ヴィルヘルムさん達は夜もずっとここに?」
「ああ。うちの犬の事だ。最後まで見守らないとな」
「何もありませんが、緊急非難用に藁と毛布はあるので使って下さい」
「ああ。十分だ」

 そう言ってヴィルヘルムはその藁を貰って、早速子犬の寝床を作り始めた。

「日があるうちに帰るなら、今のうちですよ」

 エルハルトがクヌフウタと修道士達にそう言った。
 修道士は「もう帰ろう」と言うので、修道女が言った。

「どうします? クヌフウタさん」
「私はここで夜を過ごします。お二人はもうお帰り下さい」
「夜を過ごすって、こんな所でですか?」
「医者の端くれとして、最後まで立ち合います。暖炉もありますし、修道院より暖かいんじゃないかしら?」
「では、男の人も居るようですし、私も残ります。女性一人でここに残せないではないですか」

 修道女はそう言ったので、修道士だけが帰る事になった。
 そう決まると登り道の多い修道士は、一人慌てて出発して行った。

「じゃあ、僕たちも帰ります。兄貴、明日もここへ来よう」

 アルノルトがそう言うと、エルハルトも言った。

「そう言おうと思ってた所だ。じゃあ、明日も来ます。頑張って下さい」
「じゃあ、ジェミも頑張ってね」
「うん! 見てるだけだけどね」
「クヌフウタさんも」
「ええ」

 エルハルトとアルノルトは見送るクヌフウタ、そしてヴィルヘルムとジェミ親子に手を振って山小屋をあとにした。
 そして羊達を連れ、急峻な山道を下って家に帰って行った。


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