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ハートランドの遙かなる日々 第10章 牛祭り


 アルプホルンの音が山に響き渡る。往来にはカウベルの音を響かせながら、牛を連れた人々が列を成して移動を始めていた。牛飼い達は自慢の牛を何頭も引き連れ、アルプホルンの鳴る辺り、国境近くのアルプを目指して歩いていた。

 ウーリとニートヴァルデンの国境地帯で行われる牛祭りは、周辺領の牛飼い達が牛を闘わせ、最強の牛を決めるものだ。元々はニートヴァルデンとオプヴァルデンで行われていたが、オプヴァルデンがハプスブルク家に取り込まれた今、それはやりにくくなり、ウーリとの共同で開催するようになっていた。牛飼い達にとっては晴れの舞台であり、最大のフェスティバルでもある。牧夫達は遠くからも集まり、シュッペル家ももちろん自慢の牛を引き連れてこの闘牛に参加していた。アフラは今日も自慢の祭りの衣装を着て上機嫌に野道を歩いていた。

「大っきいー!」

 アフラが前を歩く牛を見て感嘆の声を上げた。マリウスも「大きい!」と相槌を打っている。

「お父さん。あの牛は私達のホルストより大きいわ。頭や首まで丸々太っちゃって。あんなのに勝てるかしら?」

 そう言うアフラは大きな牛の背に置いた鞄を支えながら歩いている。因みにその鞄はアフラが背負う分の食糧だ。ブルクハルトは一際大きなホルストの手綱を引き、鼻面を撫でながら言った。

「あれは何処のだ? 確かにウチより大きいな。でも大きいだけじゃ強さは判らんさ。闘牛は逃げた方が負け。闘争心と度胸比べだ。ホルストはきっとやってくれるさ」

 しかし後ろから牛を追って歩いている子供達は、父の勝利への希望を一言のうちに伏してしまう。

「ホルストは大人しいよ」

 エルハルトがそう言うと、隣を歩いているアルノルトが言った。

「そうだね。ホルストが闘ってるのって見たことないよ?」

 ブルクハルトは一度のけぞってから、姿勢を立て直した。

「まあ普段は大人しい……けどもな」

 マリウスが小さく言った。

「闘争心じゃあ負けるかもね」

 一気にブルクハルトが気落ちしたようだったので、後ろに続いていたカリーナは一言付け足した。

「でも物怖じしないわね」
「そうだ。強いから物怖じしないんだ。なあ」

 ブルクハルトは無理矢理にそう片付けて、ホルストの首を叩いた。
 闘牛祭りの会場となる広いアルプに着くと、斜面の多い草原は牛また牛で犇めいている。絶えずどこかで牛の鳴く声がし、早くも奮り立って暴れる牛などもいて少々騒がしい。この広いアルプの片隅には縦横に囲った柵があって、その中が闘牛場となり、外側は観客席となっていた。一角では人と人との格闘であるシュビンゲンが行われたり、カーニバル特有の市が開かれていた。
 シュッペル家の一同がビュルグレン村から来た人々と共に今日の場所を確保していると、一人の紳士がやって来て被っていた帽子を取り、ブルクハルトに声を掛けた。

「シュッペルさんではないですか。今年の調子は如何ですかな?」
「ああ、オイデスリートさん。やっぱり今年も来てましたな!」
「勿論ですとも。この祭りに名誉を懸けてますからな」

 それはニートヴァルデンのアーマンであるロドルフ・オイデスリートであった。

「じゃあ、あの大きな牛はオイデスリートさんの牛かい?」
「いや、あれは山の上のエンゲルベルク修道院の牛でね」
「その向こうの一団も育ちがいいようだ」
「向こうはブリーンツ伯のですな。ウーリの修道院でも守護者をしてますから」
「ゼードルフの聖ラザロ教会の? と言う事はウーリの牛かな?」

 オイデスリートは頷いた。

「ええ。聖ラザロ教会はこの辺りまで放牧しているでしょう。栄養がいいのか育ちは良いようですな。うちのも負けてませんよ。あの辺りです」

 そこには大きな牛が並んでいる。

「ほう。いい牛だ。ウンテルヴァルデンは強豪揃いだな」
「ウチには去年優勝のイアソンがいますしな。まあ、今年もウチが取らせて貰いますよ」
「いやいや。そう簡単には譲れんよ。こちらも善戦させてもらう」

 二人は笑いながらも火花を散らすかのように睨み合っている。

「熱くなるにはまだ早いよお二人さん」

 そこへ涼やかにやってきたのはシュウィーツのシュタウファッハだ。後ろにはもう一人、若い牧童が従っている。

「遙々シュウィーツから、シュタウファッハも来ていたか!」
「いやいやシュウィーツは遠い。不公平だな。ここに来るので牛が疲れてしまう」
「確か湖の対岸から船で来たんじゃ無かったか。距離は一番少ないだろうよ」
「ばれていたか」

 オイデスリートは目を丸くして言った。

「いやいやシュタウファッハ殿こそ策士ですな。まんまと油断するところだった」
「牛も船酔いするのだ。疲れてるのは嘘ではない。牛の様子はどうかなコンラッド」

 コンラッドと言われた牧童はアルノルトくらいの年に見える。

「そうですね。牛が船に揺られるなんてことはそうそう無いですから、あの通りぐったりしてますよ」

 牧夫の後ろの牛達は、確かに座り込んでぐったりしている。

「ほら見ろ。人をウソツキのように言ってはいけない」
「いやいやこれは悪かった」

 オイデスリートが頭を掻くと、三人は笑った。シュタウファッハが言った。

「まあ最後に闘うのは我々でなく牛同士だ。恨みっこ無しでいこう」
「勿論だ」

 オイデスリートとシュタウファッハは握手を交わした。ブルクハルトもそこに手を重ねる。

「こちらもお手柔らかにな」
「仲が宜しいようですね」

 凜とした声で和やかにそこへ入って来たのはエリーザベトだった。隣にはルーディックがいる。

「エリーゼ様! いらしていたのですか」
「はい。シュタウファッハさんにお誘いいただきまして」
「紹介しましょう。こちらはニートヴァルデンのアーマン、オイデスリートです」
「まあ。お会い出来て光栄です。私はエリーザベト・フォン・ホーンベルク=ラッペルスヴィル。そして夫のルーディックです」
「ルーディックです。お見知りおきを」

 ルーディックは細い手を差し伸べ、大柄なオイデスリートと握手をした。

「いやあ、お噂は伺っていましたよ。ロドルフ・オイデスリートです。遠方からご足労いただき恐れ入ります」
「いいえ。シュタウファッハさんと対岸から一緒に船に乗せて貰いましたから、お陰様で驚く程あっと言う間に着きましたわ」
「それは良う御座いました」

 そう言ってからオイデスリートとブルクハルトはシュタウファッハを見た。

「シュタウファッハ。すぐ着いたと仰っているぞ」
「今日は風が良かったようだ」
「惚けおって!」

 ブルクハルトはシュタウファッハを軽く叩いた。
 エリーザベトは何故か急に仲が悪くなったので目を白黒させている。

「まあ。私何か悪い事を言いましたかしら」

 ルーディックは苦笑いをするより無かった。
 そこへ三台の馬車が到着した。降りてきたのは貴族風の男と、貴婦人達だ。

「おいでなすった」
「あれが例のラザロ修道院の守護者か」
「はい。ブリーンツ伯です。ニートヴァルデンをはみ出てハスリの山奥の領主ですね。ああ、隣にラウフェンブルク公も! あれが我が領主です」
「領主……か。非道い事をされてはいないか?」
「ラウフェンブルグ伯はキーブルク家を継いだ古い家柄ですし、司教を出す家でもありますからそんな事はありません。まあニートヴァルデンは自治州ですからね。自治を尊重してくれます。しかし……同じハプスブルク一族でも本家のいるオプヴァルデンの方は大いに違います。領地も守護権も本家のものとなって、王城が出来てしまいましたからな」

 オイデスリートは貴族の一団へと歩いて行った。

「もうオプヴァルデンは自治州とは言えんな」

 シュタウファッハが呟くように言い、ブルクハルトは頷いた。

「我々も他人事では無いな」

 ハプスブルク家はニートヴァルデンやシュウィーツにも領地を購入し、領地を持つ修道院の守護権を手に入れつつあった。
 オイデスリートに声を掛けて来たのはブリーンツ伯だった。まだ若いが恰幅がいい。

「お集まりのようだね」

 オイデスリートは貴族達を迎えるのも手慣れた様子で言った。

「これはこれはブリーンツ伯。遠いところをようこそ御参加下さいました」
「ああ。聖ラザロ修道院の土地でいい牛が育ってな。グリムガルドというのだ」
「グリムガルド、強そうな名前ですな。うちのイアソンも負けませんよ」
「去年優勝した牛か。手加減してくれよ」

 その後からさらに別の声がかかった。

「勝負事に手加減はありませんぞ。イアソンは私の領の牛、恨みっこなしでお願い致します」
「これは、エーバーハルト卿」

 一際豪華な服装をしたラウフェンブルク家の一団が歩いて来た。先頭に立つのは当主であるエーバーハルトだ。その半歩後方には夫人のアンナ女伯がいた。旧名家キーブルク家の継承者でもある。その後ろには少年が二人と少女が二人遅れて歩いて来る。オイデスリートは恭しく駆け寄った。

「お出向きいただきまして光栄の至りです。今年も強豪が揃っております。お楽しみ下さい」
「今年の調子はどうだね。オイデスリートよ」
「はい。もちろん今年も優勝を期して、磨きに磨きを掛けております」
「期待しておるぞ」
「アンナ様もご機嫌麗しく」

 オイデスリートはそう言って、改めてアンナの方へ礼を取った。アンナはこの湖周辺の旧領主、キーブルク家の継承者だった。この時既にキーブルク家の男系は断絶し、それを継承したアンナとエーバーハルトの結婚によって、ラウフェンブルク家がこれらの土地を継承し、この夫妻には正統な継承者としての権利があった——はずだった。それはハプスブルク王の手管で本家への売却を迫られ、その主要を占める領地を譲る事になったのだが。

「応援していますよ」
「はっ。必ずご期待に沿います。お楽しみ下さいますよう」

 オイデスリートはアンナに最敬礼で答える。オイデスリート家は旧キーブルクに仕える地方貴族とも言える家柄に位置した。
 エリーザベトとルーディックもエーバーハルト夫妻に挨拶をしにやって来た。隣り合う領主同士、お互いに顔は見知っている。

「久しくお会いしませんでしたね。こちらは夫となりましたルーディックです。結婚を致しまして姓はホーンベルク=ラッペルスヴィルとなるのですが、少し長いので、夫はホーンベルク、私はラッペルスヴィルでその時時に名乗ろうかと思っております。以後宜しくお願い致します」

 エーバーハルトはホーンベルク家とは遠い親戚になるので、ルーディックを知っていた。

「それはおめでとう。ルーディックは親戚のようなもの。フラウ・エリーザベト、こちらこそ宜しくお願い致しますよ」

 エーバーハルトはエリーザベトと握手をした。
 アンナも続いて握手をして言った。

「おめでとう。お隣同士、また仲良く出来そうで嬉しいわ。新郎とも仲良く出来るといいわね」
「こちらこそ。よろしくお引き立てを」

 ルーディックはアンナと握手をしながら、後ろに歩いて来た年の近い少年を気にしている。

「ああ、こちらは兄の遺児なのですが、ルードルフ三世です。ルーディックとは年も近そうだし、仲良くしてやってくれると嬉しい」

 エーバーハルトが手を向けた後方にいたのは夫妻の甥であるルードルフ三世だった。父を戦争で亡くして大領地を継承し、その経営を後見たるエーバーハルト一家に預けていたが、この多くをハプスブルク本家に強制的に売らされてしまっていた。背格好はアフラより一つ上くらいだ。

「こんにちは。ルードルフ様」

 エリーザベトがスカートを摘まんで小さく礼を取ると、ルードルフ三世は片膝を曲げて礼を返した。

「はじめまして」

 つぶらな瞳はさながら夢見がちな少年そのものだ。

「向こうには我が子ハルトマンと賓客がおります。ハルトマン、ご挨拶なさい」

 呼ばれたハルトマンは駆け足でやって来た。マリウスくらいの年だろう。

「こんにちは!」
「あと、賓客が向こうにおりますが、お忍びという事ですので今日は構わないで欲しいとの事です」

 そこには町娘の服を着た二人の少女がはしゃぎ回っている。よく見ればそれは町娘に扮したユッテとイサベラだった。ユッテの鮮やかな青のコットは町娘でも金持ちしか着ないであろう派手な柄だ。イサベラの服装は見たことのあるものだった。黒のベストのようなコルセと呼ばれる服と、内にはミルク色のコットに、オリーブブラウンの長いスカート。元はアフラの服だったものだ。二人とも前鍔の長い白い帽子を風に飛ばされないように手で押さえ、顔を半分隠している。
 エルハルトはその声のする方を見ていて、「アッ」と唸った。アフラの服を着た姿を見て、すぐにイサベラを見つけたのだ。二人はあちこちを指差しながら辺り一円の風景を見回している。その後を数人の護衛のような男達が追従していた。

「無事だったか……」

 思わず呟いて、エルハルトは振り返った。後ろにはアルノルトとアフラがいた。
 エルハルトは親指で後方を指し、満面の笑みで頷いた。

「何が無事なんだい?」
「どうしたの兄さん? なんだか変」

 アルノルトやアフラでは牛より目線が低いため、エルハルトと違ってその向こう側は見えない。

「一緒について来い。静かにな」

 エルハルトは頭の端で方向を指してから、姿勢を低くして歩いた。そして丸太を打ち込んだ柵を背にして座り込んだ。アフラは兄を追って来て訊ねた。

「どうしたの?」
「まずは、騒がないこと。いいな?」
「うん」
「そこに乗って向こうを見て」

 エルハルトが顎で差すので、アフラは柵に半分登って顔を出し、その方向を見た。

「あれは! イサベ……」

 エルハルトに肩を掴み下ろされたので、アフラは途中で言葉を止めた。

「良かった……」

 すぐ走って行こうとするアフラを、スカートを掴んでアルノルトは止めた。

「ヤッだ! アル兄!」
「シッ。目立っちゃいけない。変な噂が立つだろう」

 エルハルトは目で頷いた。

「そうだ。それに護衛がいる。あの様子じゃあまだ捕まっているのかもしれない」
「本当だ。以前の奴?」
「ああ。前にいた羽根帽子だ」

 アフラは半ベソで兄にしがみついた。

「エルハルト兄さん! どうすればいい?」
「考えがある。牛を動かす。その陰に隠れて近付くんだ。そして静かにあの子達を牛に隠してここまで連れて帰るんだ。奴ら護衛は俺に任せろ」
「うん!」

 エルハルトは口笛を吹き、牛追いの鞭を鳴らし、周囲の牛を追い立てて歩かせた。

「おいどうした?」

 牛が列を成して歩き出すと、牛飼い達は慌ててその牛を追った。アルノルトは牛の手綱を引きつつその陰に隠れるように静かに歩いた。アフラもその背に隠れているが、チラチラと前を見ようと顔を出すのでその姿は見え隠れして、ある意味目立っている。

「あれ……」
「どうしたのユッテ」

 ユッテはやって来る牛の真ん中を指差して満面の笑顔を向けた。よく見るとその牛の足の隙間には見覚えのある足が見えていた。ユッテとイサベラが表情を輝かせた。二人がその牛の方へと歩いて行くと、やって来た群れに周囲を囲まれ、牛を避けている内に方向を見失った。近付いて来た牛がくるっと向きを変え、そこにはアルノルトとアフラが顔を出した。
 二人はユッテとイサベラの前に進み出た。

「ようこそ。ウーリランドへ」

 アルノルトは胸に手を当て、わざと大仰に貴族風の挨拶をする。

「ようこそ。牛祭りへ」

 アフラもスカートを摘まんで続いて真似をするが、少し涙声だった。
 イサベラも再会の喜びに、目に涙を浮かべていた。

「わあ!」

 ユッテはもう小さく喜びの声を上げている。
 アフラは口に人差し指を立てた。

「シーッ。牛に隠れながら歩きます」
「さあこっちに隠れて。静かにね」

 アルノルトはそう言ってイサベラの手を取って牛の陰に入れる。

「こっちよ」

 アフラはユッテの手を引いて別の牛の陰に入れ、一緒に歩いた。
 護衛達は二人の令嬢を見失って右往左往し、牛の下へ屈み込んだ。すると牛の向こうに幾つも人の足が見える。

「あそこだ」

 護衛達はその方向へと走り始めた。

「まずい。もう見つかった。逃げよう」

 アルノルトは牛の間を伝って走り出した。その手はイサベラの手を引いている。イサベラはアフラの手を取り、アフラはユッテの手を取って、一列になって走った。
 しかし、護衛達の足は早い。すぐに牛の群れを回り込み、その姿を捕らえる場所まで走って来た。

「いたぞ。待て!」

 そこへエルハルトが割って入って、いきなり大声で叫んだ。

「人攫いがいるぞ! こいつらだ!」

 エルハルトのその声で、牛を捕まえて戻ろうとしていた牛飼い達は周囲を囲むように集まって来た。

「人攫いだって?」
「ああ。お前は前の春祭りで女の子を攫ったろう」

 羽根帽子を付けた貴族が横柄な態度で言った。

「誰かと思えば前の小童か。変な言い掛かりをするんじゃない」
「オレは女の子が攫われて行くのをこの目で見て、暴走する馬車を追って行って馬車に掴まった。その中にいたのは確かに此奴等だ」
「あの時の暴走馬車か!」
「オレも見てたよ!」
「何者だ!」

 牛飼い達が護衛達を囲むように集まって来た。

「何を言ってる。事実無根の言い掛かりだ!」
「今も誰か追い掛けていた! 未遂も罪だからな!」

 エルハルトが凄むと村人達は腕を組んで大勢集まって来た。

「いや……待て。話せば判る」
「ハプスブルクの家来だろう!」
「そ、そうだ! 王家の命だ!」
「何! ハプスブルクだって?」

 村人の表情はさらに敵意に満ちて険悪になる。

「王の犬か…」

 鞭を持っているエルハルトはそれを構えて護衛を威嚇した。

「誰であろうと、女の子を攫うとは見過ごせない大罪だ。裁判権のある父のラントアーマンもそこにいる。この場で裁判にかけよう! この邦では青空裁判が正式な決定だ!」

 指を差されたブルクハルトは人が集まっているので何事かと歩いて来ていた。
 護衛達は追い詰められ、片手は剣に置かれた。

「待て! これには訳が!」
「ここは自治の国ウーリだ! 当然、罪人を裁く権利がある。少し向こうの丘からならばニートヴァルデンの国境で、我が州の裁判権からは外れるがな」
「丘?」
「ここから見えるだろう。あの丘の尾根の向こうだ」

 それを聞いたとたん、護衛は剣を抜いた。村人逹が驚いて下がった隙を見て、護衛達は走り出した。その丘の向こうへと。

「待て、人攫い!」

 それを村人はすぐ追おうとする。しかし、エルハルトはそれを止めた。そして石を投げ、それは足に命中した。それは飛び上がる程に痛かった。他の村人が続いて石を投げると、護衛の貴族はびっこを引いて必死に逃げ、尾根に辿り着いた。

「国外追放完了だ。国境から向こうでせいぜい見てるがいい。こっちへ入ったら捕まえてやるからな!」
「覚えてろ!」
「これは痛快だ!」

 遠くから悔しがる護衛達の姿に村人逹は笑った。それからまた石を放ったので、護衛達はさらに遠くまで逃げた。

 牛の陰を伝って手を繋いで走って来たアルノルトとイサベラ、そしてアフラとユッテは、元の柵の陰まで来たところで後ろを振り返った。するとちょうど護衛逹が逃げて行くのが見えた。

「流石エルハルト兄さんだ! 護衛は逃げてった」
「ああ! ありがとう! ありがとう」

 イサベラは大きく息を吐いて、アルノルトの手を両手で握りしめ、礼を言った。

「良かったあ!」

 アフラはそう言ってアルノルトとイサベラに横から飛び付いた。そしてキャッキャと跳ねながら手を繋ぎ、ステップを踏んで回った。イサベラはその喜びのダンスに付き合って回っている。

「ランタッタ♪ ランタッタ♪」

 アフラが遠くから聞こえる民族音楽を口ずさんで踊るので、三人でワルツを踊るかのようだ。

「おいおい喜び過ぎだろう」
「自由よイサベラ!」

 そこへユッテも飛び付いて来たので、イサベラはバランスを失い倒れそうになる。アルノルトはとっさにイサベラを庇って積まれた藁へと引っ張り返し、自ら体を入れ替えてそこへ倒れてユッテとイサベラの下敷きになった。

「重っ!」

 三人は藁まみれで笑った。
 アフラはイサベラの手を握って言った。

「ああ! アニエスさん。無事だったのね!」
「はい。心配をかけましたね」
「ユッテさんも! また会えて嬉しいです」
「わたしもよ」

 その喜び合う姿は村人から見ると、遠方の旧友に再会したように見えた。カリーナを除いては。

「シスターさんにもお休みは必要ですものね。楽しんで行って下さいな」

 アニエスを知るカリーナはそう声を掛けた。

「ありがとう御座います」

 アルノルトはしばらくお腹を押さえて呻いていたが、誰も気が付かないので諦めて立ち上がった。

「今日はシスター姿じゃないみたいだね」
「今日はエンゲルベルク代表として……」
「君が代表?」
「修道院長は生活規則に厳格な方なので参加者出来る人がいなくて、来ているのがたまたま私だけなの」
「そっちの子も偉い領主様なんだろ?」

 イサベラはアルノルトの耳に口を近付けた。

「何を?」

 アルノルトは少し赤くなってそれを制した。

「内緒の話なの。絶対内緒よ」
「うん?」

 イサベラはアルノルトの耳元で囁いた。
(あの方はユッテ・フォン・ハプスブルク、老王様の末娘です。私の学友を装っているの)
 それを聞いたアルノルトは言った。

「それで?」
「驚かないの?」
「そんな事だと思ったよ」
「そうなの?」
「でも、それがバレたら村八分にされるって知ってるだろ?」

 アルノルトに睨まれたユッテは、それを聞いて気まずそうに肩を竦ませた。
 アフラは言った。

「今日はお祭りだし、王侯貴族、自由民。色々な人が来るわ?」
「それも一理ある。こうなったらとにかく村人にバレない事だ。ちょっと考えよう」

 そう言ってアルノルトは腕を組んで考えている。
 そうしていると、エルハルトがやって来た。

「アルノルト。牛を戻すぞ。手伝え」
「あ、エルハルト兄さんだ。流石だったね。こちらはアニエスさん。いつぞやのシスターさんだよ」
「ああ、シスターさん。ご無事で良かった」
「お兄様。お助け頂いてありがとうございました」
「当然の事をしただけです。目の前で攫われて、皆で心配していたんです」
「それであちらは獅子の籠の主……」
「あっ。ハプ……こっちがそうなのか?」
「末娘だそうだよ……」
「まずいな……」

 そう言って視線をユッテに投げると、彼女は少しご機嫌ナナメそうに睨み返している。
 エルハルトは言った。

「兄のエルハルトです。ユッテさんでいいのかな?」
「はい……ユッテと申します。改めて宜しくお願い致しますわ」

 ユッテはスカートの裾を大きく広げて足を半歩下がって屈め、あからさまに貴族風の挨拶をした。
 エルハルトはそれを見てアルノルトの耳元で小声で言った。

「これは相当困るな」
「うん。でもお祭りの日は王侯貴族も来るもんだよ。お忍びの平服だし、バレないで穏便に過ごす方法は無いかな」
「こういうのはどうだ」

 エルハルトはアルノルトに耳打ちした。
 そこへ、向こうからやって来たのはルーディックだった。後にはラウフェンブルク家の子息がついて来ていた。

「やあやあ、皆さんお揃いで。ご機嫌麗しゅう我が姫君」
「待て、ルーディック!」

 アルノルトはその挨拶の手を掴んで止め、顔を近付けて小声で言った。

「ダメなんだ! ルーディック! お忍びなんだ。お忍び。解るか?」
「そ、そうか。これはすまなかった。彼を紹介しようかと思って」
「それもダメだ。だが一応内緒で聞かせてくれ」

 ルーディックはアルノルトの耳元で言った。

「ラウフェンブルク=ハプスブルク伯の遺児、ルードルフ三世、そして、同家のハルトマンだ」
「またハプ……。ちょっと待って。頼むから待って!」

 アルノルトは今度はエルハルトへと耳打ちをしながら互いに相談をした。
 アフラが呆れて言った。

「もう何? さっきから内緒話ばっかりして!」

 エルハルトはユッテとイサベラに向き直って話を切り出した。

「君とアニエスさん。二人に話というか提案があるんだ」
「何でしょう?」
「条件付きで、今日一日、アフラと一緒にいてやってくれないか」

 ユッテはその提案に耳を疑った。さっき言っていた事とは真逆だったのだから。

「いいんですの?」

 アフラなどは既に小躍りしている。
 ユッテはスカートを摘んで言った。

「はい。喜んで…」
「それは待った! ただし、条件がある」
「何でしょう?」
「今日はウチの村に立ち寄った自由民として参加して欲しい。その貴族風の言葉遣いや儀礼は抜きだ。もちろんこちらも礼儀も敬語も抜きだ。バレたら大変な騒動になるのは判るね」

 イサベラとユッテは顔を見合わせて笑っている。

「構いませんわ」
「あと! もう一つある」
「まだあるんですの?」
「今日は貴族と話しをしてはダメだ。そこの来客もお断りする。貴族側の席に行くのもダメだ。その場合は即座に断交する」

 イサベラが当惑顔で言った。

「そんな……挨拶があるんです」

 横からアルノルトが言った。

「一日挨拶しないくらい影響ないだろう。こっちは変な噂が立ったら村八分だからな。それくらいさせて貰わなきゃ割が合わない。そちらは挨拶しないくらいで何かされるのか」

 イサベラとユッテは頷き合い、ユッテが言った。

「承知しましたわ」

 エルハルトはまだ頭を振った。

「その言葉遣いじゃダメだ」
「判りました……」
「まだダメだな。村人の言葉でないと」
「判ったわ! これでいいでしょ!」

 エルハルトは言葉に力を抜いて笑顔になって言った。

「そうそう。その調子なら宜しく頼むよ」

 イサベラとユッテは揃って溜息を吐いた。そして後、満面の笑みになった。アフラはその笑顔に連られるように二人の手をとって笑い合った。望外の、いや、望んで止まなかった願いが叶えられたようでもあったのだ。
 反面、三人のご令息は下を向き、所帯無さげに行ったり来たりしている。
 アルノルトはそんなルーディックを捕まえて言った。

「というわけなんだ。ルーディック」
「ここまで来て、話す事も出来ないって事?」
「残念だったね」

 アルノルトは小さく手を振った。

「それはないよー」

 ユッテが通りすがりざま囁き声で言った。

「あっち行ってて……」

 そしてすぐさま口を閉じて後を向いた。ハルトマンやルードルフとユッテとは親戚に当たるので当然顔見知りだ。年も近いので仲はいい方だ。ハルトマンは何か言いたげな目で少し歩み寄ったので、ユッテは目を合わさないようにして、何度も手を払った。ハルトマンは少し傷付いたのかションボリしている。
 アルノルトが苦笑いをした。

「危ない。早々に終了する所だった……。まあ君だって平服で、同じ条件ならいいよ」
「無理だ! エリーザベトは礼儀に厳しいったら無いんだ。ずっと向こうで見てるよ!」
「ご苦労な事だね。では、残念だが、お引き取り願おう」

 アルノルトが貴族風に礼をして送り出すと、ルーディックとルードルフ、ハルトマンは悲しい顔を向けながら去って行った。

 参加者が全員集合した頃合いとなって、闘牛の抽選が始まった。牧夫達は抽選箱に並び、順に札を引いて、トーナメントの枠を取る。ブルクハルトも札を引いて、掲示板の札と見比べる。そして、当る牛を見定めると、村人の方に札を上げてガッツポーズをした。ビュルグレン村の人々は大喝采だ。ブルクハルトは調子付いて村人や家族や知り合いあちこちに向けて何度も札を振り上げるので、待ちきれなくなった役員が何かを叫び、その札は横から奪うようにもぎ取られ、掲示板に掛けられた。その横にはビュルグレンと記される。

「まあまあ良い順だ」

 エルハルトが頷くと、アルノルトは「よっし!」と父に拳を挙げて応えた。マリウスとカリーナも拍手を送った。カリーナの隣にはアフラがいて、その隣にはイサベラとユッテの姿があった。

「アニエスさんが一推しの牛はどの子?」
「やっぱりエンゲルベルクではあの大きな牛ね。ゼンメルって言うの」
「うそ! ホント! さっきの巨牛じゃない! イサベラさんの牛は強敵だわ」
「私の牛って言うわけじゃないのよ。でも時々お世話もしたから、じゃれついて来て可愛いのよ」
「大きくても可愛いものなのね。ユッテさんはどの牛を応援する?」
「私は、そうねえ……。あの子がいい! 鞄を背負って可愛いわ」

 それはアフラの鞄を背に乗せた牛だった。

「あれは私の鞄……。あの子は私の鞄を背負って来てくれたのよ」
「じゃあ、貴女の牛?」
「そうね。でもウチの牧場は村みんなのだから」
「でも貴女のお気に入りの牛ね?」
「ええ、そうよ。お顔が綺麗でしょこの子」
「そうね。可愛い顔してるわ。じゃあ一緒に応援しましょう?」
「うん! タロスって言うのよ」
「タロスね。タロスー!」

 そう言って二人は草を食む牛の方へ駆けていき、「頑張れー」と代わる代わるにその首を撫でた。
 そこへブルクハルトがやって来て言った。下働きのカルバンもいる。

「タロスの番は最初だぞ」
「もう闘うの?」
「ああ。その鞄は下ろしてやってくれ」

 アフラが鞄を下ろしていると、ユッテが「お父様?」と聞いて来た。
 アフラが頷くと、ユッテがスカートを摘まんで貴族式の礼をしかけたので、慌ててアフラは肩を揺らして止めた。

「ちょっと待って。父さん。この人お友達なの。よろしくー」

 ユッテはアフラに体を揺すられてフラフラしながら「よろしくー」と続けた。

「そうか。そうか。アフラを宜しくな」
「相手はどこの牛?」
「オイデスリートのとこのだ。まあ、勝ちは貰ったな」と、ブルクハルトはウィンクをする。

「あの牛?」
「あの白ブチの牛だ」

 見ればその牛の胴回りは一回り大きい。ユッテは心配そうに言った。

「太っちょな牛ね。勝てるかしら」
「しっかりお尻叩けば大丈夫よ。頑張ってタロス!」

 アフラはタロスのお尻を叩いてその場から送り出した。
 カルバンに手綱を引かれ、タロスは試合場の中央へと歩いて行く。相手の牛も同じようにその向かいに来て、牛同士は対峙した。牛と牛が互いに角を突き合わせると、人々の喝采の声が沸く。

「ハイア!」

 鞭が鳴ると綱が放たれ、闘牛が始まった。相手の牛は押し合いながら、大きな威嚇の声を上げる。一回り小さなタロスも始めはゆっくり押し合っているだけだったが、次第に闘争心に火が着いて目を剥いて頭をぶつかり合わせる。そうすると人々の声援も自然に大きくなっていった。
 次第に体格の差が出たのか、タロスは少しずつ押し下げられ始めた。

「いけータロスー! 下がるんじゃなーい! がんばれー!」

 アフラは柵に登って体を乗り出し、手を振り上げて声援を送る。隣でユッテがアフラの声に頷いているのは、そうだそうだと応援の気持ちを送っているのであろう。カリーナはアフラを見かねて言った。

「女の子が一番大声上げてたらはしたないわよ」
「タロ…ス… あ、ごめんなさぃ……」

 アフラのその勢いの萎んでいく様に、ユッテは声を上げて笑った。その向こうにいるイサベラは笑うをの堪えていたが、それは次第に堪えられなくなり、大きな笑い声になった。アフラは足を掛けていた柵から降り、頭を掻いている。

「なんだか楽しそうだな」

 アフラの向こう隣にいたアルノルトがその様子を見て声を掛ける。
 ユッテは急に不機嫌そうになって言った。

「笑うくらいの自由はあるでしょう?」
「もちろん。今は自由民なんだろ? 自由民らしく楽しんでくれればいい」
「そうさせていただきますわ」
「自由民らしく?」
「そ、そうさせて貰う…わ」
「是非そうしてくれ」

 そうしているうちにタロスは次第に押され始めていた。一歩また一歩と後ろに下がって行く。

「まずいな。下がりすぎると負けの判定になる」

 エルハルトがそう唸ると、アフラが再び柵に登り、叫び出した。

「下がっちゃダメー! タロス! ご飯抜きよー!」

 それが聞こえたのか、タロスは一度身を屈めた後、捨て身のように相手の首下にぶつかった。相手の牛は前足を浮かして少し後ろへ弾け飛んだ。そして二頭は少し距離を置いて睨み合う。

「行けー!」
「そうだ! もう一つ行けー!」

 アルノルトが思わず声を上げた。
 それが聞こえたのか、タロスは再び攻撃を始めた。少し下がっては猛烈にぶつかり、また下がってはぶつかる。そうしていると相手の体は正面からずれて、角が横面に刺さるように当った。とたんに巨牛は体を反らして逃げて行く。
 ブルクハルトが手を上げ、向かい側でオイデスリートが頭を覆った。

「勝負あった! 勝者ビュルグレン牧場!」

 審判の声にウーリの人々は大きな喚声を上げた。シュッペル家も大いに沸いた。

「よーし!」

 声と共に飛び出して行ったカルバンは、尚も向かって行こうとするタロスを押さえ、背を叩いて誉めてやる。

「でかしたタロス! どうどう」

 ブルクハルトも角を掴み、二人で自分の陣営に引き戻して行った。
 ユッテは状況が呑み込めず「勝った? 勝ったの?」と聞いている。アルノルトは言った。

「戦意を失くしたら負けだ。だからウチの勝ち!」
「やったわ! キャー!」

 ユッテはイサベラの手を掴んで跳ねたが、イサベラが小さく笑う表情は落ち着き過ぎて温度差がある。その間にアフラが「勝ったわー!」と、飛び込んで来たので、ユッテはアフラと手を取り合って跳ねた。
 ブルクハルトはタロスを引いて、シュッペル家の目の前にやって来た。

「でかしたぞタロス」
「タロス。よくやったね」

 アルノルトとアフラはタロスの鼻面と顎を思い切り撫でてやる。タロスはまだ興奮冷めやらぬようで、しきりに首を上下に振っている。

「ユッテさんも触る?」

 アフラがそう言って場所を空けると、ユッテは怖ず怖ずと手をのばして首を触った。
 イサベラも背伸びして優しく頭を撫でた。するとタロスは次第に落ち着きを取り戻し、大人しくなった。
 ブルクハルトがタロスを讃えるようにその背を叩いて言った。

「お嬢さんに誉められると牛も喜んでるようだ」

 そうしていると、周辺が騒がしくなって来た。アフラが指を差して言った。

「あっ。次はアニエスさんの牛よ。向こうに出てきたわ」

 今年集まった中でも一番の巨牛が姿を現すと、祭りの場に響めきが沸いた。今闘ったタロスより一回り、二回りも大きい。足回りや胴回りも太いので倍くらいの重量がありそうだった。
 エルハルトは溜め息を吐いて言った。

「これはデカイな。対する牛もかなり大きいのに、小さく見える」

 アルノルトはイサベラを頭の端で差して言った。

「牧場主はエンゲルベルク。お嬢さん方の関係者らしいよ」
「道理で栄養がいいわけだ。相手の牛は何処のだろう」
「相手の牛は聖ラザロ農場だ。修道院同士の戦いだね」

 ブルクハルトは言った。

「さっきのブリーンツ伯の所のか」

 ブリーンツ伯錫は貴族席の壇上にあって、髭をさすりながら渋い顔をしている。

「大きさだけなら決勝戦だな」

 両者が角を突き合わせ、鞭が鳴った。二頭の牛は膠着したまま動かないように見えた。しかし、聖ラザロ側の牛は必死に押している一方、エンゲルベルクの巨牛は全くビクともしない。

「イサベラさんはあの牛を応援しないの?」
「応援してるわ。私はね、心の中で『きっと勝つ』ってささやかに信じて思っているだけなの」
「そういう応援もあるのね」

 やがて、唐突に均衡は崩れた。巨牛はゆらりと前へ歩き出したのだ。押し返す牛はまるで力を持たないかのように後ろへ下がって行く。柵の近くまで押されて体勢が崩れると、審議役員が勝ち名乗りを上げた。

「勝負あった! 勝者、エンゲルベルク牧場!」

 巨牛は勝ち名乗りも聞こえないままに突進を続け、相手の牛はとうとう柵の端にぶつかって、丈夫な丸木の柵を折り倒した。圧倒的な幕切れにしばらく会場は押し黙った。

「フフッ。イサベラさんの牛……強過ぎるみたい」

 イサベラも微笑みを返す。

「そうみたいね」
「あんなの反則だわ」とユッテは溜め息を吐く。

「うん。同じ意見だよ」とアルノルトが相槌を打つと、ユッテは「でしょう? 反則よ」と握手をした。

「あら? 何も違反はしてなくってよ?」とイサベラは言い返してくる。
 アルノルトは首を振った。

「あの巨体は並大抵の牛じゃあ押し返せない。それがもう反則だろ?」
「でしたら、体の大きさに上限があると仰るのかしら?」
「確かにそんなルールは無い。少し言葉が怪しいぞ」
「え? じゃあ。反則ではないのではなくて……じゃなくて……じゃない?」

 アルノルトとユッテは思わず吹き出した。

「え? なんて?」

 イサベラは僅かに頬を赤くし俯いて、さらに小さな声で言った。

「ないんじゃないかしら……と」
「もう何がどうだか判らないよ? どっち?」

 アルノルトが腹を抱えて笑うと、いつしかアフラも苦笑いをして口元を隠している。

「もう意地悪!」

 イサベラが少しご機嫌斜めなのを余所目に、アルノルトとユッテは笑いが止まらなかった。イサベラは特に大きな声で笑っているユッテに言った。

「そんなに笑って、ユッテは大丈夫なのかしら?」
「あら。私は変わらないわ。そのままでいいのよ」
「そう言えばそうね。山の方の言葉なのに」
「実は田舎者だったのか」とアルノルトはほくそ笑んだ。

「失礼しちゃう。産まれのラインフェルデンは此処と近いし、それに普段敬語を使わないもの」

 アルノルトは急に言葉を荒らげて言った。

「ああ! これだからムカつくんだ!」

 ユッテはアルノルトの言葉に丸い目をさらに丸く見開いた。

「どうしてー?」
「だって同じ田舎産まれのくせにみんな下々の者だって見下してんだろ」

 ユッテの大きな目はますます大きくなった。

「そうじゃないわよ。そんなこと思ってないわ」
「この辺の人を見て汚ないとか思うんだろ?」
「それは時々……」
「ほらな」
「だって、それは事実そうだから」
「事実! 牛の世話すればそれは汚くなる。でもね。僕らは牛を育てる仕事に誇りを持っているよ。このお祭りもそれでこそ出来るんだから。汚いの避けてたら牛も育たないよ」
「ごめんなさい……だから今は……」

 ユッテは懇願するように言った。

「謝らなくていい! 事実と事実さ。僕らは汚れ仕事の牧者、君らは……」
「止めて」

 イサベラが割って入って来たので、アルノルトは矛を収めることにした。

「それ以上言っちゃダメよ。ね?」
「ああ、言わないさ。言ってもぼやきみたいなものだしな」

 その間ユッテは顔を下に向けていた。

「もう意地悪!」

 顔を真っ赤にしてそう叫んだユッテは向こうへ走って行ってしまった。

「ユッテ!」

 イサベラはアルノルトに責めるような冷たい目を向けてから、それを追って行った。
 アフラはその場に座り込んでベソを書いた。

「ぶち壊しだわー」
「俺が悪いの? いいこと言ったと思ったのに」
「せっかくのお祭りよ? わざわざご機嫌を損ねるようなこと言って!」
「ご機嫌までは伺えないなー」

 様子を見ていたエルハルトが言った。

「アルノルト。謝って連れ帰るんだ。あのまま特等席にでも座られたらバレる」
「判ったよ。次はご機嫌損ねないよう気をつけるよ」

 アルノルトはユッテの行った方向へと走った。アフラもその後を追いかけてくる。

「お前も行くのか」
「そりゃあアル兄だけじゃ安心出来ないもの」

 闘牛をしている横ではマーケットが開かれていて、大人達はもうビール片手に乾杯を繰り返し、ほろ酔いになっている。その中央では楽隊の音楽に合わせ踊る人達もいる。そんな中を抜けて、アルノルトとアフラはユッテの姿を探した。ユッテは端に積んで置いてある丸太の上に腰を掛けていた。傍に立っているイサベラと何か話をして、ユッテはもう屈託無く笑っている。アルノルトはユッテがどうして走り去ったのかまるで判らなくなった。笑っている人に謝る必要が無さそうな気さえする。ユッテはアルノルトに気が付き、あらかさまに顔を背けた。イサベラがそれを見て振り向くと瞬間に冷たい目になった。アルノルトはあまりの気まずさに言葉を選ぶ間もなく言った。

「お嬢さん。また一緒に見よう」
「あら、無理しなくてもいいのよ。ムカムカするんでしょう? こちらも嫌だもの」

 その早口な声はあらかさまに不機嫌だった。

「それは言葉が過ぎた。謝るよ。今日はお祭りだし、みんなで楽しくしていたいんだ」
「誤魔化しで謝らないで。事実と事実なんでしょ」

 ユッテは顔を背けたままだ。アルノルトはもう言葉に困り、アフラにお手上げのポーズをするのみだった。

「あきらめないで!」

 アフラはアルノルトの頬を指で突いて前を向かせた。
 ユッテが目をこちらに向けて聞いた。

「さっき何か言いかけたでしょう?」
「ああ、僕らは汚れの牧者、君らはお綺麗な……なんとも特別なファミリー。それは事実だってことさ。良いも悪いも無いよ。事実はどう言っても変わらないって事さ」
「……そうね。それには賛成だわ。みんな産まれた場所で在るべきように生きてるだけ。なるだけ背伸びしてね。産まれは逃れられないわ。逃れられないのに悪く言ってもどうにもならない。私もそうよ。私達に向けられる好奇の目からは逃れられない。いいえ。逃れるために高い塀に籠るのかもしれない。まるでその中にいつも閉じ込められ、監視されているかのようだわ。こんなに気苦労が多くても私だけ悪く思われるの?」

 ユッテは今にも泣きそうな悲壮な目をアルノルトに向けた。それを聞いてようやく悪いことをしたと思い至ったアルノルトだったが、今や謝る事も出来ず、言葉を探した。

「知らなかったよ。君にもそんな気苦労があるなんて。もう悪く思わないし、悪く言わないと誓うよ」

 アルノルトは謝る代わりにそう誓ってから、恭しい御者のようにユッテに手を差し出した。

「この前と逆ね。こう見えて気苦労ばかりなのよ。あ、でもね、最近はこうして時々お忍びでウーリに出て来るの。それからは少し気が楽になったのよ」

 そう聞いてアルノルトは大きく手を広げて微笑んだ。

「楽しもう。ウーリランドへようこそ!」

 アルノルトがもう一度手を出して小首を傾げると、クスッと笑ってユッテはその手を取り、座っていた丸太から立ち上がった。
 横でハラハラして見ているだけだったアフラが声を上げた。

「あっという間に仲直りしちゃった。兄さんってすごいわ」

 イサベラもそれに頷く。

「激しく同意だわ。スネを曲げると私でも大変なのに!」
「イサベラ、それは言い過ぎじゃない?」

 そう言ってユッテはアルノルトの支えで丸太から下りて地に足を付けると、もう晴れやかに笑っている。少し前の悲壮な顔が嘘みたいだ。
 アルノルトは天を仰いだ。

「誰も、このお天気は判らないな」
「お天気?」

 ユッテとイサベラは空を見て、顔を見合わせた。

「ちがうよ。君らのお天気加減さ。行こ行こ」
「まあ」
「なんだか失礼しちゃう」

 ユッテは少しむくれつつも、歩き出したアルノルトに従った。
 道すがら、民族舞踊をしている所を通ると、イサベラが「楽しそうな踊り!」と声を上げた。ユッテも「もっと近くで見たい」と言っている。アフラは「ちょっと見ていこうよ」とアルノルトに声を掛けた。アルノルトが「うん?」と振り向くと、後ろにはもう誰もいなかった。
 三人は既にダンスを見ている人の輪の中に割り込んでいた。

「近くで見ると綺麗」

 人を掻き分けて一番前に陣取ったイサベラとユッテはご満悦顔だ。色彩豊かな民族衣装を着た八人の男女がペアで輪になって踊っている姿はとてもエキゾチックで美しい。ノスタルジックでリズミカルな音楽は踊れと言わんばかりだ。アフラなどは音楽に合わせて体を動かし始めている。

「つい体が動いちゃう」

 アフラは見様見真似でそのダンスをなぞった。イサベラとユッテはそれを見て目を輝かせた。

「アフラは踊れるのね。可愛い」

 ユッテはすっかり晴れやかな笑顔になっていて、アフラはそれを見て嬉しくなった。

「フフッ」

 腕を組んで回るようにステップ・ステップ・ハイタッチ。そんなリズムでアフラはステップをして回り、ユッテとイサベラにハイタッチをする。イサベラは踊りを真似るような素振りで言った。

「見てすぐ踊れるなんてすごいわ。どうやるの?」
「簡単よ。この辺りでよくある踊りなの」

 いつの間にか追い付いて来たアルノルトが言った。

「簡単だよ。二人組んでやる踊りなんだ」

 そう言ってアルノルトはアフラと向き合ってから腕を組んでゆっくりステップをして見せる。

「男女二人組んで向き合って、腕を組んで回って、あとは適当に手を叩き合う。それだけさ」

 イサベラはその通りに「こう?」とユッテとやってみる。向き合うユッテも「こうね」と乗り気だ。

「そう。そして手を組んでくるっとターンして、ハンドクラップ、ハイタッチ、ハイタッチ」
「両手で? さっきは違ったけど」
「少しずつバリエーションがローテするんだ。でもある意味二人合えば何だっていい」
「こうね」

 ユッテとイサベラは見様見真似でターンしてハイタッチをした。

「そうそう。そうしたら隣とペアを交代して、始めから繰り返す。あとの手振りやバリエーションは回り見て真似れば大丈夫だ」

 イサベラはもう一度始めからやってみた。

「こうね?」
「これで出来てる?」

 そう聞くイサベラに、アフラは「うん、いいわ。かなり省略形だけど」と苦笑いした。
 そうして踊っていると、楽団の音楽が終わり、輪になって踊っていた踊り手達が手招きして呼んだ。

「そんなところで踊ってるならこっちおいで」
「一緒に踊ろう」

 声を掛けた二人は若い夫婦のようだ。

「えーっ。出来るかしら?」

 と、アフラは両手を頬に当てているが、足は数歩踏み出しており、もう行く気のようだ。
 アフラが振り返るとイサベラとユッテは困り顔だ。

「どうしましょう」
「まだ、ダメよ。ねえ」

 というのを聞かなかったのか、アルノルトはもう踊り手の所へ行って話をしている。

「まあ飛び入りは多少下手でも大丈夫だそうだよ」

 そう言ってアルノルトは二人を大きく手招きした。
 イサベラ、そしてユッテは顔を見合わせて、

「思い切って……」
「行ってみる?」と頷き合うと、踊りの一団へ歩いて行った。
 声を掛けた夫婦がこの四人を踊りの輪に招き入れると、音楽が再び始まった。踊りは始めこそ動きが合わなかったが、次第次第に合って行き、踊りの輪が綺麗に回るようになった。アフラの衣装は踊りにとても映え、二人の少女らの服装とダンス姿もとても華やかだったので、観客が次第次第に増えて行った。アルノルトが踊りにアレンジを効かせるので時々踊りは荒れたが、その自由奔放さは見ていて楽しく、観客は喝采を上げたものだった。
 音楽が終わって踊りが終わると大きな喝采が起こり、踊り手の帽子には沢山のコインが投げ込まれた。
 ユッテとイサベラは、放心したようにお互いを見た。

「なんとか出来てた?」
「もう夢中だったから判らないわ」
「良かった。上手だったわ」

 アフラは二人を讃え、互いの手を取り合った。

「初めてにしてはいい踊りじゃないか」

 踊り手達もやって来て少女三人に握手を求めた。

「ありがとうございます。私たち足手纏いでは御座いませんでしたでしょうか…ね?」

 イサベラは言葉尻を誤魔化しながら言った。

「とんでもない。賑やかになって、コインも増えて良かったよ。お礼をしたいくらいさ」

 踊り手の婦人の方が言った。

「ビスケットがあるから、持って行って」

 婦人はビスケットを一人一個持たせてくれた。
 観客を押し分けて、やって来た変な服装の少年達がいた。大人のコートを着たルーディックとルードルフだった。

「やあ! 皆さん」
「いい踊りだったねー」

 彼女達は彼らを見て、すぐ目を反らせ、互いの顔を見合わせた。

「僕らも加えて貰えませんか?」
「どうしたの?」
「ル…」

 ユッテが答えそうになったので皆で一様に口を押さえた。

「逃げろ!」

 アルノルトの声で、一同は一斉に走り出した。

「ちょっと、逃げないでくれよ。ボロのコートを着て来たんだ」

 ルーディックとルードルフは単色のコートを着ているが、内には高級服が見えるので庶民的な雰囲気はまるで無い。二人が追い掛けて来たので、アルノルトは折り返して走って戻って来た。

「君らはもう有名人だ。そんなくらいの服じゃダメだよ。僕くらいでなきゃ」

 アルノルトは自身の白い牧童の服を摘まんで言った。

「仲間に入れてくれよ」
「今日は諦めてくれ。頼むよ」

 アルノルトは早足に歩き去って、再び走って行った。
 
 
 少し離れた所で三人のご令嬢が待っていた。目の上に掌を翳して遠目に何かを見ているようだ。
 そこには多くの人垣が出来ていて、その向こうに四つに組み合って戦っている男達が見えた。人々がそれを囲んで声援を送っているのだ。
 アフラがそれを指差して、追い付いてやって来たアルノルトに言った。

「あれは何?」
「ああ、あっちは人と人の闘牛だ。あの腰布を持って倒し合って、相手の背中を地面に着ければ勝ち。シュビンゲンって言うんだ」
「へえ。楽しそう!」
「あれはお兄さんではなくて?」

 アフラがイサベラの言う方向を見るとエルハルトが闘技場の脇に立っている。腰には麻袋に穴を開けた布を穿いている。

「あれ? エルハルト兄さんだ!」
「あっ! なんで兄貴も出場してるんだ?」
「応援しなきゃ!」

 アフラは走って行ったので、イサベラもそれに続いた。取り残されたユッテとアルノルトは顔を見合わせ、しばし沈黙した。遠くから振り向いたアフラが手招きしている。アルノルトが言った。

「走る?」
「走るの苦手なの。さっき走ったからしんどくて」
「じゃあ歩こう」

 二人が少し気まずそうに歩いていると、アフラとイサベラが先へ行って見えなくなってしまったので、ユッテは俄にスカートの裾を持ち上げて走り出した。

「お、走った走った」

 アルノルトは歩みをそのままにユッテを見守った。

「エルハルト兄さん!」
「おお、アフラか」

 エルハルトが腰を回して準備運動をしていると、アフラが駈けてきた。

「シュビンゲンに出るの?」
「ああ。誘われてな」
「出るなら言ってくれればいいのに。家族誰も見に来ないじゃない」
「飛び入り参加だから仕方ない」

 そこへイサベラが追い付いて来て肩で息をしている。遠くから走ってくるユッテも見えた。

「お嬢様をあんな走らせて大丈夫なのか?」
「いけない!」

 ユッテはようやくの事で追い付いて、イサベラの肩に撓垂れ掛かり荒い息をしている。

「大丈夫?」
「平気。こんなに走ったの久しぶりよ」

 アフラは申し訳なさそうに言った。

「走らせちゃってごめんなさい」
「いいの。ここでは自然と走りたくなるわ」

 ユッテは息を吐きながらも屈託無く笑った。
 それを見ていたエルハルトは準備運動をしながら言う。

「もうご機嫌は治ったかい?」

 ユッテは息を整えてつつ頷いた。

「そうね」
「それは良かった。せっかくのカーニバルだ。つまらない顔は放り出して、楽しむに限るさ」
「そうね。ありがとう」

 そのユッテの後ろから、まだ遠い所を歩くアルノルトが小さく手を上げて、こっちを指を差した。エルハルトもそれに大きな長い手を上げて返した。それから人差し指を立てて振った。二人の間ではそれでもう会話が成立しているようだ。
 そうしていると、エルハルトの名前が審判に呼ばれた。

「応援してる!」

 アフラの声にエルハルトは強く頷いてサークルに入った。
 エルハルトの相手はモーリッツだった。向かいで「負かしてやる!」と気勢を上げている。モーリッツはエルハルトと背丈はそう変わらないが骨太な体付きで、胴回りは倍くらいあるように見える。実際にシュビンゲンでは大人とやっても殆ど負ける事が無かった。
 審判が進み出て来て声を掛けた。

「両者腰布を持って」

 エルハルトはモーリッツと腰布を握り会い、四つに組んだ。

「用意! ファイト!」

 審判の声がかかると二人は持ち手を引き絞り、互いに持ち上げようとした。ここで持ち上がってしまえば投げられてしまうので、二人とも腰を落としながら再三持ち上げようとする。しかし二人とも全く動かない。動かずに顔だけが赤くなっていく。これでは二人して傍目には踏ん張っているだけのように見える。
 アフラが良く通る声で応援の声を上げた。

「頑張ってーエルハルト兄さん! でも踏ん張ると乙女の前でみっともないわよ。その格好はちょっとダメー」

 囲む人々に笑いが沸いた。
 エルハルトは真っ赤な顔でアフラを見、抗議するように顎で差した。
 その隙を見てモーリッツは持ち手を変えて、エルハルトを横に払った。エルハルトは思わず倒れそうになり、サークルの外まで飛び出した。

「キャー」と大きな声を上げたのはもちろんアフラと二人の令嬢だ。
 二人の持ち手が離れたためにこれは仕切り直しとなる。再び中心に戻って組み直す際、エルハルトはアフラの方をしきりに見て、何か言いたそうだ。アルノルトがアフラの隣に近付いて、その目が訴えている事を翻訳して見せた。

「応援になってない、むしろ逆だってさ」
「私のせい? これは失敗! 気合い入れて応援しないとね?」

 アフラは頭を掻いた。二人の令嬢は苦笑いしつつ頷いた。
 再び審判の声が掛かると、今度は猛然とモーリッツが押し始める。エルハルトは再び後退りしてサークルから出そうになるが、必死に堪えた。

「いけー! 反撃!」

 そう叫んだのはアフラだ。エルハルトはそれに応えるように思い切って前へ出た。するとモーリッツの巨体が持ち上がり、その足をバタつかせる。オオッと響めきが上がった。組み手は二人とも同じ位置なのだが、エルハルトの方が足が長いのだ。エルハルトはしばらくそのままだったが不意に体を返し、モーリッツをひねり込むように地面へ落とした。背中が地面に着いたらエルハルトの勝ちだ。しかしモーリッツはここで背中を反らし、頭から落ちて背中を守った。地面にはたっぷりとおがくずがあるが、凄い衝撃に目を白黒させている。エルハルトが体を乗せて押し付けると、モーリッツはその姿勢のまま耐えたが、それも束の間、昏倒してガックリと地面に肩を落とした。

「勝負あった! 勝者エルハルト・シュッペル!」

 審判の声に大きな喝采が沸く。アルノルトは「よし!」と両手でガッツポーズをし、イサベラとユッテは手に手を取って飛び跳ね、アフラは指笛を吹いてはやし立てた。
 エルハルトは勝ち名乗りを受けるや、モーリッツに歩み寄り、その顔を叩いたが反応が薄いので、上体を抱えて起き上がらせた。

「モーリッツ 大丈夫か!」
「負けか……。クソッ」

 モーリッツはさも悔しそうに地を叩いた。そうしていると観客から拍手が聞こえてきた。

「ナイスファイト!」
「最後よく首で粘った」

 そんな声には応えず、エルハルトはモーリッツと小さく会話した。

「頭から落ちて正気か」
「うるさい」
「立てるか?」
「まだダメだ」

 エルハルトはモーリッツの腕を肩に回した。モーリッツはエルハルトの肩を借りて立ち上がると、ふらついた足で歩き出し、退場して行った。人々はこの二人を拍手で送った。
 エルハルトはモーリッツを少し先の藁積みの上まで運んだ。近くで藁を噛んでいた牛は声を上げて場所を譲った。

「ここでしばらく寝てるといい」
「ああ、すまんな」

 そこへ弟のテオドールが駈けて来て——

「大丈夫? 兄さん痛い所無い?」と言って心配そうにしている。
 モーリッツは寝転んだまま頭に手を当て、「ああ」と頷くのみだった。
 エルハルトも少し心配そうに見ていたが、

「大鋸屑があったから怪我はしていないよ。少し休めばまあ大丈夫だろう。あとはテオに任すよ」

 そう言うとテオドールは静かに頷いた。

「うん」

 歩き出した所でエルハルトに駆け寄ってきたのはアフラと令嬢逹だった。

「やったね、エルハルト兄さん。かっこ良かった」

 アフラの声に令嬢達もしきりに頷いて黄色い声を上げた。

「そうか? 誰かの声援で負けそうになったけどな」
「声援は関係ないわ。いい戦いだったもの」

 自慢気なアフラにイサベラは頷いて言った。

「素晴らしい戦いでした。戦いの後の姿も素晴らしかったです」

 ユッテもしきりに頷いている。

「戦いの後の助け合う男の友情。それもまた堪りませんわ」
「キャー。本人を前にそれを言ってははしたないですわ」

 後からやって来たアルノルトは大きく咳払いだ。

「ゴホゴホン! 言葉に気を付けよう」

 ユッテは急にトーンダウンして言った。

「あら。あなたいたの」
「いるよ」

 このやりとりは傍目には勝者に女性ファンが詰めかけたように見え、周囲の注目を浴びていた。
 寝転んで顔を覆うモーリッツもまたこれを見て羨ましげな眼差しを向けている。
 エルハルトが苦しげに言った。

「まあ皆が見てる。ここは大人しく席へ帰ろう」

 一同は大人しく元居た闘牛の観覧席へと帰ることにした。

 闘牛の柵に登っていたマリウスが、兄妹達をいち早く見つけて、手を振った。

「あっ帰ってきた! こっちだよー!」

 ブルクハルトも手を上げて言った。

「エルハルト。どこへ行っていたんだ。急にいなくなって」
「ちょっと成り行きでシュビンゲンに出てたんだ」
「兄さん、あのモーリッツに圧勝だよ」

 ブルクハルトも息子が勝ったのは悪い気はしない。至って笑顔だ。

「おおそうか。勝ってきたか」
「うちの牛はどう?」
「ああ、もう負けちまったよ」

 アフラが飛び出して来て言った。

「ええ? タロスは?」
「シュタウファッハの牛に負けた」
「あーあ。残念。じゃあホルストは?」
「ホルストの奴ぁ戦わないで、ずっと草ばっかり喰ってやがった」

 エルハルトとアルノルトは顔を見合わせて笑った。

「ハハハ。まあ、ホルストらしいね」
「残るは四強の戦いだ。実質の決勝戦は次かもしれんな。オイデスリート対エンゲルベルクだ。去年の優勝牛は強いぞ」

 オイデスリートの引いているイアソンは優勝しただけはある巨躯で、筋肉の盛り上がりは脈打つようだ。対峙しているエンゲルベルクの巨牛は輪を掛けて大きく、丸々と波打つように太っている風体だ。
 アフラは牛を指差して言った。

「あっちはアニエスさんとこの牛ね。相手も強そうね」
「勝てるかしら?」
「きっと勝つわ。私、始めからあの子が一番強そうだと思っていたのよ」

 ユッテが手を叩いて言った。

「私達はイサベラの牛の応援に決まりね」

 両者の牛が角を組み、頭を合わせた。ゴツっとその音は今までに無く重い。既に押し合いが始まり、牛達の意気も盛んだ。

「ファイト!」

 合図と同時に縄が放たれ、鞭が鳴った。
 エンゲルベルクの牛が少し前へ出た。既に力は拮抗しないようだ。

「エンゲルベルクの牛が強い!」

 エルハルトはそう唸った。アルノルトが気の無い返事をした。

「んーそうだね。反則並だもの」

 イサベラが小さな声で『反則じゃないわ』と言ったので、それを聞いたアフラはほくそ笑んだ。
 オイデスリートのイアソンは次第次第に押し込まれ、加速度が付くように後へと下がった。
 しかし、そこからのイアソンは流石だった。下がりながらも返し技とばかりに首を捻り、巨牛の力を横へ反らし、身を翻した。巨牛の勢いは止まらず、後の柵へそのまま激突した。柵になっていた丸太が崩れ落ちた。

「おお!」

 周囲の観客は跳び退き、大きな響めきが上がった。
 体を戻した巨牛は、出血して辛そうな声を上げた。あれだけの力でぶつかれば無理も無い。

「怪我してる!」

 アフラが言うと、イサベラが立ち上がって牛飼いに言った。

「診てあげて!」

 イサベラの声でエンゲルベルクの牛飼いは畏まり、その怪我を素早く見に行った。
 牛の流血がなかなか収まらず、足も痛めているようだった。しばらく試合は止められ、審判らが集まって来て話し合っている。

「どうなるの? これはどうなるの?」

 アフラが服を引っ張るので、エルハルトは、推測して言う。

「試合はここまでにして審議になるんじゃないかな。審議は途中経過を見てどちらが優勢かを決めるんだ。多分押していたエンゲルベルク側の勝ちだろう」
「アニエスさんの牛が勝ちですって! エルハルト兄さんの多分は、大抵はその通りになるのよ!」
「そうなのね。ゼンメルの怪我も心配ね」

 巨牛はもう座り込んで動かないでいた。牛飼いは懸命に手当をしている。
 審判が頷き合い、一人中央に歩み出て言った。

「試合はここまでの審議となります! 審議の結果、勝者は……エンゲルベルク牧場!」

 審判の声に歓声が沸いた。

「やっぱり!」
「勝ったわ!」
「わぁー!」

 アフラとイサベラ、そしてユッテも大いに喜び、三人肩を抱き合い、鬨の声を上げた。
 それも束の間、イサベラはゼンメルが心配になった。
 牛のゼンメルは悲痛な声で啼き、もはや立ち上がろうとしない。次の試合の場所を空けるために、審判達が立たせようとするが、あまりの巨体のためびくともしない。
 イサベラは柵を乗り越え、横たわる牛を見に行った。アフラとユッテもそれを追った。

「ゼンメル?」

 駆け寄ったイサベラは牛の首を撫で、牛飼いに話しかけた。

「ゼンメルは、大丈夫でしょうか?」
「シスター。足の骨を折ったようです。一度立った後はこうしてもう立ち上がれないみたいで」
「そんな!」
「ここから山を越えて帰るのは無理です。この図体ですし……少し酷な話しですが、ここの慣例ではこんな時、解体して肉を振る舞ってしまうんだそうで」
「解体って!」
「私も勿論そうはしたくありません。でも、この人達が言うんです」

 まわりに集まっていたのは審判をしていた人々だったが、主には食肉ギルドの人々だった。

「解体するなら任せてくれ、ここにいる奴らならいつもやってて慣れてる。あっと言う間にやってしまうさ」

 長い髭の男が言った。

「毎年一頭は解体して皆に振る舞うのさ。怪我で帰れないような牛をな」

 イサベラは信じられない思いになった。

「ゼンメルを解体なんて……しないですよね?」

 牛飼いはしかし首を振った。

「こうなると誰もこの牛を動かせない。私は教会の牛を連れて来ただけだ。今日は貴女が教会の代表と聞きました。貴女が決める事です」
「私?……」

 長い髭の審判は顔を近づけて来て言った。

「お嬢さん、気持ちは判る。でも誰にとっても牛の肉はごちそうだ。ギルドで肉を買い取るから金にもなる。だからただハイと頷くだけでいい。後は我々の慣例に任せてくれ」

 イサベラは顔色を青くして、考えを巡らせてからゼンメルの体に抱き縋った。

「絶対ダメ! 答えはいいえです!」
「無理だ。この牛は立てばさらに骨がダメになる。もう帰れないだろう。それに早く動かさなきゃならん。ここを少し移動するだけでも人工で労賃がかかるというものだ」
「怪我はしばらくしたら治るものですよね? ここで治せばいいじゃない!」
「ここに? ここは緩衝地で誰かの牧場でもない。放っておけば、誰かが見つけて同じ事をするさ。一財産だからな」
「なら、ここに牛小屋を作ればいいんです!」
「それは無理だ。ここは誰の土地でも無いって言ったろう。建物は建てられない。動けない牛はそうなる運命なのさ」
「おお神よ! 誰かこの牛を助けて!」

 そこへ一人の少年が現れて言った。

「無理じゃないよ」

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