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ハートランドの遙かなる日々 第24章  旧家キーブルク

キーブルク城

 時を一日遡り、アルノルト達一行がキーブルク城へ向かった時のこと。
 キーブルク城はヴィンテルトゥールから一つ山を隔てた山の中にあり、小さな山の天辺を城壁で囲んで建てられていた。このあたりの山の頂上には大抵小さな塔のような建物があった。
「ここは、どの山にも小さな城砦があるね。かなり小さいのもあるけど何でだろう」
 見えて来た山の上の城壁を見上げながらアルノルトがそんな感想を漏らすと、ルーディックは言った。
「あれは灯火信号を中継するんだ。山の向こう側の町や、遠くからもキーブルク城への連絡が出来るようにね。でも、ヴィンテルトゥールがハプスブルク家の管理下になってからは殆ど使われていないよ」
「そうなのか。この辺の城は城壁を巡らせて山の中にあるし、守りが固い城が多いね」
「そりゃあまだまだ侵略戦争の恐れがあるからさ。何もしないでいるなんて、領主ならあるまじき行為さ。敵を呼び込む行為にも等しい」
「ウーリは小さい城館はあっても、城壁とか殆ど無いかも……」
「イタリアとの国境地帯なのにそれはダメだな。でも、聖ラザロ騎士団がいるじゃないか」
「一応はあるけど、広い修道院があるだけで、殆どアルプス越えの中継場所みたいのものだからね。城砦は遺跡みたいな古いものが僅かしかないよ」
「守護権者としてはそれは見過ごせないな。護りを整えようじゃないか。僕は騎士団に入るつもりだったんだ。もしラザロに入ればアルノルトと一緒に騎士になれるかな?」
「僕と? まだ考えたことないや」
「アルノルトは入るべきだよ」
「というか剣とかそんなの握ったことないよ?」
「それは今からでも練習出来るさ。やろうよ」
「まあ、機会があればね」
 見上げる程大きな城門に着くと、ルーディックは窓から顔を出して守衛に面会を申し出た。事前に手紙を出していたらしく、すぐにその門は大きな音を立てて開いた。
「ピッタリ着いて来てね」
 後ろに続く二台の馬車の御者にルーディックはそう声を掛け、馬車は城に入っていった。

 一行が城に入ると、ロータリー状になった庭へ馬車を止め、それぞれに馬車から降り立った。
 ルーディックは馬車から降りるイサベラとユッテに手を貸しながら言った。
「玄関は向こうです。行きましょう」
 ユッテの女中や護衛を含め、かなり大人数を率いてルーディックは歩いて行った。
 玄関先ではラウフェンブルク夫妻とハルトマンが出迎えに立っていた。一人駆けだして近くで礼を取り、ルーディックが声を掛けた。
「こんにちは。というよりそろそろこんばんはですね」
 今や夕焼け時を過ぎ、あたりはもう暗くなって来ている。
「ようこそ、我が城へ」
 アンナ女伯が代表するように挨拶をした。
「手紙を戴いてたのでお待ちしていましたよ。エリーザベト様はいらっしゃらないのかしら?」
 ルーディックが答えた。
「エリーザベトはヴィンテルトゥールで客人と残る事になりました。本日は若者ばかりで押し掛けまして、大変失礼致します。こちらはブルグント公国の公女殿下イサベラ姫。あちらはご存知の事でしょうユッテ王女です」
 ユッテは軽く礼を取りつつ、カチンと来て言わざるを得ない。
「そんな紹介ひどくない?」
 アンナ女伯はそれでも深く礼を取って、ユッテに握手を求めた。
「ようこそおいで下さいました。大変な方々とお知り合いですこと!」
 それからユッテとイサベラは貴族風に挨拶を交わし合ったが、そこにアルノルトとマリウスはどうも入り難く、ユッテの従者達の居並ぶロータリー真ん中の花壇まで引いてそれを見ていた。服も完全に庶民なので、相手側も気にしていないが、不意に目線が合った。
 エーバーハルトがアルノルトの方を見て言った。
「ルードルフの姿が見えないようだね?」
「ルードルフは旅の疲れが出たようで、熱を出して寝込んでいます」
「そうか。すっかり長い滞在になってしまって。一緒に勉強も見てくれているとか。お世話になってしまったね」
「いえ。その件ですが、後でお話があります」
「まさか帰りたくないとか言うんじゃ……」
「いえ、そうではないのですが、一緒に習い事をしたいのです」
 ハルトマンがおもむろに花壇の方へ歩いて来て、マリウスに言った。
「君、知ってる。立て札取って行った嫌な子だ」
「僕? 嫌な子じゃないよ?」
「僕が嫌って言ってるんだから、嫌な子だろう?」
 突然の言い掛かりにマリウスも負けてはいられない。
「じゃあ、僕が嫌な子じゃないって言ってるんだから、嫌な子じゃないって言えるよ」
「むむむ」
 ハルトマンとマリウスは丁度同じ背丈で顔を突き合わせ、睨み合った。エーバーハルトがそれを止めて言った。
「まあまあ、お二人さん。話は後だ。大事なお客人をいつまでも立ち話させてしまうといけない。みなさん、中へお入り下さい」
 一同はエーバーハルトと玄関の両脇に控えていた使用人に導かれ、城の中に入った。無骨な岩で出来た外観からは想像も及ばない程に、その内装は豪華だった。階段や床には赤い絨毯が敷き詰められ、調度品や家具は超高級品で、照明も多数のシャンデリアがきらめいている。
 それを驚いて見あげているのはアルノルトとマリウスばかりで、他の人は慣れているのか全く気にする様子もない。
 そんな上流貴族一同は客間に通され、女中や護衛騎士には隣の小部屋が与えられた。平民服のアルノルトとマリウスは護衛騎士側に案内され、そこで旅装を解いて長椅子に落ち着いた。
「向こうでお相手しなくていいのか?」
 レオナルドはアルノルトに行った。
「うん、貴族の相手するのはどうも慣れなくてね」
「俺も貴族だって知ってたか?」
「そうでした。忘れ気味だけど僕も一応は地方貴族で……」
 セシリアが目を丸くして言った。
「奇遇ですね。私もです」
 レオナルドは互いを見比べつつ言った。
「お互いあまり貴族というには冴えないなあ」
 一同は笑わざるを得ない。
 しばらくすると、ユッテがやって来た。
「アルノルト! こんな所にいた。ここは私の従者の部屋よ。こっちにいらっしゃい」
 ユッテはそう言ってアルノルトの手を引いて連れ出そうとした。
「マリウスは連れて行って大丈夫かな? あのお坊ちゃんと喧嘩しそうだったけど」
 後にいたマリウスも少し居心地悪そうにしていた。
 しかし、ユッテは平然と言った。
「ああ、あれね。多分大丈夫よ」
「多分?」
「もうあの話しをしてたから。牛の話」
「そうなの?」
 隣の部屋へ行ってみると、ハルトマンは目に涙を溜めてルーディックの話を聞いていた。
「でね、イサベラ姫もそこに居合わせてね。あ、来た来た。その時の犯人を見付けたのが、あの子だ。マリウス君。その隣はウーリのアルノルトだ」
 ハルトマンはマリウスに駆け寄って来て言った。
「本当に君が見付けたの?」
「うん……」
 マリウスはその勢いに物怖じしつつ頷いた。
 ハルトマンはマリウスの手を握って、強く言った。
「犯人を見付けてくれて、ありがとう!」
 マリウスは驚いて言葉が出ない。
「君は最強牛ゼンメルの恩人だ。世話もしてくれたってね。ありがとう」
 ハルトマンは涙を拭きつつそう言った。
「じゃあ、もう嫌な人じゃないね?」
「うん。あの時を思い出して言っただけだよ。もう嫌な人じゃない」
 マリウスは得意満面で言った。
「だからそう言ったでしょ?」
 これにはハルトマンも、ラウフェンブルク夫妻も、苦笑いするよりない。
 それからマリウスはハルトマンにゼンメルの想い出話を聞かせた。
 ゼンメルが朝行くと死んでいて、皆で泣いたこと、小さな馬車を作って貰い、それで藁を雨が降っても毎日届けたこと、急に立ち上がったけどポリーが話せば座ってくれたこと、近所のおじさんに藁を預けたこと、そのおじさんが犯人で、棒を振り回して追い掛けられたこと。ハルトマンはそれを違う世界のように興味深く聞いて頷いていた。ルーディック、そしてイサベラやユッテも、まだ知らない話が多かったので、興味深く聞いていた。
「おじさんは裁判でも暴れたんだ。縛られてる椅子ごと台から落ちて、椅子も木っ端微塵になって、走って逃げ出したんだ。怖かったよー」
「あの時は怖かったわー」
 イサベラもそれに相槌を打った。
「ねーっ」
「凄い目で睨まれたし、どこかでバッタリ会ったらと思うと、今でも怖いわ」
「でもね、そのおじさんは前日までは優しかったんだよ。これから毎日藁を届けるって約束してくれた。でもその次の朝にはあんなことになってて……。それでそこに預けてた藁があったから、すぐ犯人が判ったんだよ」
 ハルトマンは何かに気が付いたように言った。
「という事は、犯人を見付けたのも君だけど、犯人をそこに呼び込んだのも君だったという事?」
「呼び込むってどういう事?」
「犯人に入る隙を与えたって事」
「小屋には誰でも入れたし、隙間だらけだったよ?」
「わかってないなあ。そもそもあの小屋も国境内にさえ入ってなかったものね。あれを建てた人もバカだよ」
 マリウスは機嫌を悪くし、口を尖らせた。
「なんだか嫌な奴……」
 ハルトマンは周囲を見回して言った。
「僕を嫌な奴なんて言う人いないよ?」
「僕が嫌って思ったら、言わなくても嫌な奴なんだよーだ」
「嫌って思ったら? 思っても僕には言うもんじゃない……。無遠慮だよ!」
「ああ、そうか。嫌な奴って言ったら、完全に嫌な奴なんだ」
「だから、それを言うな!」
「じゃあ思う」
 マリウスは頭に手を当てて何か呟いている。口の動きは「い・や・な・や・つ」だ。
「思うなーっ」
「むーっ」
 二人は再び睨み合った。
 それを止めたのはアルノルトだった。
「こらこらマリウス。すごい子に喧嘩を売るんじゃない」
「すごいの?」
「そうだ。旧家を復活させようっていう子だ。この辺では一番すごいよ」
「ふーん」
 マリウスも、そしてハルトマン本人も、それがどうすごいのか理解出来ず、意外そうな顔をしている。
 それを聞いてアンナが言った。
「良くご存知なのね。正式になるのはこの子が成人してからなのだけど」
「ルーディックに聞きましたから」
 ルーディックが頷いていた。
「新キーブルク家は僕らの仲間にもなってくれた。ウーリもそうだ。仲良くしたいね。その子ともね」
「はい! ルーディックさん」
 ハルトマンはルーディックにはごく素直に頷いた。
 アルノルトはそれを聞いて言った。
「ラッペルスヴィル家の仲間なら、僕らウーリにとっても仲間になったようなものだ。これからの期待の星だな」
「期待の星?」
「ああ。僕ら自治州も仲間として、一緒に歩んで行ってくれるならね」
 ハルトマンはそう言われて、目を輝かせた。
「そう言って頂けると、この子も励みになります」
 アンナが嬉しげにそう言ってハルトマンを撫でると、ハルトマンは意気込んで言った。
「うん。僕は期待の星になる!」
「がんばってね」
「うん!」
 そんな言葉だけで機嫌がアップダウンしているハルトマンは案外単純だ。しかし、マリウスへ振り返るその視線にはまだトゲがある。
「では、そろそろ夕食に致しましょうか?」
 アンナの案内で一同は食堂へと移動し、豪華な晩餐のもてなしを受けた。
 しかし、コース料理ではほんの少しずつしか食べる事が出来ず、一気に食べたいアルノルトとマリウスにはペースが合わず、高級過ぎて口に合わなかった。
 
 夕食後、各自に部屋が充てがわれた。すぐに眠くなってしまったマリウスをそこに寝かせると、アルノルトはルーディックの部屋の戸を叩いた。
「どうぞ」
 ドアを開けると、ルーディックの部屋はまるで宮殿のようだった。壁や天井には美しい装飾や絵画が施され、国際会談が出来そうな大きな円卓があり、奥の部屋には天蓋付きの大きなベッドが見えている。エリーザベトがいつ来てもいいような配慮なのだろう、ルーディックは一人でそこを充てがわれている。
「すごい部屋だね」
「僕一人では少し広過ぎるところだったんだ。まあ座ってよ」
 アルノルトは部屋の真ん中を丸く囲むソファーに座った。
「こんな豪華な城に来たのは初めてだ。妹が知ったら来なかった事を後悔するだろうな」
「妹さん、よくウーリから往復して来たよね。でもアルノルトはそうやって来る事を事前に判ってて、用意までしてたもんね。あれには驚いたよ」
「まあそれは、ユッテもだったし」
「おや? 王女を呼び捨てにするなんて、いつからそんな親密になったんだい?」
「親密? いや、これは本人にユッテと呼べって言われたんだよ。王女は抜きでってね」
「そういうのを親密って言わないのかい?」
「そう? アフラとならかなり親密そうにしてて、心配な程なんだけど」
「いやいや、君もそうさ。王女にあんなにフランクに話す人は親族以外には見た事が無いよ」
「そうか……そうだな。今やもうクセなんだけど、少し自戒するよ」
「イサベラ姫とだってそうさ。こちらは心配というより、時に嫉妬だね」
「ルーディックに嫉妬されるなんて、光栄だね」
「こんな事光栄にしないで欲しいよ。僕はもう結婚したし、あの方には何も出来ない。でもアルノルトは違うだろう?」
「僕もあんなお姫様には何も出来ないよ?」
「でも当人達にとって見れば?」
「当人達?」
「向こうはどう思っているか、考えた事あるかい?」
「うん? あんまり無い」
「これだから……」
 ルーディックは頭を抱えた。
「何かいけなかった? 考えてもしょうがない事は考えないよ」
 ルーディックは今度は腹を抱えて笑い出すので、アルノルトはもうお手上げだった。
 そうしてるとドアをノックする音がした。
「どうぞ」
 ドアが開いて、入ってきたのはラウフェンブルク夫妻とハルトマンだった。
「こんばんは。今、お邪魔しても?」
「はい。どうぞ」
 エーバーハルトが言った。
「お話があると言うので、それを伺いに来ました」
「ああ、そうでしたね。お座りください。ルードルフの事です」
 ルーディックはチューリヒのミュルナーの家での事を、夫妻に話した。
「ルードルフもそこで一緒に勉強出来たらと思うんです」
 エーバーハルトは賛成のようだったが、アンナは少し難色を示した。
「帝国執政官と言えば、ハプスブルク王の代理で動いて来た方でしょう? チューリヒの派閥でも、マンネッセ市長とは対立しているようですし、そこに与するような事にならないかしら?」
 ルーディックは言った。
「会ってみると公平な方でした。それにコンスタンツ司教様のお抱えでもあるようですから、いっそ僕らの同盟側へ引き込んだ方がいいくらいの方です」
 アンナ女伯がアルノルトを見て言った。
「この話、この方にはしても?」
「あれ? アルノルトは知らなかったんだっけ? 同盟の話」
「なんの話だい?」
「アルノルトはウーリのラントアーマンの子です。言っても大丈夫かと存じます」
 アンナに向き直り、ルーディックがそう言うと、アンナは安心したように言った。
「そうでしたの。ならいいわ」
「アルノルト、これは他言無用だけど、先日、僕らとウーリ、シュウィーツ、オプヴァルデンと、チューリヒの一部は秘密の同盟を結んだんだ」
 アルノルトは小さく拍手した。
「エクセレント。いい同盟だ。秘密にする必要が?」
「前の王が許可の無い同盟を禁じているんだ。反抗する力を削ぐためにね。今の王ももちろんそれを警戒している。だから、まだ水面下の同盟なんだ」
「そうだったのか。判った。秘密にするよ」
「さっき言ってたのは、ミュルナーさんは同盟しているマンネッセ市長とは対立する派閥の人なんだ。その対立もかなり激しいくらいのね」
「裁判ではマンネッセさんを紹介してくれて、仲良さそうに話していたけど?」
「その紹介をしたのが、あわ良くば王家の心証を悪くする事を図ろうとしていたとしても?」
「その紹介も、政治的な駆け引きだったのか……」
「高度な駆け引きだね。彼はとても賢い」
「その賢い人に実地で学ぶんだ。何か問題が?」
 エーバーハルトが手を広げて言った。
「彼の言う通りじゃないか。私はやはり賛成だな。こんなにも実地の実学を学べる機会もそうは無い」
 アンナも渋々だが頷いた。
「向こう側に取り込まれないという条件でしたら、私も了承します」
「ご賛成を戴けましたね。あとはルードルフ本人次第という事でいいですね」
 ルーディックがそう言うと、夫妻は頷き、エーバーハルトが言った。
「もちろんそれでいい。本来ならば、我々がそうした教育の機会を用意しなければならないところだ。君が動いてくれた事には感謝せねばなるまい」
「いえ。礼ならこのアルノルトに言って下さい。元々はアルノルトが持ってきてくれた話なんです」
「そうか。それはありがとう。ウーリとはもういい仲間になれたようだね」
 アルノルトは照れながら言った。
「僕はミュルナーさんに言われて、自ずと紹介しただけです。僕なんかにも親身に世話をしてくれて、自ずと訴訟にまでなっていたし。あれ? まさか掌で転がされてる?」
 ルーディックがそれを聞いて言った。
「そんなミュルナーさんの事ですし、この紹介にも政治的駆け引きはあるかもしれませんね……」
 アンナは慌てて言った。
「ダメよ。いいこと? 絶対取り込まれちゃダメ!」
「はい……」
 アルノルトは畏まって頷くが、ルーディックは朗らかに言った。
「でも、それ程の人物なら逆にこちらが取り込むべきでしょう? それにはまず、互いによく知り合ってみなければ。僕はそのつもりでいますのでご安心下さい」
「あなたがそう言うのでしたら……信じてみましょう」
 アンナの言葉にエーバーハルトが頷いた。
「ルーディックならば出来るさ。我ら大人の方がよほど固定観念の虜囚となっていて不自由だよ。我らが希望を託すべきはやはり次の世代の若者だな。ルードルフもそうだが、ハルトマンには頑張って貰わねばならんな」
「はい! お父さん」
 ハルトマンは強く頷いて、言葉を続けた。
「僕も……そこで勉強してはいけませんか?」
「ハルトマンもか? うーん。流石に少し勉強について行けないのではないか?」
 ルーディックは考えつつ言った。
「ミュルナーさんは今、一二歳の息子に合わせてカリキュラムを組んでいるんです。もうすぐ十一歳のハルトマンにも合う授業があるかもしれません。授業を受けて様子を見てから、ミュルナーさんに聞いてみますよ」
「是非そうお願いしたい。まあそう急がず、少し様子を聞いてみてからでも遅くは無い。まあ何事もやってみなければ判らんものさ。最悪のケースでは全員ミイラ取りがミイラになる可能性もあるからな……」
「ミイラだなんてあなた! そんな状態ならば即中止ですわよ!」
 アンナがハルトマンを抱きしめつつ言った。
「やや。これはちょっと言い過ぎたな。ハッハッハ」
 エーバーハルトは快闊に笑うと、つられてルーディックやアルノルトも笑っていた。


 そんな笑い声がユッテとイサベラの部屋にも聞こえて来た。二人の部屋は、その一つ上階の個室だった。小さいながら、そこもやはり豪華な作りだ。ユッテとイサベラはそこで夜の部屋着に着替えた。セシリアとロザーナがそれを手伝い、鏡台前で着替えや身支度の品を荷物から出し、ユッテのお色直しをした。
「アルノルト達が笑ってる声がするわ」
 髪を結い直したユッテはそう言って窓を開け、階下を覗き込んだ。イサベラもそこから一緒に覗いて言った。
「そうね。下は確かルーディックさんの部屋じゃなかったかしら?」
「後で行ってみましょう?」
「ユッテはアルノルトさんともずいぶん仲良くなったようね」
「そう言うイサベラはルーディックと仲が良さそうだわ? 最近どうなの?」
「あの方は新婚よ? 何もあるはずないじゃない? ユッテこそどうなのよ」
「私? 私はベンケルとの婚約が正式に決まったわ」
「そう? それはおめでとう」
「ありがとう、と言いたいけど、ダメ。みんなと遠く離ればなれだし、気持ちはどん底からどん底よ」
 ユッテはそう笑顔で言ってから、泣き顔になってイサベラに抱き付いた。
「あらあら、そんなに嫌なの?」
「ごめんなさい……でも……もう隠しておけない」
「私には隠さないで。泣いてもいいのよ」
 ユッテはイサベラに向き直って言った。
「違うの……もう一つ重大な秘密があるの。話しても驚かないで聞いて?」
「何かしら?」
「ブルグント公国で進んでいる結婚話って、私の家とよ」
「ルードルフ王子とアネシュカは破談になったの?」
「いえ。それは正式に決定してるわ。残る男子はもう父しかいなくて……相手は王になるのよ」
 イサベラはそれを聞いて、何の相手かと聞き返そうかと思った。聞き違い、思い違いだろうと、そうとしか思えず、ひとたびは笑った。
「やあねえユッテ。誰かの噂?」
「いいえ。御父上本人から聞いたの。あなたは知っておくべきだわ」
 明るかった未来の景色が、その瞬間変わった。イサベラはまるで暗黒の中、暗鬼に囲まれるような、そんな思いに包まれた。
「嘘……」
「ずっと嘘だと思いたかった。私も……」
「本当なのね……」
「まだ正式ではないわ。でも、戦後交渉の中でそういう話に持って行くって言ってたわ。そう進んでいるの。勿論あなたの国、ブルグント公国には断る権利がある——」
「お兄様は……きっと断らないわ。元々ハプスブルク家に嫁がせる気でいたし、家柄にも、人物にも、まるで非の打ち所が無い、まるで最高の条件の人なんですもの……」
 イサベラはそう言ってから、その事実が意味する未来に黯然として、涙を浮かべた。
「イサベラ……ごめん……」
 ユッテはイサベラを抱きしめ、言葉を続けた。
「私、出来るだけ婚儀を遅らせて、一緒にお城にいてあげる! 嫌なこと全部から私が護ってあげる! それくらいしか出来ないから……」
「ありがとう、ユッテ……」
 イサベラはユッテに頬を寄せて抱き寄せた。
 二人で一緒にいれば、多少のことは怖くない。イサベラは少し勇気付けられた。
 セシリアとロザーナは、この幼い少女が未来の王妃ということに恐縮し、思わず深く礼を取るようになった。それはイサベラにとって、目前に突きつけられる未来の重圧ともなった。


 ラウフェンブルク夫妻が部屋を辞し、夜も更けて静かになった頃、ルーディックの部屋をノックする音がした。
「はーい」
 ルーディックが出て、ドアを開けると、そこにはほぼ寝間着に近い姿のユッテとイサベラがいた。
 二人とも目の赤くなっている理由は、ルーディックやアルノルトには判らなかった。しかし、いつに無く二人の表情は暗かった。
 アルノルトは言った。
「どうしたの?」
「ワインでも飲みましょう?」
 と、ユッテは子供にあるまじきような事を言い出した。
「なんでまた?」
「イサベラは、しばらく本国へ帰ってしまうから、送別会よ」
「それはいいですね。ワインならここに」
 部屋の片隅のワインセラーには年代物のワインが置かれている。近くの戸棚にワイングラスもあり、ルーディックはそれをテーブルに持って来た。
「さあ、どうぞこちらへお座り下さい」
 アルノルトはワイングラスを幾つか受け取って運んだ。
「勝手に呑んじゃ悪いんじゃないか?」
「前に来た時はここから自由に呑んでいたんだ。大丈夫…‥のはず」
 全員にワインが行き渡ると、ユッテが言った。
「じゃあ、カンパーイ」
「なんか締まらないな。ルーディック! 頼む!」
「僕? では僭越ながら、姫君の未来に、乾杯!」
 そう言うと、令嬢二人はひどく落ち込んで、グラスが上がらなかった。
「あれ? 何か悪いこと言ったかな?」
「どうしたの?」
 そんな盛り上がらない中、もうアルノルトはワインを飲み始め、イサベラもそれを見て、一気に飲み干してしまった。
「おお! すごい」
「また、きっと、戻って来るわ……」
 イサベラが気持ちを堪えて呟くように言った。
「また戻って来た時、こうしてまた、皆でワインを飲めるのかしら?」
「それはもちろん!」
 ルーディックが勢いよく頷くと、ユッテも言った。
「もちろんよ。また集まりましょう」
「ええ……」
 アルノルトはしかし、そのイサベラの声に、違和感を覚えた。
「イサベラお嬢さんはさっきから僕の質問に答えてないんだ。どうかしたのってさっきから聞いているんだけど?」
 アルノルトがイサベラの目を覗き込んだ。しばらく見つめ合ったままいると、イサベラの目にはみるみる涙が溢れた。そしてすぐに後を向いてしまった。
「あーっ。泣かしたー」
 ルーディックに続き、ユッテも慌ててイサベラに駆け寄った。
「ちょっと、アルノルトー。ダメよ今は。ガラスのハートなんだからー」
「ご、ごめん……」
 アルノルトは謝らざるを得ない。しかし、その涙に、何かがあったことは自ずと伺えた。それはルーディックにもそうだった。
「アルノルトは変な事聞いた罰として、そのワイン一気呑み」
「ええ? いいよ? 呑む!」
 アルノルトは残ったワインを一気に飲み上げた。
「ふぁー。なんだか結構キツめだよこのワイン……」
「あっこれ! ブランデーだった。イサベラ姫もさっき一気に呑んでたけど、大丈夫かな」
 イサベラの顔を見れば、既に顔が赤くなっていた。
 イサベラが酔っ払いがからむように言った。
「アルノルトさん? あなたよ!」
「はい……」
「少し、ぶしぶしぶしつけじゃないかしら?」
「ぶしつけね」
 ろれつが回っていないイサベラの言葉に、ユッテが補足を加えた。
 イサベラが少し怒っている様子なので、アルノルトは畏まって言った。
「そうかもです!」
「そうよ! 聞かない優しさっていうのもあるの。そういう優しさを知る紳士になってちょうだい」
「紳士とか騎士とかは疎くてすいません……」
「騎士じゃなくていいの。立派な紳士になってね……」
 イサベラはそう言って、未来を見るようにアルノルトを見た。
「どうも紳士もしっくり来なくて」
「なるわよ。きっとなれる。そう思うのなら」
 イサベラは深く頷いていたが、眠くなったようでもある。
「がんばります!」
「良かったこと。とても眠いわ……」
 イサベラはそう言って机に突っ伏した。
「寝ちゃった?」
 ユッテがイサベラを覗き込んで声をかけても、イサベラは起きる気配が無い。
「ルーディック? どうしてブランデーなんか飲ませるんだ。僕ももう顔が赤いよ」
「これは僕のミスだ。お詫びに僕も一気飲みしよう」
 そう言ってルーディックも残りを全部呑み込んだ。
「起きないわ。こんな所で寝ちゃってどうしましょう」
 そう言うユッテにルーディックが部屋のドアを指して言った。
「ここには幾つか付属の部屋があるので、そこで寝かせましょう」
 隣で空いている部屋にルーディックとアルノルトでイサベラを運んで寝かし、ついでにユッテもベッドが広いのでそこに一緒に寝ることにした。
 ついでにアルノルトもルーディックの部屋に二つあるベッドで泊まる事にした。


奪われた領地

 馬車が城門前に到着し、門兵にエルハルトが用件を言うのだが、身形も馬車も庶民的過ぎ、城門はなかなか開かなかった。
 そこでエリーザベトが幌から顔を出して名前を告げると、城門はあっさりと開けられた。
「流石。エリーゼ様ありがとうございます」
「感謝するのはこちらこそですわ。ここまで連れて来ていただきまして。良い旅と良い語らいでした」
 城の玄関へ着くと、そこには既に皆が集まっていた。何か伝達手段があるらしい。
「兄さーん!」
「おーい」
 アルノルトが先頭を切って手を振っている。隣でマリウスも一緒に手を振っている。
 その隣にはルーディックやラウフェンブルク夫妻が待ち構えていた。
 馬車が止まると、幌の後部からアフラが飛び降りて来た。
「と! 皆さん、こんにちわ。お出迎えありがとうございます」
 アフラが小さく礼を取ってそう言うと、ユッテとイサベラが歩み寄って来て挨拶を交わし合う。
 しかし、馬車からは続く次の人が降りて来なかった。馬車の荷台の高さは淑女が飛び降りるような事は出来ず、降りるのを躊躇っていたのだ。
 駆け寄ったルーディックがそれを見て、「足台はありますか?」と玄関に声を掛けた。
 玄関にいた門兵は階段状になった良い台があったので、それを持って駆け寄って来る。それを馬車に付けて、淑女達は馬車から降りることが出来た。
 エルハルトも馬車の御者台から降りて来て、やって来たアルノルトに言った。
「まだ乗降場所が課題だな」
「僕らなら飛び降りるんだけどね。はしごがいるかな?」
 ラウフェンブルク夫妻にエリーザベトは深く挨拶と礼をした。クヌフウタ達もそれに続く。その間、アフラも挨拶をしなければいけない所だが、しきりに城を色んな場所から「すごいすごい」と見上げていた。
 皆は揃って城内のルーディックが泊まった部屋へと案内された。
 この広く豪華な部屋はこの大人数が入って丁度良いくらいになった。円卓の椅子の数も十三、ちょうど人数分だった。
「昨日はここに一人でいた時は寂しい感じがしたけど、沢山いるとちょうどいいね」
「あら、ルーディックはここで一人部屋だったのかしら?」
「途中からはアルノルトも来て、二人で泊まったよ」
 ユッテが不服そうに言った。
「あら? 私とイサベラも上がり込んで、そこの隣の部屋で寝たのよね。ここでお酒を呑んでイサベラが酔って寝込んじゃって」
 イサベラはまだ二日酔いのような声で言った。
「ええ。いつの間にか寝かせて頂いてありがとうございました」
 エリーザベトは目を白黒させた。
「まあ何て事を! 隣とは言え、同じ部屋続きです! あなた?」
 ルーディックは説明に困ってしどろもどろになった。
「いや、ほら、それは突発事態で。ワインに酔ってイサベラ姫は寝込んでしまって、仕方なかったんだ。ほら、アルノルトも何か言ってくれ」
 アルノルトは思い出しつつ言った。
「ああ、うん。そうですね。ルーディックがワインと言ってブランデーを出すので皆すぐ酔いつぶれたんです。寝るまでは一緒でしたが、すぐに僕も寝てしまいました」
「なんと言うことでしょう! 一国の姫君を欺いて酔いつぶすような事をして、その後は隣の部屋で……何か企みがあると思われても仕方ありませんわ!」
「手違いだし、隣の隣の部屋ですから……」
「続き部屋はダメです! 後で懺悔室へ!」
「ハイ……」
 と、ルーディックの懺悔室行きが決まった所で、エーバーハルトが助け船を出した。
「まあまあ、お二人さん、何も無かったようですし、ここの部屋は鍵もかかるし頑丈ですから、多目に見てあげてもいいと思いますよ。ワインと紛らわしいブランデーも私達がここに置きっ放しだったのを飲んでしまったようですから、こちらの手違いもありますからね」
「エーバーハルト様……。でも、それは勝手に飲んだということです?」
「まあそれは、客人用ですから、いいのです」
「あなた? 懺悔に追加ですね」
「また増えるの? トホホ」
 ルーディックはアルノルトの肩に項垂れた。
 エーバーハルトは改まって言った。
「それより一つお話があります。ウチのルードルフが長くそちらに逗留させて頂いています事、誠にありがとうございます。ただ、もう一ヶ月が経とうとしていますし、いくら何でも長過ぎる。どうして帰って来ないのかをご存じでしょうか?」
「それは私より、ルーディックですわね」
 エリーザベトに言われたルーディックは答えた。
「ここで、本当のことを言っても宜しいですか?」
「ええ。もちろん」
「ルードルフは、不安がっています。ラウフェンブルク家はもうキーブルク家になるから、自分のいる場所ではなくなってしまうと。そして、大人になっても領地が無いかもしれないと。それは、僕から伝えたからです。彼が継承したはずの領地は、後見人であるあなたによって既にハプスブルク王家に売られてしまっている事を」
 アンナが戦慄きつつ言った。
「な、な、なんという事を言うのです!」
 エリーザベトも小声で言った。
「……これも懺悔室ね」
 ルーディックは二人を見比べつつ言った。
「しかし、これは、事実ですよね?」
「肉親同士の争いになったら、どう責任を取るおつもり!」
 いきり立つアンナをエーバーハルトが落ち着かせつつ言った。
「まあまあ。いずれは知るべきだし、それは、不当な移動の部分もある。今内々に取り返すべく、訴えを起こしている所だ」
「それで戻るものでしょうか? ルードルフの本来の領のあるオプヴァルデンとシュウィーツには城も建ち、ハプスブルク家腹心の代理執政官が入っています。司法権さえ向こうに握られているのです。そうした詳細な状況を僕はルードルフに伝えました。それからは、ルードルフも一緒になって、日々取り寄せた関連文書の調査をしていたのです。始めはあなた達に不信を持って調べ直したのも事実ですが、事実を調べれば、一緒に多くの領を欺し取られていたのです。文書を見た今では叔父達には世話をかけたのがよくわかったし、育てて貰った恩があると、彼は言っていました」
 エーバーハルトは額に手を当て、しばし上を向いた。
「そうだったのか……本来なら、これは私の口から言うべき事だ……すまない」
「そんな事もあって、彼は遺領を取り戻すにはどうすればいいかと、私に教えを請うて来るのです。でも、それこそ私や家臣より詳しい人がいる。あなたからも教えてあげて欲しいのです。それに、帝国執政官、ミュルナーさんに聞けば、何かいい知恵を教えてくれるかもしれません。彼にとってもミュルナーさんの授業は好機なのです」
「全く驚きだ。そこまで考えてくれていたとは。しかし、来たばかりでよくこんな内部事情まで判ったものだ」
「いえ。殆どは優秀な家臣に相談して、その受け売りを言っただけです」
「ブリューハントね……」
 エリーザベトが微笑を浮かべた。しかしそれは何かを含んでいて少し怖い。
 エーバーハルトは姿勢を正してルーディックに言った。
「そうか。ここまでして貰っては、心から礼を言わなければなるまい。ブリューハントさんにも」
「そんな。私もつい気になって、調べて貰っただけですから」
「ついては少し急だが、これからラッペルスヴィル城まで、私も同行させては貰えないだろうか」
「エーバーハルト卿も? まさかルードルフを連れ帰るという事ですか?」
「何、無理に連れ帰るわけではない。私の口からルードルフに事情を説明しておきたいし、ミュルナー卿の私学校の事もある」
「わかりました。我が馬車でお送りしましょう」
「帰りもあるのでこちらの馬車で行こう。早速準備をして来よう」
 エーバーハルトとアンナ、そしてハルトマンは退室して行った。ハルトマンの「僕も行きたい」と言う声が聞こえた。
 エリーザベトはルーディックを問い詰めるように言った。
「あなたって人は! 二人で勉強してると思ったら、隠れてそんな調査をしていたんですか……」
「勉強ではあるよ? ルードルフにとっては何より大事な、知りたい事だったんだ」
「あなたって人は……友人の為に調査をするその行動力は……正直私の期待の上を行きました。満点以上ですわ」
「じゃあ、お咎め無し?」
 エリーザベトは含みのある微笑で言った。
「悪い方向へ行くこともあり得たのです。その反省は必要ですね。帰ったら懺悔室へ」
「ハイ……」
 ルーディックはしゅんとしてしまった。
「大変だねえ」とアルノルトは真逆に笑っていた。
 イサベラがエリーザベトに改まって言った。
「私の事ではご心配されるような事はございません。つい寝てしまった所をご親切にして戴いたのですから、お責め下さいませんように」
「ええ。判っておりますよ。懺悔は大切な儀礼でもありますから」
 エリーザベトは晴れやかに笑った。始めから疑いを持っているのではなく、とりあえず懺悔させたいような雰囲気だ。
 イサベラは隣に座るクヌフウタに言った。
「ところで、クヌフウタさんの調子はもう大丈夫なんですか?」
「ええ。もう大丈夫ですよ。あの後、エックハルト先生からもご指導をいただきましたし」
「あまり見えなかったんですが、あの時、一体何があったんですか?」
「それは……言うことも憚られるような事です」
「言って下さい。ここにはいるのは信頼出来る方ばかりですから」
 クヌフウタは言葉に出来ないものを心に描きつつ言った。
「えも言われぬ幻視を、聖霊が見せてくれたんです。光に包まれて、イエス様がすぐ近くにいらっしゃって、聖霊や天使達に囲まれるような、でもそれは体にも感じて、全身が感動するような、そんな幻です。エックハルト先生も何かを感じられたようです」
「なんてこと……」
 イサベラは感激して涙を滲ませた。
「私には不思議と信じられます。泣いてしまうのも無理はありません……何て素晴らしい奇跡……」
 他の面々はそれを信じられないような、でもクヌフウタなら信じられるという思いで彼女を見詰めた。
「素晴らしいのは、導いて下さったエックハルト先生です。先生のご指導は、そんな幻視の向こうをも十分ご存知でお話しされていたのです。このような素晴らしい方にご指導頂けた事に感謝しなければなりません」
 クヌフウタは手を組んでそう言い、続けた。
「ただ、先生には異端の疑いを持たれないように、公言はしないように言われました。皆様も妄りに他言しないようお願いします」
「それはもちろんです」
 イサベラが頷くと、ユッテも手を挙げて言った。
「私も他言しないとお約束しますわ。ただ、エックハルト先生のお話をするのは、いいんですよね?」
「ええ、もちろんです」
「私、家族にも教えてあげたいです。このような開明的な先生がいることを知らないんじゃ、世界の王家としては遅れを取ってしまいますもの」
「それは良いことだと思います。是非話してあげて下さい。私も会派は違えど、本国ではそうするつもりです」
 クヌフウタは満面の笑みで頷き、ふとアフラの方を見た。
 アフラはと言えば、何故か固く目を閉じて何かを念じている。
「アフラ? 何してるんだ?」
 アルノルトが声をかけると、皆アフラの行動に目が行った。
「ん? 私も聖霊見れないかなって試してたのに、邪魔しないで」
 アフラのその声に、令嬢達が小さく笑った。
「アフラったら」
「そんな簡単に見れたら誰も苦労しないよ?」
「想像はしてみたの。でも何か違う……」
 クヌフウタはアフラを諭して言った。
「無理に想像するなら嘘や言葉遊びと同じですよ。こちらは何も無くて、真っ直ぐな心だけで、向こうからやってくるのです」
「やってみます!」
 アフラは再び目を閉じた。
「やってみないでいいんだ。やったら嘘だって事だから」
 すかさずアルノルトがアフラの額をつつくようにそう言うと、アフラは口を尖らせた。
「えーっ。無理ーっ」
 一同はさらに大きく笑った。

 それから一同は昼食をご馳走になり、それが終わるとすぐ、ラッペルスヴィル城への出発の準備をした。
 馬車に乗る人の割り振りは来た時とほぼ一緒だが、新たに加わったアフラとマリウスはユッテの馬車に乗ることになった。
 玄関前のロータリーで馬車の準備を待っていると、エーバーハルトとハルトマンがやって来た。
「息子も是非行きたいと言うので、お加え願いたい」
 エーバーハルトがルーディックに言った。
「構いませんよ。ルードルフが喜びます」
「嫌な奴が来るのかー」
 マリウスがそう言うと、ハルトマンは走って来た。
「言うなと言ったろ!」
「逃げろ!」
 マリウスは人の背に逃げ回った。
「こら、マリウス。こんなお屋敷の子に喧嘩を売って騒ぎ回って。まるで田舎者の嫌な客だぞ」
 エルハルトがそう怒ると、マリウスはとたんに大人しくなって言った。
「ごめんなさい……」
「あのお坊ちゃんに謝るんだ」
「嫌な客でごめんなさい……」
「判ればいいんだ」
 ハルトマンはそれに溜飲を下げ、戻って行った。

 一行は馬車に乗り込み、馬車五台の車列となって出発した。
 道は丘陵地帯を縫っていく、なだらかな下り道だった。途中は森林地帯が多く、木の根のガタガタ道が多かった。
 三十分も走るとそこはラッペルスヴィルが過去領していた地域に入る。領としては最近売却していたが、関係はそう変わっていない。
 そして、さらに進むと白い服の騎士団員の姿が多く見られるようになった。鎧の上に白地に大きく赤い十字が刻まれた上衣を着ていてとても目を惹く。
「かっこいい騎士団がいるね」
 御者台のアルノルトがそれを目で追った。
「この辺は聖ヨハネス騎士団、通称ホスピタル騎士団の修道院の領なんだ。チューリヒ側へ曲がるとその修道院がある」
 何故かエルハルトの馬車にいるルーディックが言った。布団の椅子が気に入ったエリーザベトも後に座って乗っていた。木の根の多い道でお尻が痛くなり、乗り換えたのだ。
「あれがヨハネス騎士団か。あの騎士団の修道院か事務所があると、お金を遠くでも送れるとミュルナーさんが言ってた。病院もやるし、色々やってるもんだね」
「修道士でもあり、騎士でもあり、時に医者、時に行商人、両替商、配送人。何でもやってるね。この辺りからライン川にかけて、ヨハネス騎士団の修道院は多いよ。ドイツでも一番の大組織なんじゃないかな」
「送金の為にウーリにも呼びたいと思ったけど、やっぱり僕は騎士団には向いてないよ。そんなに色々出来ない」
「僕は元々は騎士団に入るつもりだったんだ。でも結婚したら入れないようだ」
「あれ? そうなんだ」
「一応修道士でもあるからね。妻帯は特別な人にしか許されていない。それにはメインスポンサーとして出費が凄いことになるし、多くの領地を提供するようだし、エリーザベトが許すはずもない」
「はい。許しません。そもそも十字軍なんて危険ですから行かせません」
「そうですか。もう諦めてます……」
 クヌフウタも首を振って言った。
「私もお勧めしませんね。ホスピタル騎士団の医者は元が十字軍の軍医ですから、十字に切って血を抜いたり、外科的に切り取ってしまう医療で荒っぽいのです。そもそもハーブの効能を迷信と言ってあまり認めていないのが私にはどうも合いません」
 アルノルトが意外そうに訊いた。
「評判よりも良くないんだ」
「十字軍ではご活躍だそうですから全てがダメとは言いませんが、聖ラザロ騎士団の病院の方が人道的です。行き場所の無い癩病の人を引き取ってお世話しているそうですから」
「聖ラザロ騎士団ならウーリに修道院がありますよ」
「それは見てみたいですね!」
 エルハルトは御者台から言った。
「帰り際に寄って行きます? 俺も入るなら聖ラザロですから、見学したいんです」
「あれ? 兄貴は騎士団入るの? 結婚しないの?」
「ラザロはその辺りも厳しくないようだ。結婚する時に仮退団すればいいんだ。その後も非常勤の登録は生きてる。当然戦時は数が必要だからそういう人がかなり多いんだ」
「へー。僕もラザロなら入れるんだ」
「でも私有財産の半分は寄付で取られるからな。アルノルトはだめだな。跡を継ぐだろうから」
「え? 兄貴じゃなくて?」
「ああ……オレは継がないよ。あちこち遠くへ行ける方がいい」
「それはかなり初耳だよ?」
「ラッペルスヴィル家と仲のいいお前の方が向いてるさ。ルーディック卿もその方がいいでしょう?」
「それは……確かに! 一緒に頑張ろうアルノルト」
「まだ決まったわけじゃないよ!」
 アルノルトは慌ててそれを否定せざるを得ない。兄を差し置くことなんて考えられなかった。
「仮にそうだったらという話さ。もし仮に、僕も一緒にラザロに入るとしたら、一度離婚して、入団して、それから仮退団すればいいんだ……」
 エリーザベトとしてはこれは衝撃的な話だ。とても聞き逃せなかった。
「ルーディック! あなたは私と離婚してまで騎士団に行きたいというのですか!」
「仮にだよ? すぐ辞めてからすぐまた再婚して、元通りというプランなんだけどどう?」
「どう?って、冗談じゃありません! 結婚でお世話になった方に申し開きできませんし、財産半分が寄付されるなんて無理です」
「そうだよね……」
「それに、そんな簡単に離婚を口にして、私は傷付きました。これは懺悔に追加です」
 ルーディックは思わず頭を抱えた。
「うわー。また増えてしまったよ」
 アルノルトは「大変だねえ」と笑うよりない。
 エリーザベトは言った。
「そろそろ私達の馬車へ戻りましょうか。城の前できつい登り坂がありますし」
「それは軽い方がいいですね。では、アルノルトも乗せてやって下さい」
「僕も?」
 エルハルトは馬車を一旦停めた。先頭を走っていたので、後続の馬車も停まり、アフラが窓から顔を出して覗いている。
 ルーディックとアルノルトはすぐに馬車の後部から飛び降りた。
 しかし、エリーザベトはやはり飛び降りる事が出来ない。
 エルハルトは馬車の下で片膝を出して言った。
「ここに足を掛けて降りて下さい」
「よろしいのかしら?」
「ええ。どうぞ」
 エルハルトはそう言って手を差し伸べた。
 既に降りていたルーディックは、せめてもとその膝にハンカチを置いた。
 エリーザベトはエルハルトとルーディックの手を取りつつ、その膝に足を置いた。
「おうっ」
「平気かしら?」
 靴のかかとが尖っていて少し痛かったが、エルハルトは耐えた。
 エリーザベトは急ぎ地面に降り立った。
「ありがとう。重かったでしょう?」
 エルハルトは膝のハンカチを払ってルーディックに返しつつ笑った。
「いいえ。これくらいはいい重みです」
 それはかなり無理をした笑いだったと言っていい。
 馬車を乗り換え、しばらく進めばラッペルスヴィルの城壁が見えた。一つ高い丘の上には、さらに高く聳える城塔と、修道院の二つの塔が並んで建っている。
 馬車は町を囲う城壁内に入り、高い家の並ぶ町並みを抜け、大きな修道院へ続く坂を登ってその丘を登った。
 その向こうには聳え立つ城塔が見え、高い城壁が遮っている。その閉ざされた城門は、ラッペルスヴィル家の馬車が来た瞬間に開かれた。
 城の敷地に入った所には見上げる程高い城砦と塔が聳え、それを通り過ぎた所にある広場で馬車を停めた。
 エルハルトはいち早く馬車から降りて、さっきの要領で片膝になり、クヌフウタとペルシタを降ろしてあげた。
「大きいお城!」
 馬車から降りて来たアフラは、聳え立つラッペルスヴィル城の塔の大きさにはしゃいだ。
「大きいね」
 マリウスも城を見あげてそう言った。
「良い眺めねー」
「湖がキレイ」
 イサベラとユッテ、そしてその従者達も続々と馬車を降りて、周囲を見回した。
 岬のように突き出ている丘の上は周囲三方をエメラルド色の湖で囲まれている。しかしそこでは植えられた菩提樹や建物があり、それは部分的に見えるのみだった。
 ルーディックとアルノルトも馬車から降りて来て、連れ立って湖のよく見える岬の方へと走った。
「あっちだ」
 それは城とは逆方面だ。岬の突端まで来て、ルーディックは言った。
「すぐ戻らないと怒られるかな。でも絶景ポイントなんだ」
 アルノルトは叫んだ。
「おお! これは絶景だ!」
 そこに広がるチューリヒ湖は壮観だった。澄んだ蒼碧の湖は視界を包み込むように広がり、陽光をキラキラと乱反射させている。その対岸には架け橋のように細く続く半島と、そこに掛かる浮き橋も見え、直下の階段を降りれば小さな船着き場もある。
「姫君達もこっちに来るようだ。どうぞこちらへ!」
 ルーディックが手を挙げると、ユッテとイサベラもやって来てその景色を見た。
「キレーイ!」
「ここからだと湖はこんなに綺麗なんですね」
 続いてアフラとマリウスもこちらへやって来て、その景色を見た。
「感動です!」
 アフラは涙を滲ませるほど、その風景に感動した。
 一方、城からはブリューハントとリーゼロッテが馬車を迎えに出て来た。
「お帰りなさいませ。昨夜はどちらに?」
 心配そうに見ている二人にエリーザベトは言った。
「一日延びてしまって心配を掛けました。夜遅くなってしまってヴィンテルトゥールに……ルーディック、そして王女様方はキーブルク城に泊めていただきました。それでラウフェンブルク伯もご一緒に来ています」
 向こうにはエーバーハルトとハルトマンが馬車から降りて来るのが見えた。
「ようこそおいで下さいました」
 ブリューハントは胸に手を当てて礼を取り、エーバーハルトを迎えた。
「こんにちは。甥のルードルフが大変お世話になっておりますようで」
 エーバーハルトがそう言うと、ブリューハントは後ろめたくなり、少し顔を青くした。
「いえ……お元気でいらっしゃいます」
「風邪と聞いておりますよ? 家のことをいろいろ調べておいでだとか」
 ブリューハントはますます顔を青くした。
「それは! 大変差し出がましい事を致しまして……謝罪致します」
「いえいえ、それには及びません。我が甥のためにやって下さったこと、それは有難く受け取り、礼を言わせていただきたい」
「勿体なきお言葉!」
「エーバーハルト卿が寛大なお方で良かったですね。アンナ様はまた少し違ってましてよ?」
 エリーザベトは微笑しているが、それは少し怖い方のだ。
「いやあ、ご婦人の気持ちには疎くて、私には判りかねます」
 ブリューハントが頭を撫でつつ言うと、エリーザベトが言った。
「そうやって誤魔化しても、アンナ様はもうみんな知っておいでです。知りませんよ?」
 エーバーハルトは大きく笑って言った。
「妻は私にも今でさえほとんど予想が付かない。女性とは男にとっていつまでも謎です」
「ミステリー、それはロマンですな」
 二人は大いに笑い合った。
「高貴な方をお待たせしてはいけません。皆さんを貴賓室へご案内して下さい」
 エリーザベトはリーゼロッテにそう言った。リーゼロッテは遠くを見て言った。
「心得ております。しかし皆さん、あんな遠くにいらっしゃいますね」
 リーゼロッテの視線を追うと、広場から遥か遠い一番突端の所に皆が集まっている。
「まあ。しょうがない人。では先に行ってて下さいませ」
 エリーザベトは自身でそこへ歩いて行き、ルーディック達を呼びに行った。
「皆さんお集まりでどうしましたの?」
 イサベラが振り返って言った。
「エリーザベト様! ここは最高に美しいです」
 ユッテは大はしゃぎで言った。
「湖があまりに綺麗で、私のお城よりも素敵!」
「お褒めをいただき、ありがとうございます」
「私、感動して泣いてしまいました」
 アフラの目には涙の跡さえある。エリーザベトは生まれた時から過ごして来た場所なので、綺麗と思う気持ちはさほど無くなっていた。アフラの目を通すように改めてこの風景を見ると、新たな感動が蘇る気がした。
「若い人の新鮮な目は大事ですね。私も改めて綺麗だと思いますわ」
 エリーザベトはアフラくらいの子供の頃はこの場所が好きで、よく家族と過ごした事を思い出した。
「よくここで湖を見ながら船を待ち、この道の下の船着き場まで父や弟を迎えに行ったものです」
「この道ですね」
 ユッテは階段脇からその道へと降りて行くが、今では使われない道は草で埋まり、崖で寸断されていた。
 草深い坂の向こうは見渡すばかりの湖が続いている。
 アフラもユッテを追って道を駆け下りて行った。
「行き止まりみたい。でも、ここからもキレイよ」
「湖まで行ってみたいです」
 エリーザベトとイサベラもゆっくりとその後を追った。
「昔は坂が緩やかで道があったのです。もう行けないようになっているので、足下に気を付けて下さいませね」
 エリーザベトは少女の頃、船着き場に船が帰ってくると、この崖道を駆け下りて行き、上がって来た父と弟は捕ってきた魚を自慢気に見せてくれた。
 一度は途中で転んで怪我をして、父に負ぶわれて帰り、それからは階段が作られた。
 ある時は不審な船が来て、暴徒が上がり込んで来て、それを騎士達に知らせ、父や騎士に護られつつ城まで逃げた事もあった。その後には崖が上れないくらいに急になり、防壁が作られた。父はその時の怪我で長く伏せった。
 走馬燈のようにそんな記憶が思い出され、思えば沢山の想い出の中に、この蒼い湖はいつも隣にあった。しかし、そこにいた家族はもう誰もこの世にはいない。
 湖を見ながら、いつしかエリーザベトは涙ぐんでいた。隣のイサベラがそれに気付いた。
「どうされました……」
「大丈夫です。少し家族を思い出して……自分の家でホームシックなんて変ですね……」
 そう言うと、また涙は零れて来た。弟を亡くしてまだ半年ほど、父母を亡くしたのもこの二年の間のこと、無理も無かった。
「エリーザベト様……」
 イサベラがその手を取って握ると、掛け寄って戻って来たユッテとアフラもその手を重ねた。
「ありがとう御座います。湿っぽくなってはいけませんわね。では、城内へ参りましょうか」
 エリーザベトは一同を城の貴賓室まで案内した。貴賓室とは言え、部屋は修道院の執務室のように質素だった。城の内装もまるで華美な装飾が少なく、絵画や美術品が多く置いてあるくらいだ。先に案内されていたエーバーハルトやクヌフウタ達、そしてエルハルトは、既にそこにあるソファーで寛いで歓談していた。
「これで皆様揃いましたね。こちらでしばらくお寛ぎ下さい。そろそろおやつの時間ですから、甘い物をご用意致しましょう」
 エリーザベトはそう言って部屋を辞した。
 令嬢達はソファーに座り、旅の疲れを休めた。
「甘い物……タルトだといいですね」
 アフラがそう言うと、ユッテは笑った。
「アフラはもうタルト大好物ね。私もだけど」
「やっとタルト食べれる? ワーイ」
 マリウスがそれを聞いて大喜びだ。
 しかし、そのおやつはなかなか届かなかった。
 ルーディックが心配になって来たのか、「様子を見て、ルードルフを呼んで来よう」と言って、席を立った。
 アルノルトも気になって、少し後に席を立った。扉を出ると、もう既にルーディックの姿がなかった。しかし、階段の方で声がして、足音が聞こえたのでそれを追った。
 階段ではリーゼロッテとすれ違ったので、「ルーディックはこっちに?」と聞いた。
「ええ」とリーゼロッテが頷いた。
 ルーディックの足音は螺旋状の階段を延々と上がって行く。部屋は塔のかなり高い所にあるようだ。ルーディックが階段を上り終える頃には、アルノルトはヘトヘトになっていた。窓からは見晴らしよく蒼い湖が見えていた。
 ルーディックはある部屋でノックをした。
「エリーザベト、入るよ」
 ルーディックがドアを開けると、エリーザベトは執務机に顔を埋めるようしていた。そして涙を拭うようにして顔を上げた。
「泣いてたの?」
「あなたには離婚と言われ、ショックのせいですわ」
「ごまかしてもわかるよ。まだ、こうして思い出して泣いてたんだね。一人で隠れて泣かないでほしいな」
「ごめんなさい。さっきはあまりに多くの事を思い出して」
「いや、気付いてあげられなくてゴメン。悲しいのなら、僕に言ってよ。少しは軽くなるよう努めるよ」
「あなたったら……早く大きくなって。早く大人になって、そう言う甘いセリフを囁いて欲しいわ」
 エリーザベトは艶やかな笑顔になって、ルーディックを見詰めた。
 そこでドアをノックする音がした。
 ルーディックがドアを開けると、アルノルトがそこにいた。
「アルノルト。どうしてここに?」
「足音を追って来た。ここは広い上に高いね」
「アルノルトさん? どうしました?」
「いやその、妹達が甘い物を待ち兼ねていたので、様子を見に……」
「いけない。まだ言ってなかったですわ」
 ルーディックが言った。
「大丈夫。さっき通りがかりにリーゼロッテに言って来たよ」
「ああ、ありがとう」
「じゃあ次はルードルフだね。行こうアルノルト」
 アルノルトはルーディックに連れられ、幾つか下の階へ行った。
 ルードルフは充てがわれた部屋で本を読んでいた。
「お帰り。やあ、お客様がいるね」
「ウーリのアルノルトです。少し前にはどうも」
 後からアルノルトが挨拶をすると、ルーディックが言った。
「急なんだがルードルフ、エーバーハルト卿が来てる」
「え? 叔父上が? それは急過ぎる!」
「実は、ここで色々調べている事をもう全部話してしまった」
「うう。さては裏切ったのかい?」
「キーブルク城へ寄って泊めてもらったんだ。どうして帰って来ないのかと聞かれたから、いい機会だし話してしまったよ。まだいけなかったかい?」
「まだ会いたくない……。まだ心の整理が付かないよ。悪いことを言ってしまいそうだ」
「率直に言ってもいいんじゃないかな。そんなに簡単に壊れる関係なのかい? エーバーハルト卿はしっかり自分の口から話したいと言ってここまで来たんだよ。直接本当の事を聞けばいいんだ」
「わかった。今行くよ」
 ルードルフは立ち上がり、ルーディックと一緒に部屋を出た。そして、皆が集まる貴賓室へ来て、ルードルフは恐る恐る入って行った。
「ルードルフ。しばらく見ないうちに大人びたな」
 エーバーハルトがすぐに声をかけて来た。
「叔父上、長らく留守にしてご免なさい。調べ物をしてました。家の事を……」
「言わずとも判っている。ルーディック卿からすべて聞いた」
「不信に思ってしまった事も?」
「それはまあ……当然だろうな」
 ルードルフは目を強張らせ、首を振って言った。
「おかしいよ! 証書を見れば叔父上は王へ願い出て領を譲った事になってる。叔父上に不信を持たざるを得ないじゃないか!」
「ああ。それはもちろん理解出来る。後見の権利を濫用して、領地を売ってしまったのはこの私だ。それを言う事も今まで避けて来た」
「でも、どうして! どうしてそんな……不利益しかないような事を?」
「そうだな。何から話そう。私は身に覚えの無い借金を理由に裁判に引き出された。そこで王へ領地を売る約束をさせられた。頷けば即、譲渡の承認、反駁をすれば即、反逆の証となるような、そんな衆目の条件下でな」
「親族の譲渡なのに、なぜ裁判の証書が残るのかと思ったら! そんな事が……」
「兄を——そなたの父を亡くし、当時のラウフェンブルク家は大きく揺らいでいたんだ。その全てを一人で背負った時、私もまだ若かった。何の力も無く、叔父を信じていた。アンナと結婚させてくれたからな。しかし叔父がキーブルク家の後継を名乗った為に争ったサヴォイア家との戦争の費用を、アンナはいつの間にか借金にして背負わされていた。そして結婚した私もまたその代償に領を奪われたんだ。王には結婚斡旋の手数料とも言われたな。法外過ぎる手数料だ。そこにその王の娘がいるが、これは王家であってこそ、聞くべきだろう」
 ユッテは事の真相はまだよく判らなかった。しかし、その辛酸の程は分かり、自ずと頷いていた。
「親戚間でそんな酷いことはしないだろうと思っていたが、王は後見役の顔をして好き勝手に借金に当て込み、私と結婚させて容赦なく領地を奪い取ったんだ。まるで老獪な強者が無知な若者に結婚という甘い罠をかけて、全力で領地を奪い取るようだった。アンナにはあまり聞かせられないが、な。実際アンナも多くの領を取られているんだ」
「叔父上……そんな事だったなんて……。では本当に我が領はもう無いのですね」
 ルードルフは床に座り込み、地を掻いた。
「これらの領地は今、キーブルク再興に当たって、返却を申し出ている所だ」
「でも、それは戻るものではないのでしょう?」
「うむ…‥正直戻るかどうかは、一部が返るくらいだろう。しかし、これがダメでも、領は無いわけではない」
「本当ですか?」
「ああ。ラウフェンブルクがあるだろう」
「そこは叔父上の、ラウフェンブルク家の本領地ではないですか!」
「そこは司教の兄と共同で持っていて無事だった。元々お前の父譲りの領だ。我々は新生キーブルク家になるし、お前にこそ相応しいだろう。これは兄とも既に合意の事だ。ラウフェンブルク伯はお前が継ぐんだ」
「叔父上! 何と申して良いか……。ご無礼をお許し下さい!」
 ルーディックはエーバーハルトの手に縋り付いた。
「それはいい。だが、私を誰だと思っている。もう親と思うがいいと言ったはずだぞ。成人して叔父だと明かしてからは他人行儀過ぎる」
「ありがとう。叔父上、いえ、お父様……」
「それでいい。育ての父だということはもう変わらぬ」
 エーバーハルトは笑って続けた。
「思い悩むなら私に聞けばいいのだ。それと、その裁判関連の事では、ルーディック卿が良い先生を見付けてくれたようだ。学んでみるか?」
「ルーディックが?」
 ルーディックが口を開いた。
「チューリヒで帝国執政官をしているヤコプ・ミュルナーという方から、私学校に来ないかと言われているんだ。かなりやり手の裁判官でもある。一緒に来るかい?」
「ルーディック、行くに決まっている! 勉強して、僕はいつか領地を取り戻してやる。お父様の分も!」
 エーバーハルトは大きく笑った。
「それは頼もしいな。待ち遠しい事だ。では決まったな」
「ええ。一緒に学ぼうルードルフ」
「ああ」
 頷くルードルフの手を取り、ルーディックは引き上げるようにルードルフを立たせた。その手を握り合いつつ、ルーディックはアルノルトを振り返った。
「そこのアルノルトはね。王子を相手に裁判に勝ってきた所だ」
「本当に?」
 ルードルフが掛け寄って来たので、アルノルトは頭を掻いた。
「ああ。まあ、示談で壺の弁償金が戻ったくらいだったんだけど」
 ルーディックは首を振った。
「勝った事には変わりないさ。際どい場面もあったけど、こうして勝てるっていう証人でもあるね」
「本当なんだ! すごい! すごいよ!」
 ルードルフはアルノルトの手を取って激しく振った。アルノルトは気圧されつつ言った。
「ああ、これもミュルナーさんのお陰なんだよ。これから習う先生が素晴らしい人であることは僕が保障する」
「それならば、期待していいね」
「あとは、アルノルトだね」
「僕?」
「一緒にチューリヒで勉強出来るといいね。いい返事を待ってるよ」
「判った。父に相談してみるよ」
 アルノルトはルーディックに強く頷いた。
 アフラがその言葉端を聞き留めて言った。
「兄さん?」
「なんだいアフラ?」
「チューリヒで勉強するの?」
「ああ、父さんから許可が出ればな」
「ずるい! 私も勉強したいのに」
「父さんに許可貰えばいいじゃないか」
「えーっ。許可出ると思う?」
「……ダメかも」
「そんなーッ。どうしていつも兄さんだけ?」
「僕も出ないかもしれないじゃないか。まあ帰ったら一緒に説得しよう」
「一緒に?」
「ああ。逗留の費用がかかるって言うんなら、僕がまたホテルで働けばそれくらいは稼げる」
「兄さん! 大好き!」
「僕も大好きだよ」
 そう言われてアフラは思わず赤くなり、令嬢達は口を隠すように驚き、互いに顔を見合わせた。
 それを見てルーディックは言った。
「これは突然の愛の告白を聞いてしまったよ」
「いや、これはそういうんじゃなく、兄妹で普通の掛け合いだよ」
「普通と言うには、かなり献身的じゃないか?」
「大事な妹なのは変わらないし、普通さ」
「そうか。でも妹さんはそうでもないようだよ?」
 アフラは顔が真っ赤になっていた。
「恥ずかしいから、そう言うのは、公衆の面前では言わないの」
「そう? 誰も気にしないと思うよ?」
 そう思って見回せば、ユッテもイサベラも手を口に当てたまま縋るような目でこっちを見ていた。何故か大いに気にしている。
 聞こえないような声で「やっぱりシスコンね」と言われているとは気が付かなかった。
 ルードルフが言った。
「それより、アルノルト。その裁判で勝った話を聞かせて」
「ああ、いいよ」
 アルノルトはルードルフに壷を割ったところから、順を追って話を聞かせた。
 途中から話にユッテが参加して来て、話の大半をユッテがしてしまった。


剣の先生

 そうしていると、給仕とリーゼロッテによってタルトとお茶が運ばれて来た。
 後ろからはエリーザベトも歩いて来た。
「皆さん大変おまたせ致しました。甘いものをお持ちしましたよ」
「うわーい!」
 と、同時に喜んだのは、マリウスとハルトマンで、お互いに顔を見合わせた。
「これは……何タルトですか?」
 アフラが聞くと、給仕が言った。
「赤い方は摘みたてチェリー、白の方は三種のベリーのレアチーズタルトです。お好きな方をどうぞ」
「どちらもおいひそう……」
 アフラはもうよだれが出て来て舌が回らないようだった。
 給仕は選んで貰いながらタルトを小皿に取り分け、王女から位の順に配って行った。
 リーゼロッテはローズティーを淹れてテーブルへ配って行く。
「これ美味しい!」
 ユッテが白い方のタルトを口にするやいなや、そんな声が漏れた。ユッテは食べ慣れてるので、普段そう口にすることは少ない。
 それを聞いて皆、白い方を頼み、競うようにかぶり付いた。
 アフラは一口食べて天にも昇るような心地で言った。
「何て美味しいの……」
「ん。チーズクリームがお上品で」
 イサベラもそう頷いた。
 エリーザベトもその近くへ座って言った。
「お気に召して頂いて、何よりの幸せです」
 マリウスやハルトマンは黙々と食べ、もう一つお替わりを所望した。
 エルハルトはチェリータルトを食べて、
「美味しい。さすが摘みたて」と言っている。
 クヌフウタも同じチェリータルトを食べて、
「新鮮だと美味しいですね」と頷いていた。
 アルノルトはチーズの方を一口食べて言った。
「これ、習ったのに近い」
 アフラはしかし激しく首を振る。
「あれは、こんな美味しくない……」
「チーズタルトとフルーツタルト、両方を合わせれば作れるかも。交互に頬張って食べてたから、そのミックスの味に近いんだ」
「ホント?」
「ブルーベリーとストロベリーとラズベリー? 三つのベリーのシロップ漬けがあれば出来そうだ。それにベルケルさんにいいチーズを貰えば、同じじゃないにしてもいいのが出来るんじゃないかな?」
「兄さん! それ作って!」
 アフラが目を輝かせ、力を込めて言った。
「帰ったら作ってみよう」
「うん!」
 ユッテはそれを聞いて溜息を吐くように言った。
「いいわねー。次にそれを作る時には私はいないのね。呼んで欲しいものだわ」
 アルノルトは慌てて言った。
「まだ下手っぴだし、ちょっと試すだけだ。上手く出来るかどうか判らないよ」
 そう頻繁に村に来られては、一家に災難が降りかかることだろう。
 まだ不満そうなユッテに、アフラも言った。
「始めはまだ試し試しですから、ユッテさんが次に来る時には美味しいタルトが作れるように、練習しておきます」
「そう? それは今から楽しみね」
 ひとまずそれで話は収まったので、アルノルトは肩で息を吐いてエルハルトを見た。
 エルハルトも溜息を吐くような仕草をした。
 それから一同はローズティーを飲み、華やかな香りを楽しんだ。
 ルーディックはエーバーハルトに近付いて言った。
「せっかくの機会です。エーバーハルト様にまた御指南をお願いしたいのですが」
「剣の練習か。いいだろう。ルードルフも鈍ってないか?」
「時々ルーディックと練習してました」
 貴族ご令息達はしばらくすると、鎖帷子や鎧を着込み、中庭に出た。
「アルノルトも来て!」
 鎧を着たルーディックが騒々しくアルノルトを呼びに来た。
「僕は剣なんてやったことないよ。危ないし」
「大丈夫だよ。模擬刀だから」
 そう言ってアルノルトが連れられて行ったので、一緒に令嬢達も見学に出た。それにエルハルトとマリウスもついて行った。
 鎖帷子を着たエーバーハルトは、練習用の鎧を着込んだルーディックと対峙して言った。
「今日は案外役に立つ少し変わった方法を教えよう。打ち込んで来るがいい」
「はい!」
 ルーディックは慣れた手付きで剣を構え、鋭く斬りかかった。
 金属音が鳴った。
 エーバーハルトはその剣を跳ね上げ、ルーディックの懐に飛び込み、剣を持つ腕を掴みつつ首筋に肘を当てた。
 勢いで倒れたルーディックにエーバーハルトは馬乗りになり、剣を首に当てた。
「ま、参りました!」
 ルーディックは剣を離して手を上げざるを得ない。
 破顔したエーバーハルトは立ち上がり、ルーディックを起こして言った。
「剣は互いに一本だが、こうして手や体を使うことで優位に立つ事が出来る。それに、鎧を着ていると剣を通さないから、こうして倒して投降を迫る方がいい」
「これは強いです。かなり本気で打ち込んで、一瞬でこれですから」
「まあさすがの太刀筋だった。ジュニア大会で優勝しただけはある。まず実際やってみるのがいいが、私だと身長が合わないようだ。アルノルト君、君がさっきの打ち込む役をするんだ」
「僕? まだ何の準備も……」
「向こうにある鎧を貸してあげる」
 ルーディックの案内で、アルノルトは練習用の鎧を借りて着込んだ。その間にルードルフとハルトマンが木剣で同じように実演をして習い始めた。
 鎧を着込むと、アルノルトはルーディックと対峙した。
「思いっきり打って来ていいよ」
 ルーディックは剣を構えた。
「じゃあ行くよ」
 アルノルトは大きく振りかぶって剣を打ち下ろす。
 ルーディックはそれを鈍い音で弾いて懐に飛び込み、肘を当てた。しかし、それより速くアルノルトは後へ跳び去り、技は不発だった。
「やるね!」
「そりゃあ、来るのが判ってたら避けられるよ」
 エーバーハルトは笑った。
「そうだ。実際に避けられる事もある。避ける間が無いようにもっと早く飛び込み、腕を取って捻るように倒すんだ。肘で押すのは最後の一押しだな。もう一回だ」
 ルーディックとアルノルトは再び剣を構えた。
「次は最初から避けないでくれよ。練習だから」
「わかった」
 アルノルトは剣を打ち込んだ。ルーディックはそれを避けつつ剣を滑らして前へ進み、アルノルトの腕を取り、肘を当てる。が、アルノルトは倒れなかった。力に合わせて重心を低くしていたのだ。
「たっ倒れない!」
「避けずに踏ん張ってみた」
 見ていた家族と令嬢達はそれを見て笑い声をあげた。
 エーバーハルトの目が光った。
「剣術には足裁きと下半身のバランスが重要なんだ。アルノルト君は何か心得があるようだ。何をしている人なのかな?」
「僕は普段、山で羊飼いをしています」
「羊飼い? 山で? それでそのバランスと下半身……では、交代してみよう。次はアルノルト君が倒す役だ」
 対峙し直して、ルーディックが剣を打とうとして、気が付いた。
「アルノルトは剣を握ったことないって言ってたね。受けられるかい?」
「いや、相当ダメだ。当てないくらいで頼む」
「そうか」
 ルーディックは肩を撫でるつもりで剣を放ってみた。
 瞬間にアルノルトは剣と逆側の懐にいた。剣は弾かれずにまだ宙にいる。
 そのままルーディックは抱き付かれた格好になり、タックルで飛ばされるように倒れた。
 そしてアルノルトはマウントポジションで座る。が、剣は取り落としていた。
 見学している令嬢達から拍手が沸いた。
「見事だ。その突進でいい。驚くべき足の速さと、足裁きだ」
 エーバーハルトも小さく拍手して言った。
「あれでいいのか! 一回で負けた!」
 と叫んだのはルーディックだった。
「まぐれだよ」
 アルノルトはルーディックの手を取って起こし上げた。
 エーバーハルトは言った。
「今のだと剣が無くても出来ていたな。実際にこの技は剣が折れた時に編み出したものだ。そういう時にこそ有効な技だ。しかし、相手に乗ってから剣を持つ手を放っておくと、思わぬ逆襲に遭うぞ。油断しないように」
「はい! 先生!」
 アルノルトは大きく頷いた。
「先生か。いい響きだ」
「次は僕だ」
 ルーディックはそう言って交代するが、次にやっても、さらにやってもアルノルトは倒れる事は無かった。
 隣でも小さなハルトマンはルードルフを倒すことが出来ず、まるで練習にならなかった。
「交代してみよう」
 エーバーハルトはルーディックとルードルフを組ませた。二人は互いに倒し合い、練習になりそうだった。
 そしてハルトマンの相手は同年代のマリウスがすることになった。子供用の板きれで出来た木剣を渡してエーバーハルトが言った。
「木剣の平らな方で打つこと。ここならそう痛くない。ではやってみよう」
 すぐさまマリウスがハルトマンを剣の腹で打った。それはまともに頭に当たった。
「イッタいな!」
「まずは避けなきゃ」
「判ってる!」
 もう一度やってみると、ハルトマンは避けるだけで精一杯で前に飛び込めなかった。マリウスも面白がって、何度も連続で打ち込んで来るので、後に避けるばかりでますます前に行けなくなった。
 そこへエルハルトが出て来て言った。
「先生。私にも剣の指南をお願い出来ますか? 殆ど心得が無いのですが」
 エーバーハルトは頷いた。
「いいだろう」
 エーバーハルトはエルハルトをアルノルトと組ませつつ剣を教えた。
 その指南をしつつ、子供達を見て、エーバーハルトは言った。
「これは剣の受け方から教えないといけないな。少し聞いてくれ」
 エーバーハルトは一度皆を集めた。
「エルハルト君、この辺りにゆっくり打ちかかって来て」
 エーバーハルトは打ってきたエルハルトの剣を鮮やかに受け流し、次には刀身を首へと当てた。
「剣を避ける時は基本円を描くように受け流す。円運動からすぐに次の動きへと繋げる。剣を受けた瞬間こそが最大の隙だからだ。もう一度打って来て」
 次はエルハルトの打った剣を横へ弾じいたポーズでエーバーハルトは「ストップ」と言った。
「こうして横に弾くと体がブレて、次の踏み込みが出来なくなる。弾くなら重心低く踏み込みながら剣を巻き込んで斜め前へと強く弾く。向こうの体をブレさせるくらい」
 言いながら、剣を巻き込みつつ大きく前へ弾く。エルハルトが二の足を踏んだ所にエーバーハルトは懐に入り、次の瞬間には肘が決まった。
「これはさっきアルノルト君が見せた姿勢だ。この低い姿勢で受けて足はさらに次へと出ている。剣で突く時もそうだが、ここで足裁き、下半身の安定が大事なんだ」
「判りました、先生!」
「では、エルハルト君、次の私の剣を受けられるかな?」
 エーバーハルトの真っ直ぐ突き出した剣は目にも留まらぬ速さで、エルハルトは何も出来なかった。それは頭の寸前で止まっている。
「な、何も出来ませんでした」
「真っ直ぐに来た剣は見えにくいし受けにくい。これを避けるにも足を使うんだ。ゆっくり弾いてみよう。円運動で剣をぶつけて行き、踏み込みは斜め前へ深く。前が無理なら後へ一旦逃げてもいいが、それでは勝ちは拾えない。前へ行く方が攻めの好機を生む」
 エルハルトはゆっくりと出されたエーバーハルトの剣を受け流しつつ踏み込んでみた。
「ストップ! ここだ。この場所からはさっきの肘がすぐに入るだろう」
 エルハルトはそのままの姿勢で肘を出し、前に出た。すると自然に良い場所に肘が決まり、エーバーハルトは倒れた。
「そうだ。それこそ技の完成型だ」
 そうしている間に、ハルトマンとマリウスは互いに打ち合いを始めた。本来なら交互に打ち役、受け役があるはずだが、マリウスは専ら打ち役のようだ。
 それから一通りの実践をすると練習は終了になり、皆エーバーハルトに礼をして脱衣所へ行くが、防具をしていなかったマリウスとハルトマンだけは、廊下を歩きつつ、そして部屋まで木剣で戯れるように打ち合いをしていた。
「部屋で振り回さない。危ないから!」
 アフラに注意されて、二人はようやく木剣を手放し、壁に立てかけた。
 脱衣所では、アルノルト達が鎧を脱いでいると、ルーディックは足を押さえていた。その足のふくらはぎには切り傷があった。
「怪我したのか?」
「足は防具してなかったからね。剣を落とした時に跳ねた刃が当たったんだ」
「まさかあの時? 結構血が出てるな。クヌフウタさんに診て貰おう」
 アルノルトはルーディックを肩に抱えつつ、貴賓室へと連れ帰った。
 部屋へ入って行くと、ルーディックの前にエリーザベトが駆け寄って来た。
「大変! 怪我をしたんですか?」
「落とした剣が掠っただけだよ」
 エリーザベトはしかし、ルーディックのその脚に流れる血を見ると、卒倒するように後に倒れ込んだ。
 とっさにルーディックの伸ばした手は、空を掠めた。
「エリーザベト!」
「キャー! エリーザベト様!」
 近くにいたユッテが悲鳴を上げた。
 すぐにクヌフウタがやって来て、頭を支えて小瓶を取り出し、気付け薬にペパーミントの香りを嗅がせた。
「あ、すいません。少し目眩が……」
 エリーザベトはすぐ目を開け、起き上がろうとした。
「しばらくは安静になさって下さい。長椅子の方へ」
 クヌフウタは鋭くそう言って、ペルシタと二人でエリーザベトを長椅子に寝かせ、おしぼりを顔に当てた。
 アルノルトはルーディックを近くのソファーに座らせて言った。
「ルーディックの怪我を診て貰おうと思ったら、それどころじゃなくなっちゃったね」
 ルーディックはエリーザベトの顔を覗き込み、言った。
「大丈夫? 少し頭を打ったかもしれない」
 エリーザベトは体を横たえたまま言った。
「お騒がせしてごめんなさい。私はもう大丈夫です。クヌフウタさん、先にルーディックの怪我を診て戴けますか?」
「判りました」
 クヌフウタはルーディックをソファーに腹這いに寝かせ、ふくらはぎの手当をした。
 途中で部屋へ入って来たリーゼロッテは、主二人が倒れているので驚いて駆け寄った。
「どうしました! 大丈夫ですか!」
 エリーザベトが頭のおしぼりに手を当てて言った。
「ええ、心配はいりませんよ。クヌフウタさんに診て貰ってますし」
 頷きつつもリーゼロッテはかなり狼狽している。
 クヌフウタはここでも黄色い花を磨り潰してルーディックの傷に塗った。
 そしてさらにその花の湿布を作っていると、アフラが覗きに来て言った。
「卵の膜は使わないんですか?」
「卵の膜?」
 クヌフウタは首を傾げた。
「私のお腹の怪我はお医者様が卵の膜を貼って治したんです。綺麗に治ったんですよ」
「そうなんですか。それは美容的な治療法としてありますね。ただ、貼り替えたり、頻繁に状態のケアが必要ですね」
「はい。でも、治りがとても早かったんですよ」
 ルーディックが顔を上げて言った。
「それは是非やって欲しいな」
「卵があれば私出来ますよ? しょっちゅうはがれて貼り直してましたから」
 エルハルトが横から言った。
「アフラ。クヌフウタさんが今は主治医なんだ。勝手な事を言うもんじゃない」
 クヌフウタはしかし首を振って言った。
「いえ、いいですよ。やってみましょうか? 患者さんのご希望ですし、治りが良いなら私も興味が出て参りましたし」
「じゃあ、リーゼロッテ。卵を一つお願い。割って入れる器もかな」
 ルーディックの指示でリーゼロッテが台所へ行き、卵とボウルを持って来ると、その卵はアフラに託された。
 アフラは普通にボウルに卵を割り、卵殻の欠片の一つから薄い膜を引っ張り出した。それを皆でテーブルを取り囲んで見ていた。一見まるで料理教室のようだ。
「これです。すごく薄くて殻をはがす時気を付けないとすぐ破れちゃうんです」
 と言いながら卵殻から膜を引っ張ると、それは引っ張る度ボロボロと破れた。
「あ……もう一個卵を貰えますか?」
「もうアフラー。言ってる傍からー」
「ルーディックも待ちくたびれてるよ?」
「いいよー? ただ、こうしてると眠くなって来た」
 ルーディックはソファーに腹這いのままだったので、眠そうにしていた。
「お客様の前ですから、寝てはいけませんよ。そういう私も失態でしたが……」
 エリーザベトはこの間に回復し、座った姿勢になっていた。
 リーゼロッテは卵をもう三つほど持って来た。
「今度はそっと割って……」
 アフラは卵の小さな割れ目から、膜を残して殻だけをはがしていった。
 柔らかい膜だけの卵が顔を出したが、幾度も剥がすうち、その膜に破れ目が出来てきた。
「やっぱり破れる……」
 そう言ってアフラは卵の中身をボウルに出し、出て来た分の膜を出来るだけ広く破り取った。
「少し小さいけど、これくらいあれば、傷には足りそうですね」
 そう言ってアフラはクヌフウタに膜を広げて見せ、それを渡した。
「これを貼るんですか? 洗ったりせず?」
「はい! くっつき良くなるのでこのままでいいそうです」
 クヌフウタは鋏を取り出して、その膜を細長く綺麗に切り揃えた。そして再びそれをアフラへ返した。
「これで貼ってみて下さる?」
「はい!」
 アフラはルーディックのふくらはぎにそっとそれを貼った。そして撫でて空気を抜いた。
 うつらうつらしていたルーディックは急にそれを貼られて驚いた。
「冷た! あれ? 触られても痛くない。変な感じだ」
「早く治りますように!」
 アフラは念を入れて膜をぐっと指で押し込んだ。
「ッタ!」
「これで出来上がりです」
 ルーディックは最後の一押しだけは痛かったようだ。
 クヌフウタはそれ見て言った。
「空気を抜いて、しっかり貼り付けるのね」
「はい。このまま五日は保ちます。その頃にはうすーくですけど傷は塞がって来ますよ」
「これではすぐずり落ちてしまいますから、上から当て布と包帯をしておきましょうか」
 クヌフウタはその上に布を当てて包帯を巻いた。
 椅子に座り直したルーディックは、足を何度も曲げ伸ばしして言った。
「ありがとう。不思議ともう痛くないよ」
 すかさずアフラは言った。
「五日間はじっと安静ですよ。足だけですけど」
「はい……五日間安静だね」
 アルノルトはそれを見て言う。
「アフラはクヌフウタさんの弟子みたいだな」
「クヌフウタさんの弟子に? そう見えるかしら?」
 クヌフウタは慈母のような笑顔で言った。
「今日はアフラに一つ教えて貰いましたから、アフラが先生ですよ」
「先生だなんてそんな。たまたま知ってただけですから。でも、クヌフウタさんの弟子になって随いて行ったら勉強になりそうです」
「ローマまで一緒に来ます?」
「それはさすがに……クヌフウタさんがずっといてくれたら、色々教えて貰うのに残念です」
「私がいるうちでしたら何でも聞いて下さい。教えますよ」
「私、薬草のことをもっと教えて欲しいです」
「いいですよ。とは言え今はもう手持ちが少ないのですけど。エンゲルベルクの薬草園へ来れば、たくさん教えてあげられますよ」
「一度、薬草園も見てみたいです。見に行ってもいいですか?」
「もちろんいいですよ。ローマへ発つ前ならいつでもいらっしゃい」
「はい!」
 そう聞いてイサベラが言った。
「それなら私がエンゲルベルクにいるうちにいらして。出来るだけ早く来て欲しいの」
「はい。そうします」
「すぐ来てね。帰らずに待ってるから」
「はい、必ず」
 そう言ってイサベラとアフラは約束をした。
 その時はきっとアフラを送ることになるだろうと、アルノルトは今から頭を悩ませた。


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