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短編小説「割り箸がきれいに割れる日」

割り箸というものをきれいに割ることができたためしがない。

どれだけ均等に力をかけたと思っても、折れたり欠けたりしちまう。その棘が指に刺さらないかどうか気になって、イマイチ食事に集中しきれない。

ひとつ言っておくと、おれは割り箸そのものを嫌っているわけじゃない。むしろ好きだね。全然。

なんせ味が染み込むからな。

セブンとか、ライフとかの先が細くなっていてもう割ってあるような、食べやすくなってるのがあるだろ? ああいうのはダメだ。

むしろきっちり四角で愛想のないものがいい。そのほうが食べてるものの味になりやすい。

そいつで牛丼を食べれば、出汁の味になるし、カップヌードルのカレーを食えば、カレースープの味になる。

千変万化だ。

一流のフレンチで牛タンの赤ワイン煮込みを食えばその味になるだろうぜ。まあその一流のフレンチレストランが割り箸の持ち込みを許す場所なら、だけど。

マイ箸ってのがあるが、おれから言わせればあんなものは面倒なだけだ。

家では家の、出先では出先の食べ方ってもんがある。それを守れない奴はきっとスパゲッティを音をたててすするような品性の持ち主だろうな。


ただ問題はきれいに割れないことなんだ。

その筋の知り合いに頼んで割り箸を10本手に入れてもらって練習したこともある。もちろん合法的にな。

結果は惨敗。均等に割れたのもあったが、そんなの運任せだった。

もっと練習すれば日本刀を振り回す達人みたくきれいに両断できるようになるのかもしれない。

でもおれは10本中5本割ったところで残りを戸棚にしまった。そんなことに意味があるとはとても思えなくてな。

達人みたいになることに、じゃない。きれいに半分の割り箸に、だ。

意味がないように思えるってことはもしかしたらおれ自身、どうでもいいと思ってるのかもしれないな。

だって割り箸ってそういうもんだろ?

つまりなんていうか……不均等さだ。そう、おれは割り箸のその不均等さも気に入ってるってことになるんじゃないか?

食ってる途中に人差し指の付け根に突き刺さる木の破片も、口触りがいいとは言えない感触も、つよく持ちすぎると中指の背に角が食い込むのも。

そういう不便さは数えだしたらキリがないだろ? だから無神経な奴以外、誰も家では割り箸なんて使わない。

でもおれが仕方なく外で使うために割った割り箸ってのは世界に一つしかない。それはおれだけのもんなんだよ。

そう思ったら不便さや不均等なんて欠点は、考えても仕方のないことだろ?

だからおれは割り箸をきれいに割ることなんて興味がなくなったんだ。割り箸がきれいに割れる日なんて来なくていい。

おれはおれで、割り箸は割り箸なんだからな。



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