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連休明けの使者

連休明けの夜、いかがお過ごしだろうか。今回は僕が今朝目の当たりにした「神秘」をここに書き記したいと思う。

社会人になって、心から祝日をありがたいと感じるようになったのは僕だけではないはずだ。特にも土日と連結するタイプの祝日のありがたみは半端なものではない。3連休前の退勤時の脳波をいつでも再現できるマシンがあるとしたら、15万までは出す。こめかみに電極みたいなのを刺して、スイッチを入れればいつでも週末感を味わえるマシン。想像してみたものの、中々に終末感のある状況だ(ウマイッ!)。

とにかく連休というものはひたすらにありがたい。が、しかし、世の中にそんな一方的にありがたい話があるはずない。光あるところには必ず影が生まれる。連休の先に待ち構える致命的なトラップ。そう、「休み明けの憂鬱」だ。国や文化を超えて、働く人類が平等に背負う十字架。会社でも、上司でも、誰のせいでもない。強いて言うならアダムとイヴのせいだ。

連休が終わるにつれてクレシェンドしてくるあの感覚を消し去るマシンがあるとしたら、20万までは出す。日曜の夜にみんなでこめかみに電極みたいなのを刺して、スイッチを入れる光景はまさに終末だ(ウマイッ!)。

てなわけで、今日がその休み明け。しかも今日に限ってたまの出社日だった僕は絶望の淵で目を覚まし、絶望の淵で顔を洗い、絶望の淵で歯を磨き、絶望の淵でシャワーを浴び、絶望の淵で着替え、絶望の淵でトーストをかじり、絶望の淵でめざましじゃんけんに勝ち、絶望の淵で家を出た。

この時間に家を出ると小学生の大群と一緒に駅の方角へと向かうことになる。近くに小学校があるのだ。数人でワイワイおしゃべりをしながら登校する女子グループや、順番に石蹴りをしつつ学校を目指す元気な男子グループ。車が通らない遊歩道には、一通りのタイプの小学生が生息している。

平和だなあと絶望の淵で思いながら歩き続けて遊歩道の終わりに差し掛かった頃、「彼」は現れた。

小学校3~4年くらいの男の子。黒いランドセルを背負い、黄色い帽子を被りし少年。彼は一人で登校していた。

この遊歩道が終わると、短い横断歩道(信号すら無いタイプ)を挟んで、小学校の裏門に着く。ここにいる小学生は皆そこに吸い込まれていく。

彼も例にもれず、その横断歩道を渡るようだ。僕の数メートル先を歩くその少年。丁度周りの人並みも途切れたタイミングで、僕は何の気無しに、彼だけが視界に入っている状態だった。

次の瞬間、衝撃が走った。

横断歩道に差し掛かったその刹那、彼はおもむろに首を左右に振り、まっすぐに右手を振り上げて、早歩きで2メートル弱の横断歩道を渡り切った。その間、わずか0.8秒。無駄のない動きはシンクロナイズドスイミングを彷彿とさせた。対岸にいる旗振りのおじさんは明らかに彼の横断を捕捉できていなかった。

一体何が彼をそうさせたのか。旗振りのおじさんが明後日の方角を向くほどには、この横断歩道には車通りが無い。そんなことは彼も分かっていたはずだ。左右に首を振る彼の瞳には何も映っていなかったし、そもそもこんな短い横断歩道でわざわざ手を挙げて渡る小学生など基本的に存在しない。

平日の朝に降り注いだ、稲妻のような一連の動作。真面目すぎるが故に変なクセがついてしまっているのか、なんとなくムシャクシャしてやったのか、はたまた気を抜いていた旗振りおじさんに対する当て付けだったのか。答えはわからないが、小学生の繰り出すただただ意味不明な行動を目の当たりにした僕の表情は、満面の笑みだった。

明後日の方角を見つめるおじさん、ひとりシンクロナイズド横断をする少年、絶望の淵で満面の笑みを浮かべる社会人。連休明けの三銃士がそこにはいた。一人はみんなのために、みんなは一人のために。



気がつけば、連休明けの憂鬱など忘れていた。



きっと彼は、連休明けの使者だったのだろう。













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