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承認欲求って何?悪いもの?

承認欲求が悪と見られるパターンについて考えてみた

現代、「承認欲求」という言葉を多く耳にしますし、傾向としては、良い言葉として扱われないパターンを多く感じます。

多分、承認欲求に良くないイメージがあるのは、昨今のSNSもそうですが、
「小手先の承認欲求の為に虚像を作り上げる」
イメージがそのまま=イコール承認欲求という言葉に繋げられているからではないのかと思います。

SNS時代での、「傾向」という「性質」なだけの様な気もします。

乱暴に言うと、縄文時代は縄文土器作る傾向にあるし、弥生時代は稲育てるじゃん?、的な。

逆に言うと、「傾向」の時代だからこそ、そういうイメージがつくのは必然、といった所でしょうか。
個人的にはそれに対して憂う様な気持ちは沸きません。


承認欲求とは

子供は、
「ママー、見てー」
「見てー」
「ねえ、見てー」

感動を共有したいという本能とそれを分かち合いたい、承認し合いたい生き物です。

子供だけでしょうか?


大人も同じなはず、
シンプルさと純粋さを欠いていくだけで、生き物としての根底の承認願望は変わらない気がします。


3次元物質次元での承認欲求とは

雑多な3次元物質次元。
the blue heartsの曲、リンダリンダの一節、
「良いやつばかりじゃないけど、悪いやつばかりでもない」

これは単刀直入に「ここ」の真理を表しているように感じます。
回りを見渡せば、悪いやつもいれば良いやつもいるし、
内を見れば、悪い自分もあれば良い自分もいます。


死ねば、
良いやつは良いやつのみの世界(天国)、
で承認し合い、感謝や愛といった光を放ちあう、
悪いやつは悪いやつの世界(地獄)、
で騙し合い、妬みあい、殺し合う。

はい、ここで、
「承認」って良いですか悪いですか?
という問いが来た時にあなたならどう答えるでしょうか?


承認欲求の最果て


現代の性質として、「承認欲求」という言葉が、
「小手先の承認欲求のために虚像を作り上げる」
イメージから悪者にされがちですよね。
本質的に承認欲求の最果てを追求してみます。


他を承認してあげられることは愛なのではないでしょうか。

悪い気持ちで心から承認はできないはず。


本当の本当の最果ては、
良い形で他人を承認してあげられる人は、
潜在意識で自分自身を承認できる人なんだと感じます。

そこが一番重要で、
最終的には自分自身をジャッジできるのは、自分自身。
自分自身への承認欲求は必須なものと感じます。

小手先ではなく、
本当の意味で人を敬える人は、どんなダメな自分でも、現在進行形の自分の良い部分を敬えるはず。

心の奥底の潜在意識から、
自分自身が自分自身を愛して承認できることが全てで、
幸せそのもなのではないでしょうか。




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