遮光

今日、いや、正確には昨日かもしれない。
まぁそんなのはどうでもイイことで、とにかく風呂場の照明が壊れた。何かの隠喩みたいに点けても消しても何の反応も示さなくなった。
仕方がなく風呂場のドアをあけ、リビングの灯りを頼りに足場を確認しながらゆっくりと湯に浸かる。
湯に浸かりながら数十分、時には数時間本を読む。僕の1日はこうやって終わる。
最近の小説はつまらないなと思う。僕がつまらない人間になったのか、あるいはつまらなくないモノ全てが僕の目を避けているのかもしれない。どちらでも構わないが。そんな感じで昔読んだ本を読み返すことが多い。
ちなみに今日はタイトルにも拝借させてもらった、中村文則の遮光という本を読んだ。

僕の読書習慣と同じように、人の持つあらゆる感覚、あるいは人生において体感する種類のあらゆる感情は、一定周期をもって循環しているように思う。
見覚えのある夢を何度も見ては使い古した新鮮さに苦笑したり、結末を知っている映画を何度も何度も観させられているような感覚。
そのような感覚が少なくとも僕の中では常にある。無意識に生きていくのためのバランスを上手くとっているのだろうか。必要なものは何度もなんども繰り返し摂取し、不要なものは切り捨てる。毎日何処かで行われている光景だと思う。

そして循環は自然の摂理だ。人の本能は循環を肯定し、大枠ではほんの少し変化する未来だけを受け容れる。臆病なのだ。とても。

でもそれでいいと思う。真っ新な未来なんて誰が望むんだろう。いずれ物事には終わりが来て、新くもない何かが、新しい何かであるかのように振る舞い始める。5GだとかXRだとかは日進月歩を遂げている新しい技術だけど、そんなこと大多数の人にとってはどうでもいい、日常の些細な変化にすぎないだろう。

つまりなにが言いたいのかっていうと、僕の人生もあなたの人生も、多分この世界を形作る循環の片鱗に過ぎないってこと。だから自分の順応し易い環境で趣味を見つけて打ち込んだり、もしくはただ時間が過ぎ去るのを傍観しているのも良いだろうし、あるいは何かに挑戦して木っ端微塵に砕け散ったりしながら、幾ばくかの成功を夢見たりするのも、良いだろう。いずれにしても最終的には瑣末な顛末に過ぎないのだから。
ただ問題はそのどちらでもなく、妬み嫉みといった感情をうまく処理しきれず、ヤジを飛ばすだけの喧しい害虫共の存在だ。何者にもなれない自分を受け容れることも出来ず、かと言って何者かになろうとする気配すら見せない、正真正銘の虫である。彼ら彼女らには少々面倒だが最寄りの薬局でキンチョールを買ってきて、その顔面目掛けて噴霧してやればいい。大丈夫、
多分経費で落ちる

どうしても歳を取るとややこしく考えてしまいがちになるが、結局はそんなもんだ。

不適切な関係からは距離を置き、居心地のいいルーティン環境を作る傍ら、何か自分の価値を再発見できる事態や環境を求めている。もし爆発的に熱中できるなにかがあるならそれは凄く幸運なことだと思います。
まぁ要は、楽しければ良いんだよ。
どうしてもややこしく考えがちな僕もあなたも。楽しければそれで良いんだよ。
何様だよって話だろうけど笑


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