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緊張と恐怖

ある時ある場で私は緊張していた。
緊張しているその時、肩が上がっていた。
ふっと降ろす。
アキレス腱も緊張していたので、踵を弛める。
すると、ふーっと胸が落ちた。
鳩尾が抜ける。

別の時別の場で背中に妙な感覚があった。
嫌な感じが背中に貼り付いている。
よくよく感じると、それは恐怖であった。
背中のある骨を中心に痣のように恐怖の痕がついている。
その骨、その恐怖の痣が、また身体の別の処と結びつき、私にある特定の姿勢をとらせていた。

恐怖、心、動作、姿勢、一体化し浮き上がる。
外からも裡からも、観えないようで観える。
観えるようで観えない。

人間がある姿勢を取る時、もう後戻りができない、と感じる。
一度取ったその動作は、もう消せない。
永久にその人間の身体に刻印されるような気がする。
客観的には、消える。
観えない。
観えなければ存在しない、とされる。
しかし、ある姿勢を取ると、裡側で何かが起きる、と感じる。
他人を観ても、その裡で何かが起きているのは伝わる。何らかの関係性があり、共感でき、感度が高ければ、感応する。

今朝、妻に活元操法をしてもらう。
手を当てられた、その瞬間に、こちらの個人的な身体内の均衡が崩れる。
手を当てる、手を当てられる、のはある均衡から次の新たな均衡に移るためなのだろう。
氣が通るとは、均衡が崩れ、新たな均衡が立ち現れることをいうのか。
そこに重心の移動が付随するとしても、それは副次的なもの。またすぐに崩れるのだから。
整うということは、シンメトリーに至るということではない。
日本の古人はシンメトリーを美としなかった。

ところで、私の緊張と恐怖は何処に行ったのか?

消去されたか、消失したか、移行したか、移動したか、消化したか、昇華したか、転用したか、転換したか、これらすべてか、そのどれかか、これらとはまた別の何かが生じたのか。
動いた、とはいえるだろうが、何処へ……。
(2019年3月12日執筆)

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