「繋がり」 ショート×ショート(2319文字)



あなたのおとうさんが亡くなって、もう三十年が経とうとしています。
 

あなたのおじいちゃんが明治から続けていた、福井市にある呉服屋を閉めるという決断をしたとき、わたしはまだ二十歳になったばかりでした。当時のわたしは、上京をしていて、大学で仏蘭西語を学んでいました。

同じ学内だったおとうさんと出逢ったのも、そのときのことです。

あなたが小さい頃に、並べて遊んでいたバルザックやユーゴの古びた重い書籍も、本当はすべて、わたしのものなのよ。周りの学友が喫茶店なんて洒落たデートをしている時に、おとうさんはいつだって、わたしにはさっぱり分からない鉄道を見に行くような、とても、つまらない男だったんですもの。デートなんて言葉を口にするのも、恥ずかしい時代でしたから、おとうさんは、あれがデートというものだなんて、心にも思ってなかったかもしれませんね。

いまでも、あなたの顔を見ると、金網越しに聞こえる汽笛の音が、わたしの頭のなかに響き渡ってきます。涼やかな目元で、あの人は、いつも鉄道を追いかけていたわ。どうしても似てしまうのね。あなたの目は、おとうさんの目とそっくりです。

おとうさんとわたしは、ごくごく自然に、お付き合いを始めました。実家の呉服屋も解体され、おじいちゃんが亡くなった年のことです。なんだか帰る場所を失った気がして、わたしはひどく恐ろしい心地になっていました。数年後に控えた五輪に向けて、息を吹き返していくこの国と裏腹に、わたしの心は深く、悲しみに包まれて、明日を生きてゆく渇望が、まったく湧き上がらなかったのです。

おとうさんは、そんなわたしの心を察してかは分からないけれど、鉄道を見に連れてってくれたわ。ただ物静かに、じっと、わたしの隣にいてくれたの。この国の鉄道はまだまだ、どこまでも伸びてゆく。最終を見送ると、最期に締めくくる。それがおとうさんの口癖でした。そう云う、おとうさんの瞳に、わたしは、きりりと深く光った鋭いものを感じていました。おとうさんが、養子であることを知ったのもこの頃のことです。

この人となら、わたしは、この街でも、生きていけるかもしれない。心からそんな風に感じはじめていたのです。

東京の下宿に、あなたのおばあちゃんから送られてくる縁談の写真には、旧家の呉服屋の御子息がずらりと並んでいました。母の頑なな願いを見て、わたしはとうとう覚悟を決めたのです。あの人を愛したい。あの人と、共に、生きてゆきたいと、強く思ったのです。まだ、若かったのね。恋愛結婚だなんて。それでも、わたしは、おとうさんを、確かに愛していました。


卒業と同時に、わたしはおとうさんと一緒になりました。おとうさんは、情熱のままに、国鉄に就職して、わたしは、そのまま夫を支えるために妻として生きたわ。おとうさんは、ずっと船舶事業の部署だったの。それでも、おとうさんは諦めなかったのね。あなたが、わたしの中にいると分かった年、念願だった鉄道業務への異動が叶ったの。いつも物静かに滅多に口を開かなかったあの人が、あのときだけは、子供のようにはしゃいで喜んでいたことを覚えています。


あなたが生まれた年。おとうさんは、いつの日か、涼やかな瞳で見続けた、あの鉄道を熱心に走らせていました。

わたしは、とても、とても、幸せだったわ。出産という痛みは、まったく経験のない大変なものだったけれど、新しく生まれてくるいのちに比べたら、そんなもの何でもないものだった。わたしは、あなたと、あの人と、共に生きていくと、そう信じ切っていたのです。

昭和六十二年の二月十二日、わたしはいつものように、炊事場に火を入れて、朝食の準備をすすめていました。ちょうどいまのような寒い冬の時分でした。窓から見える夜明け前の透き通った世界に、朝陽が昇ってゆく姿を、時折、今でも思い出します。けれども、その日は、いつもの時刻になっても、ちっともあの人が起きてこなかった。わたしはなんだか、ひどく、嫌な心地がして、あなたを背負ったまま、襖を開けました。そのまま、足元から掬われるような冷たい空気が流れ込んできたとき、わたしはなぜか知っていたような気がして、そこから動くことができなかった。背負っていたあなたの泣き声が、いつまでも、いつまでも、止まることはありませんでした。

わたしがはじめて死因を知ったのは、その日の午後のことです。掛り付けの先生のお話を聞いた時。以前より持病だった腰痛の件で、先生はお伺いしているのだとばかり、わたしは思っていたのですが、本題は腎臓の癌の方でした。あの時の医療技術では、手の施しようもない状態だったらしく、代わりに一日でも多く生き長らえるのが良しとされていた当時の延命治療も、おとうさんは頑なに拒んだらしいのです。この時ばかりは、わたしは、おとうさんを、ひどく恨みました。相談もなく、ただ痛みに耐え続けた、あの人に、どうしようもないくらいの、激しい怒りを覚えました。共に生きていくと決めたわたしの、たったひとりの愛した男だったからです。わたしが身体を震わせたまま、叫び問いかけた言葉を、先生はずっと黙って聞いておられました。わたしが涙を流し続ける中、先生はこう仰いました。



「子と妻の道を、繋ぐのは、わたししかいない。そう云って、力強く腕を掴まれた時、ひとりの男の、鬼気迫るような意志を変えるのは、私には到底難しかった」



先生は、そう苦しげに呟かれました。わたしには折をみて自分の口から話すと、固く、約束したのもつい先日のことのようでした。その二か月後に、国鉄は民営化されて、どんどんと事業を拡大していったのです。おとうさんは、ひょっとしたらその機会を、待っていたのかもしれません。ですが、病状は、先生が思っていたよりも、迅速に、おとうさんの身体を蝕んでいったようです。


鉄道を見送る、おとうさんの表情は今でも鮮明に思い出すことができます。はじめは、なんて、純粋な馬鹿な人なんだろうと、よく思ったものです。それでも、あの時、宿っていた瞳の中の光は、決してただ大好きな仕事だけじゃなく、わたしとあなたの人生も含まれていたのね。それが分かったのは、随分と後のことで、あなたがようやく、あなたの人生を生きようとした時のことだった。わたしは、その光だけを追い続けて、あなたを愛し、たったひとりで、あなたを育て続けてこられたに違いありません。






留守電を聞きました。


あなたの不安はどんな人でも抱えることよ。どんな時代でも。いつだって、決まりきった道なんてないのよ、きっと。

わたしは、あなたが家に連れてきた孝之さんを信じています。

だってね、あなたの瞳には強い光があるもの。わたしはあなた自身が決めた人だったら、どんな人だって信じているわ。それに、素敵じゃない。あんなに、自分の働いていることを誇りに思っている人も、今の時代には珍しいと思うわ。孝之さんのまっすぐな瞳に少しだけ、おとうさんを重ねてしまったの。わたしはやっぱりすこしロマンチストなのかもしれないわね。あなたにもこんなところが、やっぱり繋がっているのかしら。

いつだって、おかあさんは、あなたを信じています。

それはきっとおとうさんもそう。





あなたの進む道を、あなたの信じる人と、進みなさい。



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