「止まるな」 ショート×ショート(1397文字)




目の前の男の口は動き続けている。




身に纏う服に出来た大きな傷のような裂け目から、男の肌が陽光の下に差し出された。浅黒い、沈むような色だった。男の肌は汚れ切っている。元々は健康的な褐色をしていたのかもしれないが、今となってはもう分からない。恐らくは凛々しいはずだった顔立ちも、刻み込まれた深い皺と、無精に伸ばされた髭に隠されている。


男の口は動き続けている。ぶつぶつと。

まるで、何かを伝えようかとしているようだった。


驚くことはない。なんてことのない、東京の姿だ。

平日の昼間、熱く照らされたアスファルトから逃げるように、男は地下鉄の地上口の日陰に、座り込んでいた。


歩く人々は、歩みを止めない。


耳元に当てた電話で離れた人間と話しながら歩いていくサラリーマン、聞き取れない言葉を喋る外国人、学校をさぼって遊んでいる大学生。流れは滑らかで、ゆったりと移ろってゆく。男の周りにはまるで見えない溝ができているみたいだった。川の流れに埋め込まれた大きな岩のように、人々は男を避けて流れていく。暑さのせいもあるのだろう。男からは強烈なニオイがするはずだった。


男の口は動き続けている。


なぜ、僕はこうして、あの男を見ているのだろうか。シャツが微かに汗ばんで、首元に吸い付いているのが分かった。僕はいつからここにいるのだろう。右手に持った鞄の重みが、ずっしりと僕にやるべきことを教えてくれるようだった。約束の商談の時間はもう近い。それでも、僕はあの男を見続けている。


突然、男が僕を見た気がした。充血しきった眼球が、僕を捉える。思わず、目を伏せてしまう。何を焦っているんだ。そんなはずはない。顔をあげると、目が眩むような、突き刺す陽の光が僕の視界を真っ白に包み込んだ。


週末は、神戸にいる向こうの親に挨拶に行く予定だ。会社の先輩に連れられた合コンで知り合った女だった。気立ての良い女だった。初デートは横浜。土曜日の海沿いの公園を僕等は歩いた。彼女は、僕の半歩後ろを歩いていた。僕の周りの友人達はほとんど結婚していた。首筋を流れていく汗が、僕から体温を奪っていく。


胸元の社用携帯が震えていた。映し出されたのは部下の名前だった。めんどうな商談相手が提示してきた額についての相談だろう。僕はこれに出なければならない。指示を出さなければならない。身体は重く、決して通話のボタンを押すことはなかった。


気が付くと、視界には、色が戻っていた。


あの男は消えていた。


元々、そこにいたのかどうかも分からなかった。人の流れは止まらない。目的を持って歩いている人々の流れはまだ止まらない。男が座っていた場所も、今は人が流れ込むようにして、動き続けている。陽の熱が地面から僕に伝わってくる。蜃気楼がビル群を浮かび上がらせて、視界が歪んでいる。熱せられたアスファルトが妙に気持ち悪かった。


すぐ近くを女の二人組が怪訝そうにこちらを見て何か呟いていった。


「何かゆってる、ははっ」


その女の軽やかに響く笑い声に、僕は急激に恐ろしくなった。今にも叫びだしそうな、身体を犯すような恐怖だった。汗が胸元から流れ落ちていく。鞄を持っていた掌に力が戻っていくのを感じた。


ここがどこなのか。それさえもわからなかった。それでも、僕の足は動き始める。意志とは無関係だ。



なんてことはない。


ただ、逃れるために、入り交じるしかないのだろう。







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