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遠ざかったヤマアラシに肩を預けるように。

私には幼少期から続いている友人がいる。中学まで同じ進路で、中学高校は塾が一緒だった。
二度の受験期を乗り越えた仲だから、というわけではないが、未だに仲がいい。

昨日、久々に彼と会って食事をした。
私は友人と会うと途端に喋りがちになる。ただ、喋る内容は友達によって様々な気がする。
趣味の話がメインか、恋愛相談か、人生相談か……世間話はどこでもするけど、所属するコミュニティが違えば、世間話の内容も変わってくる。それが人と人との関係なんだろう。

私が幼馴染の彼と話すときは、人生相談になりがちだ。
相談をするとき、私は「共感寄りのものが欲しい」ときなのか、「自分とはまったく違う思想の意見が欲しい」ときなのかを考える。そして、「共感寄り」の場合は不特定多数の友人と飲んでいるときに話のタネにする。(もちろん、その場に合った話題選びをしたうえで、だ)
しかし、「自分とはまったく違う思想」を選ぶ場合、その相談は結構、私の中で深刻度が高い問題である確率が高い。

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最近、人の目を気にすることが増えてきた。

『会社』という、学生時代と比べて縦と横の広がりが膨大過ぎる社会に触れることで、その癖が磨かれてしまった。

オレオレで全てが上手くいくわけではないし、そういう自分勝手でいい気持ちになるのは自分だけだ。

学生時代まで、ソロプレイバンザイ、協調性皆無だった私はこの環境に適応するのが難しかった。

相手に合わせることは難しいことではない。

でも、相手の行動・発言の行間を読むのはあまり上手くなかった。

特にテキストベースでのやり取りが増えたことで、相手の抱いている感情を読み取ることが一層難しくなった。

私は過剰に周りを気にするようになった。

発言の1つ1つを気軽に投稿できなくなったし、人の目を見るのが恐ろしくなった。人の目を見ることはもっとずっと前から苦手だったけれど。

窮屈な思いを感じる一方、会社の人たちはいい人ばかりで、何度も助けられた。どうしてこんなに優しいんだよ、ってシンエヴァのシンジ君みたいなことを嘆きたくなることばかりだった。

……この現象は仕事だけに収まらず、普段の生活にも侵食してきた。

書き出したツイートを、投稿する前に全部消してしまうことは増えた。

身近な人に対しても自分の本心を打ち明けるのが難しくなっていた。

他人への信用度が下がっている、よりは、自分への信頼度が地に落ちているので、自分が信じた他人すらも信じられない、というイメージが近い。

自分を信じてあげられるのは自分しかいないのに。

そして、いつしか、『他人を好きになる自分』を許せなくなっていた。自分の幸せな身勝手に付き合わせることに罪悪感を抱き始めた。他人を好きになることは簡単だ。私は自分から開示するのが下手なくせに、相手から自己開示されたらスルスルと懐いてしまうような人間だ。おまけに面食い。

今まではそれで良かった。だって、自分のことしか考えていなかったから。

でも、いざ周りのことを考えてしまったら、相手のことを考えてしまったら。私は自分の中にある『好かれたい』欲を必死でぶん殴るようになった。

嫌われたくないという気持ちはあるのに、好かれたいは許せなかった。自分が他人を好きになることを許せなくなっていった。

夜、床に就いて目を閉じる。
焼香の前に誰一人寄ってこない小さな祭壇がある。
遺影なんて大層なものはなくて、花、赤い彼岸花が一本、差された花瓶があるだけ。
目を開く。眠れなくなる。繰り返す。

孤独に弱いのに、他人の熱で暖をとることが許されない。

板挟みになって悶々としているうちに疲れて、眠りに落ちる。

けれど、夢を見てしまう。夢を見るってことは眠りが浅いということだ。

そんな繰り返しで、仕事にも支障をきたしそうな、ギリギリな現状だった。

そんななかでの、幼馴染との食事会。時勢もあり、あまり長くは語らなかったけれど、私にとっては大事な数時間だった。

彼は卑屈さの中に強い我を持った人間で、簡単には揺らがない頑固なところがあった。「自分が楽しいと思うことを選ぶ」タイプ。今の、人の目を気にし過ぎな私と正反対にあって、かつての自分本意な自分とシンパシーがある人間だ。

彼は、考えても無駄だろってことを言ってくれた。考えても無駄なことは分かっている。他人が何を考えているのかなんて完全にわからないし、ぶっちゃけ1%も分かりあえないときだってある。

ただ、それだけではない。彼は続ける。

「お前は真面目で、色々考えすぎる。俺にはないそういうところがいいところではあるけど、全部自分の努力でどうにかなるわけないんだから、諦めるときは諦めればいい」

この言葉は、彼じゃないと出てこないだろうし、彼の言葉じゃないと、響かなかったように思う。

私は自罰的に考えがちだ。

事あるごとに自分のせいなのでは、と思い込んでしまう。

その思想は自己犠牲の精神の塊だが、裏を返せば、「なんでも自分のせいにすればいい」という思考放棄であり、「自分が努力すれば全部うまくいく」という高慢さを示しているともとれる。

おまけに諦めるということが苦手だった。自分の力でどうにもできないことがあることが嫌だった。図々しい性格をしていると思う。

自分の力でどうにかできる範囲は、個人的な範囲に留まる。

全員が全員、ヒーローにはなれない。

英雄願望を満たそうとしても、それによる行動がかえって悲劇を生むことだってあるし、その確率の方が高いかもしれない。

あくまで願望、個人的な欲でしかないのだ。いいヤツでいたいという願い。嫌われたくないという気持ちの押しつけ。

考えすぎるのも、考えものらしい。

彼の言葉を噛み砕いていたら、悩みが晴れた気がする。

話していた内容が響いたのはもちろんだけど、話す相手が彼だったのが良かった。話の説得力は内容もさながら、話す相手にも左右されるのだろう。私たちは思想が両極端だ。ゆえにこそ、違った穿ち方に突破口を見つけることができるのかもしれない。彼は、ウジウジの元をアッパーカットで振り払ってくれた。ありがとう。

ひとまず、心が軽いうちに、自分を信じてみることを再開してみる。
肩の力は入れすぎずに、相手を信じるために、ちょっとだけ身体をぬくもりの方へ傾ける。


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