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日報『ブルーバード・シンドローム』_20240304

○やったこと

  • 読書『存在の耐えられない軽さ』/ミラン・クンデラ -49p(『第Ⅰ部 軽さと重さ』読了)

  • 二次創作物・アイデア出し 15min程度

○所感

生徒は誰でも、物理の時間にある学問上の仮説が正しいかどうかを確かめるために実験をすることが可能である。しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を実験で確かめるいかなる可能性を持たず、従って自分の感情に従うべきか否かを知ることがないのである。

『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ

昨日に引き続き『存在の耐えられない軽さ』を読み進めていたところ、上述の引用部と遭遇し、いやに刺さった感触があったので抜き出してみることにした。僕はこのフレーズから『青い鳥症候群』という心理用語を思い出した。

『青い鳥症候群』というのは、例えば、『今付き合っている相手よりもっといい人が見つかるはずだ』だったり、『今勤めている職場よりもっと待遇がいいところはあるはずだ』などと現実を直視せず、無根拠に理想を語ってしまう人たちのことを指す通俗的な呼称だ。

いい歳した大人がなに夢語ってるんだよ、現実も見れないのに理想ばっか語るなよ、と言いたげなフレーズである。夢を語るのは悪くないが、無謀で無計画な夢想は、荒唐無稽な夢物語の枠から出ることはない。夢を見たって腹は膨れない、と言えるようになってしまった自分は果たして大人になったのか。大人になるってことは、引き際を弁えるようになる、ということなのかもしれない。諦めることが全てではないんだろうけれど。

日常に引き際がポップしてくる。布団から出られないことを理由に、文章を書かなくなったり、仕事が忙しいことを理由に、かつて好きだったコンテンツに触れなくなったり。熱狂できない自分が、時に、不相応な夢を語っている人間を羨んでいることに気づいて、自罰的になる。時間ができたから楽しむ、ではなく、楽しむ時間は能動的に作るものなのだ、と大学時代の同期が言っていたのがずっと頭に焼き付いている。なんもかんも楽しめなくなっていくような自分に釘を刺している。

現実に対して及び腰になっている。
そんな自分にとって、『青い鳥症候群』を患っている夢想家はある種、憧れとして映る。根拠がなくとも、自分を信じることができる。飛ぼうとすることができる。その、純然で無垢な野心に目が焼けそうになる。

もちろん理屈とか論理とか、あるいは計算とか、後先を予測してリスクヘッジを取ることは利益の最大化に繋がるんだろうし、生き続けるために進捗になるのは、生命として種として当然の摂理なのかもしれない。それに、明日の無根拠で破綻した未来を見据えていたら、目の前の青い鳥を踏みつけてしまうかもしれない。『いつの時点の幸福が最大なのか』なんて、結果を前にしてはじめて手に入る答えでしかない。目抜通りと小道の違いは、歩き続けているうちは知り得ないものなのだろう。振り返って、その煌びやかさに驚かされる。逆もまた然り。

社会人になって、もうすでに何人もの先輩や後輩、同期が仕事を辞める場に立ち会った。彼らの行く道はさまざまで、けれど、明日を指向している。なかには青い鳥を探している人もいるのかもしれないけれど、何かを失う覚悟をして、知らない世界に飛び込んでいく人からエネルギーを貰うことは多い。

何かを得るには何かを失うこともある。全てを手に入れるのは難しいから、折り合いをつけていく。何も失わないという選択肢が何も生まないなんてこともざらにある、ということを最近は痛いほど感じている。痛みや喪失を我が物にして、それでも呼吸をし続ける。サンドボックスは現れず、ただ綱渡りのような生が続いている。せめて、痛みを知ったその人の肩に、青い鳥が止まってくれることを願っている。

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