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半月以上、筋トレと毎日noteを継続して分かった学ばせてくれる環境の有り難さ

うだるような暑さ、というわけではないが、空気が湿っぽいだけで、微かに涼しい風が吹いたとしても籠もった熱は冷めなかった。
しかし、いてもたってもいられない暑さではないから、なんとなくエアコンを付けずに過ごしている。
夜風があれば、少しマシなのに。夏はもっと、涼しくするよう企業努力をしてほしい。

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努力といえば。
筋トレをしはじめて、16日が経過した。
半月分のスクワットはあわせて500回を超える。
1日30回と少しでも、数にしてみると相当だ。
変わったことはほんの些細な体力の変化だ。
残業1時間後、半月前の私は、帰りの電車で本を読むこともなく爆睡をしていた。
今日は違った。眠くなることなく、本を読むことができた。
眠気に耐えているわけでもなく、眠くて本の内容が頭に入ってこない、ということもなかった。
(それはきっと、読んでいた『サマー/タイム/トラベラー』が面白かったことも一因なんだろうけど)
『サマー/タイム/トラベラー』は、小さな田舎町、閉鎖的な社会の中に生きる『時を移動することができる』少女と、その友人たちのひと夏の思い出を綴った物語だ。タイトルの通り、まさに夏っぽい話。『田舎』の情景は、故郷を思い起こさせるエモーショナルさを孕んでいる。が、田舎暮らしの人間にとって、その情景は思い出のまま押し花にしておきたいってこともある。それは往々にして、『田舎』という閉鎖的な社会への不満が原因になっていることがある。私は創作物における生々しい『田舎』社会の描写が好きだ。噂は一晩のうちに街中を駆け巡るし、疑わしい者には村八分。閉鎖された街を取り仕切る名家、医者、要は金持ちたち。庶民と金持ちの隔たりと、金持ちによって繰り広げられる上辺の民主政治(笑)。そのどの要素も愚かしくて、しかし、どこか懐かしく感じるのはなぜだろう。戻りたくはないけど、田舎で育った『あの頃』の記憶は残しておきたくなる。教訓めいた、衆愚の政治。井の中の蛙村。『サマーウォーズ』『氷菓』あるいは『水野と茶山』のような、エモーショナルな田舎の情景と生々しい田舎社会のギャップに良さを感じる。
輝いてみえるものだけが全てではなく、不純物が含まれることで一層きらめきを放つダイヤモンドってあるのかもな、そういう話だ。
あと、青春に後悔は憑き物であってほしい。付き物ではなく、憑き物で。呪いのような青春に生かされる命でありたい。

さて、継続は力なり、というのは文章においても当然適用される格言だ。
文章力が跳ね上がった、かもしれないけれど、実感はないし、村上春樹の文章を読んでいれば、木っ端の希望もさらさら流れていく。
それでも、書く習慣は身に付き始めたのかもしれない。予感だ。確信できるほど、私は私のことを信用していない。
たかが23日続けただけ。人生の一片くらいの努力だ。
それでも私にとっては大した進歩で、仕事、仕事、仕事の灰色パズルピースで埋められた日常は文章化することで、徐々に色味を帯びてきた。
最初のうちは書かなければいけない、という強迫観念が募って、何もひねり出せなかったけれど、
ここ数日は、いたって自然体の文章を綴っている。
呼吸するように、会話をするように、好きなものとか、自分の考えを発信できている、気がする。
書く習慣が芽生え、体力が少しずつついてきたおかげで、新しい小説のアイデアも出し始めた。
パソコンで文章を打ち込んだり、時にはコピー用紙の両面に創作のアイデアを書き連ねたりしていると、何度だって確信できる。
私は、物語を書くことが何よりも好きだということ。自分に自信がなくても、このことだけは確信できる。

でも、一人で全部できるってわけではない。そんなの絶対無理だ。
noteを継続できたことだけじゃない。
この『書くのが好き』という気持ちに改めて触れることができたのも、自分だけで得た成果ではない。
友人や知り合った方々からたくさんの些細なことを教わったから、ここに成果として刻まれているのだ。
書いていくうちに、たくさんのことを学ぶことができた。学ばせていただいた。
ゆえに明日も、私は周りに感謝をしながら、もっと文章を書いていく。

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