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タイでストリートチルドレンを見た話

2019年1月

私はタイの首都バンコクに1人で旅に出た。

アジアの雑貨が好きで始めた一人旅。

このときもかわいい雑貨に出会うための
楽しい旅行…のはずが

帰国後の私の心はすごく重かった。


滞在中、バンコク市内で、
生まれて初めて
ストリートチルドレンと呼ばれる子たち
を見たからだ。

世界にはそんな子もいるということは
頭ではわかっていたけど
実際に目の当たりにすると
とてもとても
重く、つらく、苦しい気持ちになった。


ホテルに向かって歩いていたとき、
駅前に髪の長い女の子が座っているのを
遠目に発見。
近づいていくと
その隣に上半身裸の男の子が寝ている。

さらに通り過ぎるとき、
その男の子のお腹の上で
赤ちゃんが寝ているのを見た。


私はどうしたらいいのかわからず。
通り過ぎただけで何もしなかった
(できなかった。)。


お金を渡しても一時的に満たされるだけで
問題解決(彼らがその状況から脱出すること)
にはならない。

問題解決にはならなくても、
たとえ一時的にでも、
あの子たちが満たされた方がいいのでは?


お金を渡したって
それがどう使われるかわからない。
(たとえば「食べ物を買って
お腹を満たしてほしい」は
こちらの勝手な望みだし、
そのお金は悪い人間に渡ってしまうかも
しれない。)

もしかしたら路上生活自体が
パフォーマンスかもしれない。


自分は何ができるのか。
どうしたらいいんだろう。


いろんな考えが巡る中、
一番強烈に思ったのは

「私、親のこと嫌ってるけど、
なんやかんや
学校に行かせてもらってるやん。」

だった。


路上生活の彼らに
一方的にお金や物を渡し続けても
彼らの自活に繋げることはきっと難しい。
自活していくには職業訓練とか、
そのための文字の読み書きとか、
そのレベルでの教育が
きっとどこかで必要になるだろう。


私はどんなに親を憎もうと恨もうと、
普通に教育を受けて、
大学まで出してもらっている。
その意味で彼らとはまったく違う。

皮肉だけど初めて親に心から感謝した。


帰国後、友人に話すと
「何と比べてるん?」と
笑われてしまったけど
本当にそう思った。

だから親に感謝しようね!とか
学校は素晴らしいよ!とか
そんなことが言いたいのではなく
ただただ自分の小ささや
いかに恵まれた環境で
不満を垂れているかを知ったということ。


先日、
とあるフェアトレードショップ
(帰国後、本を読む中で
フェアトレードというものを知り
たどり着いた。)
にお邪魔した際、店主さんが

「世の中にはそんな人たちもいるのに
私は毎日楽しくして、
笑ってビールを飲んで、
申し訳ないような気持ちになることも
あったけど
私は私にできることをするしかない。」

とおっしゃっていて、
本当にそのとおりだと思った。


タイからの帰国後、
仕事をしていても何をしていても
彼らのことで頭がいっぱいになって、
冗談を言ってへらへらと笑ったり、
飲み会を楽しんだり、
そこで些細な不満を漏らしたり、
まして自分たちで注文した食べ物を
食べきれず残したりすることに対して

「こんなことしてていいの?」
「今もどこかで
悲しい思いをしている人がいるのに
自分が笑ってるなんて。」
と、

半年くらい
もやもやや怒りや悲しい気持ちが
止まらなかった。


「あの子たちは今何をしているんだろう?」

今すぐに助けたいと思ったって、
いきなりすごいこと
(たとえば、貧困を無くすこと)はできない。

いきなり現地に飛んで行くのも
現実的でない。

そうすると、
結局は手の届くところからやるしかない。
自分は自分の時間を懸命に生きるしかない。

今はそのとおりだと思っているけど、
当時の私にはそれがとてももどかしかった。
(結果として、
私は現地で活動している団体を
応援することを選んだ。)


あと、気づいたことが、

私は勝手に彼らを不幸だと
決めつけているということ。

彼らの気持ちは彼らにしかわからない。
彼らは不幸なのか?
彼らの世界には
彼らの幸せがあるかもしれない。
(誰かの手によって、
より幸せになる可能性があるのは
私たちも同じ。)

日本で育った私たちは(あえて私たち)、
物質的には彼らより豊かだろうけど
幸せでないと口にする人もいるし、
失礼だけど
かなりしんどそうに見える人もいる。

彼らと私たちのどちらが幸せかなんて
誰にもわからない。

かと言って、彼らがあの状況のままでいい
というわけではない。

あの状況を脱するには
彼らの力だけではきっと難しい。

誰かが手を差し伸べて
あの状況から彼らを引き上げることが
きっと必要だろう。


などなど、
考えれば考えるほど今でももやもやとする。

言えることは、
このもやもやした気持ちも
大切にしたいということ。

状況に対してきちんともやもやして、
きちんと悲しめる人でいたいということ。


できれば、
手を差し伸べることに関心を寄せ、
微力であっても力添えができる人でいたい
ということである。


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