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BL作家-3 きっかけ

【コンテンツ】
1 着火
2 区切り

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 美留香との出会いは、衝撃的といえば衝撃的だった。仕事帰りに駅前のTSUTAYA書店で次に読む小説を物色している時のことだった。書店の賑わいは時代の波に沖まで流され、とうに盛りを過ぎている。慌ただしい毎日を過ごしていると、TSUTAYAといえども人足を止めきれない、だからこそ得られる都会に現れ出でる閑散のオアシスが心の駆け込み寺になってくる。新刊コーナーでページをめくっていても、気遣いを誘発する見知らぬ同胞さえ現れない。
 凪良ゆうの新刊かぁ。これでいいか。前の作品も読んでいるし、何より自分が優しくなれる。好んで就いた中間管理職ではなかったが、部下の調整と上司の手綱捌きで少々神経が毛羽先だっていたこともあって、刺激物は避けたかった。
 書籍を手にとってレジに向かおうとした刹那、奥の書棚でたまたまトートに本を入れる女を見た。見たような気がしただけかもしれない。入れたとすれば万引きだったが、これまで実物を見たことがない私は、疑わしきは罰せずという言葉を思い出していた。犯罪は犯罪だが、目の錯覚だったなら、私のほうが罪を背負うことになる。レジでお金を払うかもしれないし、少し様子を見ることにした。
 女は、本を入れただろうトートをまさぐりはじめ、分厚い財布を取り出した。ブランドまではわからなかったが、高級そうなピンクの財布。
 本は買われることになると思った。もし、トートに本を入れたのであれば。
 だが女は財布の中身を確かめると、そのまま扉に向かい外に出ていってしまった。
 金、足りなかったのか?
 間抜けなことを考えてしまった。
 追うべきか、放っておくべきか。今ここで問題の種の殻をかち割れば、店員が慌ただしくなり警察が来て、悪いことをしていない私まであれやこれやと調べられてしまうことになる。
 家で翌日の準備をしなければならない私は、自分で決着をつけようと決めた。そうでもしなければ、社会の仕組みという不躾な手続き数々が、貴重な私時間にずけずけと上がり込んでくることになる。
 自分で解決すれば、私と彼女との時間だけで問題の炎を鎮火させることも可能になる。
 彼女が本を盗った、かもしれない書棚は宇宙サイエンスのコーナーだったことが関係していた。私の憧れを踏み躙られた想いが混じっていた。それと同時に、万引きと宇宙サイエンスのつながりに納得できなかったこともある。

「これ、ください」
 私は新刊分に加えて、彼女が盗った、かもしれない書籍分のおおよその金額を渡して、「問題にはしないでください」と口走っていた。口走ると同時に店を出た。
「あのぉ〜」事情をわかっていない店員が、ヒョロヒョロとした体に輪をかけたようなヒョロヒョロの手を、レジの内側から伸ばしてきた。
 私は店員につかまるわけにはいかなかった。躊躇いなく払うと、追っ手はぺちゃんとへこたれた。
 そして、女を追った。

「あの」
 女に追いつき声をかけると、女は角の取れた丸い笑顔を私に注いだ。

 あれが始まりだった。

 男の子の片割れを回収したイフは、NICUをひとまわり小さくした集中治療無菌室で彼の回復を待った。翼を出現させる力も、獣の姿でいることもできなくなった彼は、裸のまま人工呼吸器で沈んだ川底が波打つような絶え絶えの息を繰り返しているだけだった。空気を吸い込む彼の肺は重く、吸った息は直後にすべてが押し出される。それから、倒れたランナーが立ち上がり、やっとのことで歩を踏み出すように次の息が繰り出される。心拍の間隔が異様に長いことをモニターが伝えていた。
「だいじょうぶだから」
 NICUで引き取りそうな息の彼を覗き込んでいるもうひとりの男の子にイフは声をかけた。男の子はNICUの筐体にこわれんばかりに自分の体を押し当てて、涙を流していた。悲嘆を極めた心は皮膚を朱く染め、筋肉を強張らせている。手のひらほどしかない躯体のお尻だけが妙に生々しかった。

 翌日の段取り作業に手間取ったせいで、今日の作稿は思うようにはかどらなかった。美留香との出会いを暗示する内容にしたかったのだが、仔細を描き切るには考える時間が足りなかった。
 記録を暗号化することで、思い出を公的文書として永続性を保とうとしたわけではない。フィクションに真実味を加えるため、現実の要素を切り取って貼り付けようとしただけだ。
 それでも、2人の秘密は2人だけの秘密であってほしいと思うと同時に、こっそり公言してみたい衝動に駆られることがある。
 私にはまだこれが実らぬ恋なのか、獲得すべき愛なのかの見極めができていなかった。それでも彼女を愛した事実は肯定されるべきだと考えていた。他人に何を言われようと、どんな目で見られようとも。

 あれから3日経つ。美留香からの連絡はない。こうしたインターバルが続いても、ある日ひょっこり連絡をくれることもあれば、音沙汰なしの沈黙を貫かれることもあった。判断は、美留香の気分に委ねられている。
 私はそれでよかった。週末になれば彼女はここに戻ってくる。今は私が彼女にとって帰る場所であればいい。2人の歩む2人の道はそれほど多岐にはわたってさいないし、愛して、愛されて、そのような行為の堆積がもたらす至極シンプルな道行き。
 その道行きで踏みしめていく2人の未来は、まだ見えていない。だけど踏みしめ地ならしをしなければ先が見えないこともまた変えようのない事実に思われた。
 私はヤジロベエの真ん中で、右にも行けず、左にも行けず、ゆらりゆらりと揺れている。
 間に合わなくなる前に、道筋をつけておかなければならない。

〈第3話 終わり 続く〉




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