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物は見える。見えない事を整頓するためには見える物から手をつける。

なんとなく、行き詰まる日がある、今日はなぜか物を落とすな、朝ごはんの時に納豆の粒を落とし、箸を一本床へ落とす、箸からは納豆の糸(これが旨味なのだけど)が机から床にのび、歯を磨けばタオル掛けに小指をぶつけ、そのままトイレに向かえば壁の角に同じ指をぶつける。寝る前ならともかく、朝からこうなるともう、1日を呪ってしまうのです。

さて、わたしが物と向き合い始めたきっかけは7、8年前、とある大きなイベント(フリーマーケット)出店時、忘れもしない「物と人の念」を体で感じ取ってしまったこと。偶然にもとてもよい区画にあてられ、人の流れも良く、想像よりずっと多くのわたしの不用品は他のだれかの所有物となっていきました、第2の人生を歩み始めたのです。なんだか、よい響きでもありますが、簡単に喜ぶ話でもありません。購入してくれたかたたちの表情、対価、主人に不要とレッテルを貼られた物たちの想い。大きな会場は色々な念で溢れかえっていました。出店後、わたしは体調を崩したのです、会場の空気を吸いすぎたのだと後になって考えました。

購入されず、わたしの家に戻ってきた物たち…全て一つ残らず処分しました。実際、全て処分して困ったものは一つとしてありません。わたしと共に時間を過ごしてきた物たち、ありがとう。

その後の半年間で、家中の物をみて、「ただあるだけの物」を捨てる、を行い、家には空間ができました。物がなくなる事で生まれた空間は、ただの空間ではなく、わたしに考える時間を与えてくれました。空間から得るモノって意味不明ですが、そこに物があったとしたら、思考はその分だけ少なかったかもしれません。

パッションの次が思考、思考からのパッションにはとても注意が必要で、パッションのみあるいは、思考のみで動く時は用心極まりなく、逆にパッションと思考のバランスが取れた状態がとても重要で、心地よく、心地よいということはわたしを構成している全ての物(見えない物含む)に炎症が無いということ。炎症は全ての乱れで、きっとまた壁の角で小指をぶつけるのでしょう。

こうしている今、この時、わたしの周りの構成物の振動が良い波動を生むことを意識して、、、大きく一呼吸を。