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春暁の偽者たち


「春って苦いよね」
 タケノコの天ぷらを食べた千紗が言った。啓太はふきのとうの天ぷらを取ってひと噛みすると、安い油がじゅわっと口に広がった後、追うようにして山菜の苦味がやってくるのを感じて、
「苦い」
と答えた。
 千紗が手に持つピンク色に淡く濁ったサワーの色が、唇の色と同化する。千紗は薄めの唇を流行りの強い赤には塗らず、自然なピンク色に抑えており、啓太は好感を持った。
「あっ、おいしい」
 サワーを眺めながら千紗が言った。啓太は、マツエクでこれまた控えめに縁取られた、二重で幅の狭い目も、可愛らしくて好きである。肌は白玉のように白く、艶やか。
「桜の味するの?」
 問いかけられた千紗は、啓太の目を掴まえるように見つめながら
「うん。飲む?」
と返し、返答を待たずにグラスを差し出した。啓太はキツい香料と若干の甘みしか感じなかったが、千紗に合わせるようにして、
「おいしいね」
と言った。
「でしょ?」
 千紗はずっと啓太の目を見つめている。
 啓太は、間接キスだ、と思った。さっきまで千紗とキスをしていたのに。
 ガヤガヤと人のたむろうチェーンの居酒屋で、二人は錯覚のような夜を過ごしていた。
 
 先に惚れたのは千紗の方だった。
 昼は介護職、夜はセクキャバで働く千紗と、サラリーマンの啓太が出会ったのはおよそ二か月前。千紗が、薄暗い店内で見たフリー客である啓太の顔に一目惚れをした。一重の小さな目にかかる重たい前髪。骨ばった大きな鼻。
「こんばんは、はじめまして」
と会話もそこそこに触れた厚くて柔らかい唇。
「オガセに似てるって言われない?」
 千紗の好きな歌手らしいが、啓太は知らなかった。
「オガセっぽくてかっこいい」
 啓太はいくら営業トークだと分かっていても、心が踊った。昔からイケメンと言われてこなかったために、外見を褒められると反射的に満たされてしまうのだ。
 一方千紗は、本当に啓太をオガセのようだと思っていたし、むしろ啓太の方がかっこいいとすら思っていた。以来、千紗は啓太のことを「オガセくん」と呼ぶようになった。
 心底の思いが伝わったのか、或いは千紗のサービスが良かったのか、啓太はそれから週に一度、店に通っては千紗を指名した。千紗は肉付きが良く、ともすればぽっちゃりと分類されるような女だが、そういう女が醸す独特の愛敬が啓太は好きだった。何度目かの来店でLINEを交換。「まつゆみ」という登録名から本名を想像したり、アイコンに映る友人二人は千紗の夜職を知っているのかと考えてみたり。源氏名でしか知らない千紗の奥を見た気がした。それでも啓太は名前に触れず、「千紗ちゃん」と呼び続けている。
 啓太はセクキャバの客には珍しく、かなり控えめである。土地柄中年の多い千紗の店では、積極的、と言えば聞こえはいいが、過剰なサービスを要求する客が少なくない。禁止されている下腹部へのタッチをしようとしてきたり、千紗の手を掴んで自らのボクサーパンツの中に導こうとしたり。本当に嫌気が差し、千紗は苦痛に支配される。客につく二十分が早く過ぎてくれないかと、キスをしながら自分の舌を秒針に見立てて、時計回りにぐるぐると回す。そんな千紗なのだが、サービスが良好として、二十代も半ばを過ぎてはいるものの、かなりの人気嬢である。
 その点、啓太は千紗のサービスを大人しく受け入れる。遊び慣れていないためなのか、楽しくないのか、千紗には本意が読み取れない。しかし、そういう啓太に対して千紗は逆に燃え、積極的になる。
 でも、今日の啓太は違った、ソファに背を付けず、前のめりにキスをしてきたのだ。
「今日この後、何時までいるの?」
 いつもより激しいキスの後、啓太がこちらの目を見ずにそう言った時、千紗は子宮がきゅっとなるのを感じた。
「今日は十時には上がるよ」
「その後は?」
 んー、と悩む素振りを見せた後で、大音量で流れる店内BGMから逃れるように耳元に口を寄せて、
「家帰るだけだけど、飲みに行ったりする?」
と言ってみた。
「うん」
と返した啓太に千紗は舞い上がった。結局は自分の方から誘った形になったことに違和感はあったが、
「やった!」
と自然に声が出ていた。
「じゃ、京成の方の前で待ってて」
「OK」
 そう言った啓太の口に、今度はゆっくりと時が流れるように口づけをした。

 散々キスしていたはずなのに、明るい居酒屋で千紗のグラスに自分も口を付けるのは面映ゆかった。
「オガセくん、桜好き?」
「子供の頃って正直花見の良さって全然分からなかったけど、最近ようやく好きになってきたんだよね。花眺めて、綺麗だなとか、春っていいなとか」
「へぇ、いいよね、桜」
「千紗ちゃんも好き?」
「私も好きだよ。何で好きか分かる?」
 また千紗は、啓太の瞳を掴むようにして言った。それは付き合っている彼女と互いの愛を確かめ合っているかのようで、啓太は心を浮かばせながら、
「綺麗だからじゃないの?」
と言うと、まだ目を掴まえたままの千紗は、
「嘘ついてるとこかな」
と続けた。
「え、嘘?」
「あと、毒があるとこ。でも、綺麗な所も好きだよ」
 一連の会話の間、仮面のように表情を変えない千紗。あえて「嘘」や「毒」と強い言葉を言うことで、啓太がどのような反応をするか、努めて自分の表情を変えないようにしながら観察していた。
「ちょっと整理しよう。まず嘘って何?」
「これ。桜のお酒。これが嘘」
「あぁ……桜使ってないってこと?」
「桜味って、桜の葉っぱの香りなの」
「そうなんだ」
「なのにピンクに着色して、この味が私ですって花びらが威張ってるみたいで好き」
「意地悪だなぁ」
「オガセくんには負けるよ」
 啓太は、それは桜味の食品の話で、桜そのものとは関係ない気がしたが、下手に突いて千紗の機嫌を損ねては、せっかく外で飲めているのに今晩懇ろになることが出来ないと踏み、もう一つの疑問に移った。
「桜って毒あるの?」
「うん。葉っぱにね」
「へぇ、知らなかった」
「人間が食べても大丈夫なくらいすっごい微量なんだけどね」
「それが好きっていうのは?昔ムカついた彼氏でも毒殺したの?」
「毒は使ってないよ」
「毒は、って」
 千紗が箸を開いて大きな厚焼き玉子の端をぷつりと切り自分の小皿に乗せると、さらにもう一度一口大に箸を入れ、口に運んだ。啓太は千紗が箸を入れた側に箸を入れて同じくらいの大きさに切ると、そのまま口に運び、間接キスだ、と思った。厚焼き玉子から二人を空間ごと抱きしめるように湯気が立ち上る。

 千紗は優秀だった。小中高では平均以上の成績を残し、吹奏楽部でもパートリーダーを務めるほど周りからの信頼もある。しかし昔から肉付きの良い方で見た目には自信がなく、自ずと性格も控えめになったために、自他ともに認める地味な学生であった。
 大学生になると塾講師のアルバイトを始めた。持ち前の器用さでそつなくこなし、全員とまではいかないが、英語の成績が上昇する生徒は多かった。三月、受験の終わった生徒たちが塾に来る最後の日に、彼らから手紙をもらったり、一緒に写真をお願いされたりするのがたまらなく嬉しかったのだが、その後ろでひっそり塾長にお礼を告げて帰る女生徒に自分を見た。吉田里枝。あの子は私だ。
 周囲の、勉強や運動や演奏の能力が大して変わらない同級生達が、ただ社交性があるというだけで先生と仲良くしているのが羨ましくてしょうがなかった。先生と連絡先を交換し、今でも年賀状のやり取りをしたり、飲み会や旅行に行ったりしているという話を聞く度、たゆたう惨めさと、渦を巻く嫉妬に溺れ死んでしまいそうになる。本当は私も先生と仲良くしたい。
 でも、自分が先生になってみて気付いたのは、目立てば目立つほど、その子はやはり大人の印象に残るということ。この教訓を得てからは、コミュニケーション量が平等になるよう、控えめな子にはこちらから声を掛けるようにした。しかし社会はそうではない。控えめな千紗に声を掛けてくれる先生は存在しない。
 ある日の英語の授業。
「……『桜を見るために公園に行った』この、『ために』っていう部分ね。そういえば皆は桜好き?」
 六十分間英語の話をし続けるのではなく、少し気を緩ませて再び集中力を高めさせるために、一度話題を逸らすというのは千紗の良く使う手だ。生徒たちは口々に、好きだの、花見なんかどうでもいいだの喋り始めたのだが、千紗は発言していなかった生徒を指名し、
「吉田さんはどう?」
と聞くと、
「好きです。毒があるから」
と答えた。
 クラスの盛り上げ役の男子生徒が、
「え、桜って毒あんの!」
と声を上げると、周囲のメンバーも桜の毒について盛り上がった。これ以上話が膨らむと本筋からずれそうだったため、そこそこに切り上げて不定詞の授業に戻ったのだが、毒があるから好きだと言った吉田に興味を奪われた千紗は、その日の授業をそこそこの出来で終えた。
 吉田は頭が良かった。単に勉強が出来るとか、桜に毒がある、のような知識も持っているとかそういう意味の頭の良さは前から知っていたが、今日は違った。「好きです」の後に「毒があるから」とわざわざ付け足したのは、注目を浴びるための手段だったのだろう、と千紗は思った。控えめな吉田なりの、周囲に対する反旗だったのだ。
 授業後、荷物をまとめるのが遅く、たまたま最後まで教室に残った吉田に声を掛けた。
「吉田さん。桜の花びらって毒あるの?」
「あ、いや、花じゃなくて葉の方です」
「へぇ、良く知ってるね」
「昔テレビで見ました」
「なんで毒なんかあるんだろうね」
「なんか、枯れて葉が落ちた後、他の植物を殺せるように毒入れてるらしくて。それで他の植物が生えてこなくなれば、土の栄養を独り占めできるみたいです」
 千紗は吉田を抱きしめたかった。きっとこの子も私と同じで、けたたましく咲く同級生たちを見て、羨望を噛み殺すように日々をやり過ごしているのだ。本当は私が誰よりも咲きたいと、周囲の注目を全て私に注いでほしいと願う。でもそれが叶わないのも初めから知っている。だから失意の中を、悲しみを外に見せることすらせず毎日歩くしかない。そしてある日、テレビで見た桜の葉に、自分を重ねたのだ。
 そんな吉田に、千紗は自分を感じた。
 数か月後、千紗は塾講師を退職し、セクキャバで働き始めた。養分を吸い他を枯らしてでも私が一番綺麗に咲きたい。吉田のためにも。

 会計は千紗が払った。啓太の身なりからしてそれほど金を持っていないのは分かっていた。それなのに最低でも週一回は店に通ってくれる啓太にすっかりほだされていた千紗は、金を払わせることはしなかった。
 啓太が体目的でも良かった。千紗にそう思わせるだけの雰囲気を啓太は持っていたし、もしかしたら本当に自分のことが好きで通ってくれているのでは、という願望にも近い思いもあった。
 閉店する店を追い出されるように出た二人は、コンビニで缶チューハイを買い、上野公園を、夜に背中を押されるようにしてふらふらと歩いた。
「ほら見て!桜の木の下、雑草生えてないでしょ」
「本当だ」
 千紗は花びらの方を見上げると、やわらかな色鉛筆で描いたような声で、
「でも、やっぱ花が一番だね」
と啓太に言うでもなく、中空にぽっと言葉を浮かばせるように呟いた。
「桜って、夢の世界みたい。綺麗すぎて、こんなところに私がいていいのかってくらい」
 満開を過ぎ、葉をつけ始めた桜。それを見上げる千紗の顔は、紛れもない「まつゆみ」の顔だった。それを見た啓太は、子供の手を引くようにして千紗の手を握る。
「啓太くんの手、あったかいね」
「酒飲むとね。千紗ちゃんのは冷たいね」
「冷え性なの。てか、知ってるでしょ!」
 店で触ってるじゃん、と言いかけたが、チューハイと一緒に飲み込んだ。
 ほんの数秒、風の音だけがそこには居た。
 またひとつ桜が散り、春の色が薄まる。季節は、終わりが近づくほどに速度を上げる。
「私もそろそろあがりかな」
「あがり?」
「夜の仕事辞めること、あがりって言うの」
 啓太には、どうして千紗が夜職を辞めようとしているのか理解できなかった。でも、心の内を明かしてくれているようだということだけは感じていた。千紗が「千紗」の皮を剥ぎ、繊細で、簡単に指を触れてはならない「女」という生き物が出てきそうな気がした。それは昆虫の羽化のように美しくもあり、かさぶたを剥がした時のようにグロテスクで、痛々しくもあった。
「花びらってさ、散った後どこに行ってるのかな」
 千紗が足元の、少し汚れた花びらをひとひら拾い上げて言った。
「そういえばそうだね」
「地面に落ちたやつとか、川に流されたやつとか、いつの間にか消えちゃってるよね」
 千紗は、啓太がこれまで考えたこともなかったようなことを口にする。これまで、体とか愛敬だけを欲していたけれど、目の前で新しい千紗が芽吹いたようだった。
 チューハイはとっくに空になっていた。だらだらと歩く二人。この後どうなるか二人は分かっているのに、何度もキスをしてきた相手なのに、どちらもなかなか踏み出せずにいた。
「どうしよっか、オガセくん」
「どうしようかね、千紗ちゃん」
 互いを偽名で呼び合う二人は、二つの体温をとかしあいながら、作りものの夜に身を委ねる。

 啓太が目を覚ますと、もう千紗はいなかった。啓太は、千紗は先に目を覚まし、予定があって先に出たのだろうと思ったが、実際は違う。
 昨晩、二人は上野のホテルで通例の夜を過ごした。当初の目的を達成した啓太は無論満足していたのだが、想定の何倍もの幸福感に包まれながら、半裸のまま眠りに落ちた。啓太が寝たのを確認すると、千紗は逡巡の後、服を着始めた。やはり啓太の目的はこれだったのかと考えると、先ほどまではベッドの上で狂うほどに愛していた男が、酷く陳腐な生き物に見えてきたのだ。これ以上一緒にいると、春が終わる前に彼を嫌いになってしまう。でもまだ彼を好きなままでいたい。千紗は荷物をまとめると、眠ることなくホテルを後にしたのだった。
 啓太はぬっと体を起こし、垂れそうになった鼻水を枕元のティッシュで拭う。スマホを見ても千紗からのLINEは無い。「昨日はありがとう」と入力したが、送信はしなかった。ふぅ、と大きく息を吐き、再び上半身をベッドに預ける。しばらく昨日のことを思い出してみているが、やはり夢だったのではないか。千紗も、俺も、出会いも、上野の街も、桜の花も、全部。
 天井に焦点が定まらない。まだ酒が残っているのだろう。ザーッという音が外から聞こえる。雨だ。窓がないため外は見られないが、大雨だろうというのは音だけで分かった。傘を持っていない。雨が上がるまで待つか、コンビニまで走るか。酔いの覚めきらない頭では決めきれないでいる。
 千紗は雨に降られなかっただろうか。啓太は、千紗がいたはずの右側の真白なシーツを撫で、桜のようだと思った。

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