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甘いほう

 倉吉が、
「金井さんも水飲みます?」
と声をかけると、金井は
「ううん、大丈夫。ありがとう」
と小さく返した。
 それを聞いた倉吉は、つい10分ほど前、
「金井さん、気持ち良過ぎます」
と言った時には、
「シホって呼んで」
と言われたのに、今度は訂正されなかったな、と思った。

「イチゴ持ってきたの。食べる?」
「食べます」
 金井は倉吉の家に来ることを決して「不倫」という言葉では表現せず、初めてだった前回も、そして今日も「遊びに行っていい?」と言ったのは、多少なりともやましさがあるからだ。それに、前回は菓子、今回はイチゴを持参してきたのも、同じ職場の学生バイトである倉吉との間に手土産を介在させることで、あくまでも同僚との「遊び」だということにして、いささか後ろめたさを隠したいのだった。
 金井はキャミソールとショーツを身に付けただけの状態で、ワンルームの狭いキッチンに立ち、持ってきたイチゴを皿に盛る。
 さっきくくったポニーテールから、何本か乱れた髪がこぼれ、うなじの前で揺れているのを、倉吉は集中するでもなく眺めていた。
「この家、練乳とかある?」
「ないっすね」
「そうだよね。男の一人暮らしでイチゴとか買わないか」
「ですね」
「倉吉君てさ、教育学部って言ってたっけ」
「教育学部の複合文化学科っていうところで」
「その複合文化学って、何勉強するところなの?アタシ、バカだから分かんなくて」

 倉吉は、何故だか昔から、
「アタシ、バカだから」
と言う女が怖かった。


 小学三年生の時、夏休みの宿題で描いた絵が、市のコンクールで入賞した。母方の実家近くの山や田や川を、盆の太陽を浴びながら描いた絵である。絵を描いた当時、倉吉少年は前日の夜に見たホタルの光が忘れられず、昼の田舎の絵にもかかわらず、川の上に三匹、ホタルを飛ばした。
 正月、祖父母に自慢するべく、入賞した絵を持参し披露した。親戚達の賞賛を受けると、照れつつもとても誇らしかった。そんな中、
「なあ、」
と声が聞こえた。盆と正月にしか会わない、滋賀に住んでいる叔母だ。
「なあ、なんで昼やのにホタル光りよるん?おばちゃんアホやから、教えてくれへん?」
 そう問われた倉吉は呆然とした。虚をつかれ、何も言葉を発することか出来なかった。ホタルは、描きたかったから描いただけだ。絵を描くことにそれ以上の理由があるなんて考えたこともなかった。なのに叔母は夜行性のホタルが昼に飛んでいる絵にしたわけを問うてきた。
 倉吉が面食らった理由はそれだけではない。
「アホやから教えてくれへん?」
と言った叔母の目が、まるでこちらを試しているかのようで、恐怖すら覚えたのである。視線に刺されたと感じたのはこの時が初めてだった。


 とりあえずトランクスとTシャツを着た倉吉はベッドに腰掛けると、金井と一緒にイチゴをつまみ始めた。
「『大人とは?』みたいなこともやったりするの?」
「まあ、そんなこともやりますね」
「倉吉君はさ、自分のこと大人だと思う?」
「んー、難しい質問ですね。大人って何なんですかね」
「私は、大人って客観性を持つことかなって最近思うのね」
「ほう」
「子供の頃ってさ、『仮面ライダーになりたい』とか『女優になりたい』って言うわけじゃん?あ、ちなみに倉吉君は何になりたかった?」
「公園ですね」
「公園?」
 金井がふふっと笑う。
「なんで公園?」
「よく覚えてないんすけど、幼稚園でなんか書くじゃないですか、将来の夢みたいな。そこに書いてあるんすよ、きったない俺の字で。多分、公園ってみんな好きじゃないですか。だから公園みたいな人気者になりたかった、とかそんなとこじゃないですかね」
「なにそれ」
 金井はまた笑って、続ける。
「それがさ、いつか周りを見てると、どうやら仮面ライダーにはなれないんだとか、私の顔と周りのとを見比べると女優になるのは難しそうだとか気付くわけじゃん。公園にもね。それで中学生とか高校生になると、親に『その道に進んで将来食えるのか』とか『資格取っといた方がいいんじゃないか』とか言われて、他の人の意見とか周りの目とか気にしながら、大人になっていくんじゃないかなって思うわけ」
「ああ、確かにそうかもしんないっすね。客観性か……」
 倉吉は、イチゴのヘタを取ると、ヘタのついていた方から一口かじり、そのあと残りを口に入れた。とがっている側が甘いということを知ってから、甘い方を後に取っておきたくてこう食べる習慣がついたのだが、金井の食べ方は逆だ。まずとがっている側から一口かじる。それを飲み込むと、ヘタをつまみながら残りを口に入れ、最後にヘタちぎり取る。金井も先端が甘いことは知っているが、その方が綺麗に見えると知っているからだ。
「でもさ、主観性が強いままの大人になった人の方が魅力的だと思う」
「どういうことですか?」
「例えばさ、矢沢」
「矢沢?」
「矢沢永吉。知ってる?」
「知ってますよ。曲はあんま分かんないけど」
「例えば、矢沢が、ファンがこういう曲聞きたいだろうっていうので作曲してないでしょ?きっとだけど。矢沢が自分はこうありたい、っていう自我を爆発させてるからかっこいいんだと思うの」
 倉吉は、分かったような分かっていないような表情を浮かべ、一戦交えた後にしてはちょっと話が長いなと思いながら、
「なるほど」
と適当に相槌を打った。そして次のイチゴを手に取り、ヘタを取る。それを見た金井は、
「あとは、イチゴもそう」
と言って、倉吉の右手にあるヘタの取られたイチゴに顔をさっと近づけ、そのままパクっと食べた。
「あっ」
「おいしっ」
「もう」
 そう言うと、倉吉はまた次のイチゴを手に取る。金井は何回か噛んだイチゴの半分ほどを飲み込み、残り半分がまだ口の中に残っていながら、続きを話しだした。
「アタシバカだから生物学とか詳しいことは分かんないんだけどさ、イチゴって人に可愛いって思われたいとか、気付いてほしいとか考えて赤くなってるわけじゃない気がするの。ただ、赤くなりたいから赤くなってるだけ。だからイチゴっておいしくて綺麗なんじゃないかなって思う」
 金井の言葉に、倉吉はあのホタルの絵のことを思い出していた。
 そして、「アタシ、バカだから」が怖いのは、自虐に見せかけて、そう言っておけば相手にマウントを取らせ、気持ちよく喋ってくれるための仕掛けであり、むしろ賢く、鋭い手法だからだと気が付いた。叔母はその鋭さを隠しきれず、目から漏れてしまっていたのだ。
 しかし、比して金井の「バカだから」には、その狡猾さは無いように思えた。

「金井さんは将来何になりたかったんですか」
「んー忘れちゃった」
「えーなんかずるいな」
「じゃ、イチゴかな」
「何すか、それ」
「もーらいっ」
「あっ」
 金井は倉重の右手にある、まだヘタのついたイチゴの、今度は先端側だけをかじった。
「甘いほう」
 倉吉がそうつぶやくと、
「ごめんって」
と言いながら、金井は倉吉に口の中のイチゴを口移しした。
「甘い?」
 金井はそう言って、倉吉の目を覗き込んだ。

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