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ダム建設で付け替えられた道の名残が好きだ

概要

全国にはたくさんのダムがある。ダムは川の水をその堤体によってせき止め、結果その上流側にはダム湖ができる。

ダムの上流側では、元々の川の流れはダム湖の底に沈む。そして、古来より谷筋に沿って存在していた街道や、道沿いにある街なども沈んでしまうため、高地への移転を余儀なくされる。

一方、ダムのすぐ下流では、川の流れの様子はあまり変わらない。特に湖に沈むこともないので、道や街の移設の必要もない。

ただ、下流から上流へと進むとき、ダム直前まで旧来の谷底の道筋を辿り、堤体付近で突然ダム湖の湖面よりも上に行くというのは、さすがに急勾配すぎて無理であるから、付け替え後の道は、多かれ少なかれダムより少し下流で旧道より分岐し、トンネルや九十九折りなどでゆっくりと高度を上げながら、ダムの堤体上端の脇に出てくる、というのが普通である。

ここに生じる、新道との分岐後、ダムの堤体直前まで続く行き止まりの旧道、もうダムの管理者(や住人)くらいしか通らなくなった、かといって湖に沈んだわけではない旧道に、私はとても魅力を感じる(下図)。

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この記事では、そのような旧道の例を自分なりに2,3簡単に見てみたい。この時点で読んで下さる方はかなり限られてしまいそうだが、気にせず自分の興味に従って書こうと思う。

なお、地図だけを元に推察した部分が多いため、記載している情報には誤りが含まれている可能性があります。

八ッ場ダム

はじめに、ダム工事による道路の付け替えと、それにより取り残された行き止まりの旧道がとても分かりやすいものの例として、色々と有名な、群馬県にある八ッ場ダムを取り上げる。

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右が下流である。中之条から国道145号線(地図では赤く表されている道)を上流方向へと進むと、上の地図の右上のあたりで新道(上)と旧道(下)が分岐する。

新道は順調に高度を上げながら、雁ヶ沢トンネルと茂四郎トンネルという2つの長大トンネルを経て、八ッ場ダム堤体のそばへ出てくる。

一方の旧道は谷筋に沿って進み、少しずつ平地が狭くなる中、「吾妻峡」と書かれているあたりの峡谷沿いを蛇行しながら頑張って進んでいく。地図上でこの道を辿っていくと、突然国道の赤い表示が消え、点線となり、程なくして八ッ場ダムの背面に到達し、行き止まりとなる。

ちなみにこの区間ではJR吾妻線も付け替えられているが、そちらの旧線のうちの沈んでいない部分は残念ながら地図では表現されていない(「盛土部」などの地図記号によってどころどころ間接的にその軌道跡を読み取ることはできる)。

標高を見ると、新道旧道の分岐地点は約467m。ここから新道を進むと、2本のトンネルの入り口で既に約527m。トンネルを抜けてダムの脇へ出てくる地点では標高約596mにもなる。この区間だけで100m以上も高度を上げているのだから驚かされる。一方の旧道は、地図で赤い道から点線へと変わる地点でまだ約508mしかない。この区間だけで新道と旧道の標高差は90m近くまで達しているわけである。

また別の見方をすれば、もしもダムぎりぎりまで旧道を生かすとしたら、短い区間で高度を90mも上げなければならないということになり、それは到底無理な話なので、付け替え道路はダムよりは大分下流から旧道と分岐し、計画的に高度を上げているわけである。

旧道区間は、吾妻線の車窓共々、吾妻峡の美しい景色で以前から知られるところであったと思われるが、現在どこまで関係者以外の立ち入りが許されているのかは私には分からない。水を湛えた八ッ場あがつま湖の様子共々、見に行ってみたいと思っている。

小河内ダム(奥多摩湖)

先ほどの八ッ場ダムは、付け替え道路の開通が2011年、ダムの正式な運用開始が2020年というとても新しいダムだが、次に比較的古いダムとして東京都西多摩郡奥多摩町にある小河内ダム(1936年着工・1957年竣工)の例を見てみる。

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先ほどと縮尺が3倍違うので少し注意されたい。地図上の赤い道は国道411号線である。右が下流で、少し行けばJR青梅線の終点の奥多摩駅がある。

この例では、旧道に当たる道はどれだろうか。白い道として表現されている道が、国道の「桃ヶ沢トンネル」西側すぐのところから南に分岐しており、それはそのままダム堤体下流側すぐのところまで通じているが、分岐地点の標高が約455m、堤体直前の標高が約430mと下っているので、これがダム建設前の道筋とは言いがたい。

それではなく、地図では「軽車道」(実線)として、右端から延々と川沿いを辿るように描かれている道の方が旧道だろう。桃ヶ沢トンネル付近から分岐する道は、ダムや付け替え道路の建設用か、その後に管理用に新設された新道と旧道の「短絡路」だと思われる。

小河内ダムの建設は昭和初期と比較的古いとは言え、おそらくは古くから街道筋として多くの通行人を見守り、明治・大正・昭和の間には車道としても機能したであろうこの道が、一区間とはいえ軽車道として残されており、おそらくはダム建設当時の様子を色濃く残しているであろう点には、とてもそそられるものがある。

多摩湖・狭山湖

最後に、こんな東京のベッドタウンの住宅地の中にもそのような例があったのか、という例を紹介したい。私が頻繁に自転車などで訪れてもいる、多摩湖・狭山湖である。

多摩湖村山貯水池)と狭山湖山口貯水池)は、東京都と埼玉県の県境、東京都東大和市や武蔵村山市、埼玉県所沢市などに広がる狭山丘陵にある2つの谷筋を堰き止めて作られた貯水池で、近くには西武園ゆうえんちや西武ドームがあることでも有名である。都心から20kmほどしか離れていないため、その周囲は現在は住宅地が広がっているが、建設当時(多摩湖は1927年完成、狭山湖は1934年完成)はいわゆる「里山」の風景が広がるのどかな農村であったと思われる。

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多摩湖。

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狭山湖。

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多摩湖(2020年1月1日)。

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狭山湖(2019年12月8日)。

狭山湖の方が分かりやすいので、以下狭山湖について書く。もう一度同じ地図を掲載する。

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分かりやすいのでまず鉄道に着目しよう。地図右上から、西武狭山線という路線が延びている。これは西武池袋線の西所沢駅から分岐し、下山口、西武球場前と2駅で終点になる路線で、西武ドームでの試合開催日などには西武池袋線からの直通の特急が運転されることもある。開業は1929年で、1927年には山口貯水池は着工しているから、この路線はダムの計画を分かって敷設されたことになる。

この鉄道路線に沿って、黄色い線で示された道と、住宅の中を縫うように蛇行する川がある。これはそれぞれ、埼玉県道・東京都道55号所沢武蔵村山立川線(以下r55)と、柳瀬川である。

r55は、所沢市街の西所沢駅付近、金山町交差点を始点とし、地図にあるように、西武狭山線と平行して進んだ後、狭山湖と多摩湖の境界をなす尾根道を通った後は、東京都武蔵村山市を経て、立川市へと南下して終点に至る路線である。

柳瀬川は、まさに狭山湖がこの川をせき止めることで作られているここでの主役であり、狭山湖がある谷筋を水源として、東へと流れ、途中東京都東村山市・清瀬市と埼玉県所沢市の県境などをなしながら、志木市内で新河岸川に合流し、最終的には荒川へと流れ込む川である。

さて、r55を西所沢方面から西へと進むと、片側1車線の、決して広いとは言えないが、昔から一つの街道筋として多くの通行人を通してきたのだろうと思わせるような素敵な道が続く。そして、西武狭山線の下山口駅付近も通過し、しばらく行くと、r55はとある交差点を不自然にも左折させられる。

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上の地図で黄色い線が右から来て、急に下へと折れ曲がっているところがそれである。ここは高橋交差点という名前の交差点だ。

そして、起点から一貫して柳瀬川の左岸側(北側)を進んできたr55は、この高橋交差点を左折してすぐ、柳瀬川を渡っている。この橋の名前がおそらく高橋というのだと思われる(機会があれば現地に確認しに行きたい)。

ここまで読まれた奇特な方ならもうお分かりだと思うが、この高橋交差点が、新道と旧道の分岐点である。これは現在の地図を元にした考察でも以上のようにほぼ確実に言えることであるし、実は私の手元には二万五千分の一地形圖「所澤」の「大正十年測圖」のものと「大正十年測圖昭和十二年修正測圖」のものがあるのだが、その比較によっても確認できる(これらをnote上に掲載することについて不明点があったのでここには示さない)。

旧道は頑なに柳瀬川を渡らず左岸側を進んできたのだが、ダム建設により付け替えられた新道は、分岐点(高橋交差点)を過ぎてすぐに橋を以て柳瀬川を越えてしまうというのがなんとも象徴的である。

もっと言えば、現在の高橋交差点より南へ向かう「新道」は、実は付け替えに際して初めてそこに敷かれた道という訳ではなく、大正十年の地形図にも「道幅一間以上の里道」が描かれてはいる。「新道」を南へ登った先はただの「尾根」であり、また当時は西武球場などの施設はもちろんなかったわけだが、その付近にある寺院の「金乗院(山口観音)」は大変昔からあり、おそらくそこへの参道として機能していたのだろう。そして、昭和十二年の地形図ではこの道が「府縣道」とされており、既にあった道の拡幅という形で付け替えが行われたこと、その付け替えは少なくとも大正十年(1921年)から昭和十二年(1937年)の間で行われたことがわかる。

また、鉄道は既に貯水池の計画を知ってから敷設されたので、「新道」に沿うように高橋交差点の少し南東で左へカーブを描き、終点の西武球場前駅へと進んでいる。ちなみに、標高を見ると、下山口駅付近のr55上が標高約74m、高橋交差点が約82m、その後南へ折れ、西武球場前駅付近は約97mと、やはり新道区間に入ってからは一気に高度を稼いでいる様子がわかる。

さて、この記事のテーマは、ダム建設により生じた行き止まりの旧道であった。それはこの区間である。

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r55を東からやってきて、例の高橋交差点を、左の新道ではなく旧道へと直進すると、それまでと同様の片側1車線の道が続き、また道の曲がり方などの「道のリズム」もそれまでと似ているのに、交通量だけが急に落ち込む。また、正面には山口貯水池ダムの堤体という不自然に大きい壁がどんどん迫ってくる。ここにダムが建設され、多くの民家や農地、寺院などが水に沈んだのは既に90年以上前のこととはいえ、目の前の長閑な街道の風景と正面の巨大な堤体とのギャップ、なんとも言えない物寂しい雰囲気などは、色々と心に来るものがある。

このような、ダム建設によって生じた旧道に特徴的な風景が、埼玉県所沢市という大都市近郊にも見られるというのは、それ自体とても魅力的であるし、街歩き、街乗りの楽しさをより一層高めてくれる。

ここまで狭山湖について少し詳細に述べてきた。多摩湖の場合は、狭山湖の柳瀬川ほど谷筋が分かりやすくはない上、大正十年測圖の地形図には既に立ち退き後の様子が記されていたため、そこまで明確には分からないのだが、Googleマップなどで「宅部通り」と表記されている道が、おそらく旧来の谷筋に沿った道である。

まとめ

ここまで、八ッ場ダムと小河内ダムという2つの典型的なダム、それから、今でこそ郊外住宅地の中に静かに存在しているが、れっきとした巨大なダムである狭山湖・多摩湖について、旧来の道の付け替えの様子を、主に地図を元にして見てきた。付け替え路の敷き方の分類や傾向、道の規格や建設年代など、詳しく調べようとすれば興味は尽きない。

狭山湖の例のように、大都市圏にも、ダムのような大規模な土木建造物の建設の名残がわかりやすい形で残されている例は意外とたくさんあり、通行中や地図を眺めている時にそのような事例の存在や他の事例との類似性に気づく瞬間にはなんとも言えない喜びがある。ここまで読んで下さった方ならば既にそのような発見の喜びをご存じかもしれないが、この記事がそのような発見の一助になればとても嬉しいものである。

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