禅とジャズ
鈴木大拙『禅学入門』
最近ふと思い立って、本棚で眠っていた鈴木大拙著『禅学入門』(講談社学術文庫)を手に取ってみた。
「禅は繰り返しを好まない」というようなフレーズが出てきたと記憶していて、高校三年生の頃に読んでいてとても感銘を受けた覚えがある。その箇所を見つけたので、引用する。
いかなる風にせよ、繰返しや真似は、禅の好まないところである。すなわちそれは殺すからである。同じ理由で禅は断じて説明をしない。ただ肯定するのみだ。人生は事実である。そしていかなる説明も不要である、肯綮に当たらぬ。説明することは証明することだ。そして吾々は活きることに何の弁明があろうか。活きるということ、—ただそれだけで充分ではないか。だから吾々は活きようではないか。肯定しようではないか。そこに純粋の禅があるのだ。赤裸々の禅があるのだ。(鈴木大拙『禅学入門』(講談社学術文庫)p.80「大肯定の禅」より)
この直前には、唐代の禅僧、百丈とその弟子のエピソードが語られている。
百丈が大潙山の寺院の次代の住持を選ぼうとして二人の弟子を呼び寄せた。弟子の一人が普通持って歩く浄瓶を示して、「これを浄瓶と呼ばずば、何であるか言って見よ」と命じた。最初の一人の弟子が答えた。「木片とは言えませんが」と。百丈は満足しなかった。次の弟子が進み出た。彼は浄瓶をそっと倒したまま一言も言わずに部屋を出た。彼は住持に選ばれた。(中略)吾々が何回この行為を繰返しても、それは必ずしも禅を解したものとは言えぬであろう。(同p.80)
いわゆる「禅問答」は、一見すると単なる不条理に思われるものばかりであるが、それは禅の思想の根幹をなすものの一つに、言語(論理)の不完全性(言葉で事実を表しきることはできないということ)を認めることの重要性と、その不完全性の体得の我々人間にとっての困難さの認識があるからだと私は理解している。あくまで言語の不完全性の向こう側へと進んで行くために「AはAに非ず」というような不合理な表現を用いて眼前の現実を体得しようと試みているのであり、それを単に記号的に捉え、「繰返し」たり「真似」たり「説明」したりすることは、禅を殺すことになる。
禅とジャズ
ところで私は、私なりの理解(多分に誤解といえよう)のもと、禅にもジャズにも底知れない魅力を感じてきたが、これらにはかなり似通ったところがあると勝手に感じてきた。多方面から怒られるかもしれないが、先ほど引用した文章の「禅」を「ジャズ」に変えてみる。
いかなる風にせよ、繰返しや真似は、ジャズの好まないところである。すなわちそれは殺すからである。同じ理由でジャズは断じて説明をしない。ただ肯定するのみだ。人生は事実である。そしていかなる説明も不要である、肯綮に当たらぬ。説明することは証明することだ。そして吾々は活きることに何の弁明があろうか。活きるということ、—ただそれだけで充分ではないか。だから吾々は活きようではないか。肯定しようではないか。そこに純粋のジャズがあるのだ。赤裸々のジャズがあるのだ。
結構イケているのではないだろうか。
音楽は時間芸術であり、時間と絡み合って在るほかはない。一方で、言語や論理といったものは、時間が経っても不変であることを前提にしている。この点からみても、音楽には言語(=記号)では捉えきれないものが多分に含まれていると言え、記号的な処理でのみ音楽を捉えることは、音楽を「殺す」ことである。だから私は、歌曲を歌詞の内容でのみ評価するような言説が嫌いだし、理論に基づいた分析でのみ楽曲を把握しきったかのように言う言説も嫌いだ。
そして、いわゆる完全即興音楽は、記号的処理の超越を追究する音楽の一つの極致と言っていいだろう。そこでは全てが「一度きり」であり、ありのままの事実の現前が目指されている。しかし、そのような「悟りの境地」は、煩悩にまみれた人間にはなかなか体得しにくいとも言える。
そのような中、ジャズと呼ばれている一群の音楽は、人間同士の記号的な意思疎通の基盤を担保しつつ、常にそれを解体し、活きた音楽の境地を目指している、稀有なバランス感をもった音楽だと言えるのではないだろうか。ジャズ演奏者たちは、一定の共通文法の上で音による会話を行っているが、そこでは「予想外であること」が常に歓迎され、「予想外」の妙を楽しんでいる。そしてその「予想外」は、まさに「予想外であること」が求められているがゆえに、常に一回きりのものであり、単に記号的に捉えて「繰返し」たり「真似」したり「説明」したりすれば、ジャズを「殺す」ことになる。このように考えてみると、ジャズの演奏は、禅僧たちが禅問答を繰り広げる様子に似ていると思える。
また、ここでは分かりやすく「ジャズ」という単語を用いたが、音楽は時間芸術である限り、多かれ少なかれこのような性質を持つはずであり、どの文脈に属する演奏家でも、優れた演奏家は無意識のうちにこのような営みを行っているのではないかとも思う。
「活きた」音楽を目指す試みが、音楽は記号で尽きていると豪語するエンターテイナーたちと彼らの無垢な追随者たちによって完全にかき消されてしまう日が来ることがないよう、祈っている。
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