気付いていないという驚き

違和感とまではいかない。ぬるま湯というわけでもない。刺激が欲しいわけではない。ただこのまま日々が過ぎていって本当によいのだろうか、と少しだけ思う。どうなりたいのかが沼の中にいるように分からなくなっている。乳児子育て特有の現象だろうか。元々アイデンティティは漠然としていて砂のように無理矢理固めている状態だったので、良くも悪くもその負荷がなくなり、また崩れた。しかも今はただの砂ではなく宇宙空間にでも繋がっているようなまばらで定位置のない存在不明のよく分からない状態。でも現実界では当たり前のように暮らしている。以前のように自分が機械のようだとは思わないが自分のものとも思えない、宙ぶらりんな感覚。問題は何とかしなければと思い始めたことだ。何を問題と捉えているのだろうか。幸せという沈黙の灯火が気になり始めたらしい。自我は強すぎても弱すぎても問題が生じる場合が多い。今の私はムラがありすぎる。自分が好きなことをしたいという気持ちは薄いが、タスクが少しでも増えるとすぐにイラついてしまう。とても健全な状態とは言いにくい。言い方を変えれば息子と二人でいる時間だけが幸せだ。今だけの大切な時間だから。あっという間にキラキラぷにぷにの黄金時間は去ってしまう、夢のように。それの何がいけないのだろう。身勝手なのだろうか。嫌でもこの濃厚な二人時間は終わりが来るのだから自分から壊す必要はないのでは。そうか私は息子と二人のこれでもかという濃い時間を今は楽しみたいのだな。あと数ヶ月、数年で終わってしまう時を。そしたらまた私は自分という砂上の楼閣を積み上げないといけないのだろうか。もう自分はたくさんだ、と言いながら寄りかかれる場所を探し始めるのかもしれない。面倒な生き物だ。眠くなってきた。
再び眠気に襲われる度に段落が増えていくパターンだ。乗り越えなければならないこと、逃げたいこと。干渉されたくない。だけど大切な人を失いたくない。謎の矛盾が生じている。前進しているのか後退しているのかさっぱり分からない。干渉されたくないというのは、やはり子供を守るために安全を求めているからではないだろうか。危険な存在は誰。悪気は一切なくとも結果的に私に無理をさせようとする存在だ。その存在と本来的に気のいい人間が同一人物だったら。嫌な矛盾だ。世間並みの人間関係の問題すら乗り越えられない自分の愚かさの露呈。何度も自分を殺したいと思ったし、そうしたつもりだ。一つ考えが変わったことがある。自分を大切にすること、自分を責めないことが重要であると、声高に叫ばれている世の中だが、自我の感情面に関してその言いなりになることは何の成長も、良好な人間関係も育めないのではないだろうか。一方自我の愛情面や感謝の心を意識してみることは確かに重要かもしれない。言いたくもないのに、後悔しても仕方がないのに感情的な自我が無限に出てくることがある。それは断ち切って殺してしまおう、何度でも。そして黒く荒んだ自我にかき消されそうな慈しみの自我は大切に守らなければならない。だから過去に自分を責めて苦しかったのは、一纏めに自分を責め立てたせいで慈しむ自分が傷ついてしまったからで、荒んだ自分を追い払おうとしていたのは間違いではなかった。だから妙に自分の心が汚れに染まっていないような気がしていたのは、荒みかけた自分を殺し続けてちゃんと守ってきたからだ。完璧な人間はいないというが、それは一面的な人間はいない、皆無理な状態が続けば心は荒むし、日常生活の中で感謝したり、みんなが幸せでありますようにと思う心がある。だから相手の多面な部分のうち、自分の心が荒むような部分は見なくてもいいし、感謝できる部分、今が難しければ過去の愛せる部分を思い出して見ればよい。人間の多面性、当たり前のことなのだが正直気付いていなかった。驚いている。でも気付けてよかった。最後に、反省はしなくてよい。同じ事は二度と起こらないのだから。


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