寝た方がよいのは確か

なぜ書いているのだろう。眠気があるにも関わらず。肩周りから背中全体が凝っている。疲れている。子供は可愛い、こんなことをしていていいんだろうかという逡巡もない。というより考える余裕がない。休み方が分からない。やるべきことをやるというタスクで精一杯。一人の時間を欲しているので眠りたくないのだ。眠いのだけど。働かない頭でごちゃごちゃ考えたり迷ったりしているうちに、ごっそり時が経つ。不安が、寄せては返す波のように、ずっとは続かないが何度も訪れる。ちゃんと休めていない。このままではよくないと思う、行動に移せていないのは、本心では、休めずに苦しい自分に安楽している部分があるのだろうか。なぜ自分を追い込みたくなるのだろうか。比較がそこにはある。比較するせいで、というより、比較した結果・事実に対して、自分が下になることが許せない、そんなはずはないという無駄に高い自尊心が傷付けられるからではないか。自己肯定感が低いというのは言い方を変えれば、自分は能力が高いはずだというプライドが高く、事実がそれに反すると自分を許せず、存在意義が脅かされて不安や恐怖を感じやすく、精神的に不安定ということかもしれない。一言で言えば傲慢。自分は凄いと思っている。ちっぽけな自尊心がないと生きていけない弱い人間。それが等身大の自分だ。自尊心があろうとなかろうと事実は変わらないのに。自分を大きく見せようと必死に頑張ったり、このくらいなら簡単に出来ると横柄に見積もるから疲れるのだ。労力がかかっても等身大の自分に合わせて動けば、変に疲れはしないはずだ。謙虚さを忘れ傲慢になり、肥大した自尊心を何とかしなければならない。自己肯定感が低い、という捉え方はオブラートに包んでいるだけで解決には至らない。優しいようで冷たい。そして謙虚というのは、弱い自分を認めて受け入れるということに他ならない。結局、許すとか受け入れるとかいうのは一体何なのか。肥大した自尊心を等身大に修正することだ。それができる勇気を持ちなさいということだ。人間を大きくしなさいということだ。強くなりなさいということだ。

人間性を高められたらどんなにいいだろう。もう限界に近いのではないだろうか。でも砂漠で叫んだって誰にも届かない。私は独りだ。一人になりたい癖に、独りにはなりたくない。酷く面倒臭い。雑踏の中に一人でいたいという感じだろうか。海の見える喫茶店の一席で様々な人が今生きている声を聞いていたい。死んでいるかのように生きたい。心が死んでいるという意味ではなく、この世に存在していないかのように生きられたら楽になるような気がする。私が何を発しても聞こえないし、誰かが私を気遣って何かを与えてくることもない。馬鹿なんじゃないかと思われるかもしれない。そんなのがいいわけがない。逆なのだ、酷く面倒臭い。本当は私の声が届いて欲しいし、気付いて欲しい。郵便受けに期待した手紙が入ってなかった時の落胆を繰り返し過ぎて、もう疲れたのだ。郵便受けのない場所に行きたくなってしまったのだ。

またごっそりと時が過ぎた。いよいよ追い詰められて限界を過ぎ、感覚に蓋をし始めてしばらく経つ。そのおかげで何とか日常生活は送れているが、どうしたいとか何が好きとかそういう部類の心の声は聞こえなくなった。休めないことに苛々して夫に当たりたくなる。生きることも死ぬこともどちらでもよくなっている。ただ子供の側にいて笑顔を見るのが幸せである。人類救済の役に立たない私は愚かな人間だろうか。夫の仕事次第で生活が変わるというのに、次の方向性を一生懸命模索している夫の話を、そんなこと聞かれても分からないと思ってしまう。自分にも腹が立つと同時に休んだ方がいいとは思う。この文章を書くくらいなら。本当は夫が仕事休みの時は子供の面倒を見て貰って、私は喫茶店やマッサージにでも出かけて数時間ゆっくりして休みたい。でも当たり前のように、夫が休みの時はしっかりと休ませてあげなければならず、子供が泣いて騒がないように気を遣いながら家事をし、挙げ句の果てに夫のマッサージをさせられる、しんどい。もう今更だが。どうでもいい。また腱鞘炎が痛みだした。私は文句が言いたいだけなのだろうか。水面下で激しく責めている自分を。罪の意識。原罪。イエスキリストのように、手首を釘で打たれ磔にされたとしたら。何者かの犠牲の上に成立する我々。正義を謳うことの純真。純真が孕む悪。私たちは何かを踏み潰しながら生きている。しかしながらそれは悪ではない、自然だ。

再び時が変わる。日常がついに作業に変わりつつあった近頃。夫の縁で不思議な人物と会い、現実の見方が変わった。幸せの定義について。未だ分かっていないというのも妙だが、外因によって左右されるものではないこと。自分の考え方一つで幸せになることはできる、そのツールとして分かりやすいものが感謝や丁寧な所作。○○の状態になれば幸せ、何か嬉しくなることが起こって欲しい、と条件次第にしている間は快楽は味わえるが、幸せとは言えない。幸せの主導権が自分にないからだ。もちろん快楽は否定しない。

また月日が過ぎた。なかなか投稿できない。終われない。限界。何のかは分からない。体は動くから精神的なものか。根性がないのだろう。諦めたくない。神様助けてください。もう何も誰も信じられない。勝手にそう思い始めた。馬鹿なのだ。無理をして周りが全部敵に見える。また私に難題を突き付ける敵だと、私を殺すつもりだろうと、意味がわからないが。どの状態になれば自分の癇癪が治るのか分からない。とにかく憤怒している。私をこんな目に遭わせるなんて許せないとかなんとか、やっぱり訳がわからない。だって悪意のある人物は私の周りには誰一人いない。まるで幻聴のようだ。誰かが自分を狙っている、脅迫してくる、と誰もいないのに訴える人がいるみたいに。もしかすると脳が逃げ場を作っているのかもしれない、神経反射的に。リープ現象。基本的に真面目で融通が利かない、敏感で気の優しいような性格である場合、自分を無意識に責めている場合が多い。理想通りにできなかったことに対して自分を罰し弱音を吐きたい本心の自分を抑圧して表に出ないようにする。するとなぜか罰する自分が他者に投影され、他者も同じように攻撃してくるような感じがする。おそらく本心が出て来るまで、罰する側は相手を探すようにそれを続ける。もしかすると理性と本能は相殺して初めて解消されるものなのかもしれない。だから幻聴も本心と相殺したくて彷徨っている。本心というのが、魂と一致するもの。精神病とはつまり、魂が邪霊に憑かれることなどによって行方不明になり、理性が片割れを探し求めるように次第に攻撃的になり非人間的な言動を起こしてしまう病なのではないか。だから現実が不具合を起こし始めた時は自分の魂が憑かれていないかを確かめること。簡単に言えば自分の心の声に耳を傾けること。確かにそれが全然できていない。始めは休みたい、と思っていたけれど、どっちかというと自分がどうしたいのか知りたいという方が正しいかもしれない。戻りたい自分が本当にいますか。やりたいことを早く済ませたいと願う余り執着に変わってしまった。育児料理掃除何一つ立派に出来ない自分が悲しくて。済ませたい作業が終わった所でその悲しみは埋まらない。どうなりたいんだっけ。子供が笑ってくれたらそれでいいと思っているけれど、やっぱり夫が負担になっている。夫は子供の面倒がほとんど見られない自営業の仕事で、料理掃除の他に仕事の手伝いをしなければならないのがかなり負担である。仕事第一で大変なのは分かるけれど、全く休めない私の現状への配慮はない上に、もっと手伝って欲しい、この位やって欲しいという圧を感じてイライラが募っている。義母が近所に住んでいて有難いのだが、子供を預けるには前もって頼まないと困るという感じで、決まった時間に予定を入れるのが私はとても苦手なので余程の用事がなければ預けにくい。もう疲れた。頼むなら手伝ってよと思う。軽々しく負担を増やすような発言に殺意すら覚える。言い過ぎだが。怒りが募っている。我慢している。どうしたらいいんだろう。私は分かって欲しいんだと思う。大変な中本当によく頑張ってるねと。本当にその言葉欲しさに怒りを抑えられないのだろうか。多分自分で自分が許せていないだけではないだろうか。あなたは本当に出来損ないですね。酷過ぎて言葉も出ない。呆れた。そんな風に思っている。今こそ自分を本当の意味で大切にするチャンスなのではないだろうか。本当にあなたは頑張っているよ。他人が何と言おうと、常識的には気が利かない仕事が出来ない時間も守れない使えない人間かもしれないが、私は私だけはあなたの頑張りを見ているよ。少しだけ余裕が出来て掃除をするようになったね、子供と遊ぶ時間をちゃんと取ってるね。料理だって栄養を考えながら作っているね。夫を含め他人から見たら何もできない駄目な人間だろうけど自分だけは丸を付けてあげてもいいのではないか。子供を愛するように、自分も可愛いはずだ。愛する者がいれば他人から何を言われようと強くいられる。子供だけではなく自分も愛していることを自覚しよう。子供は自分から産まれてきてとても愛しい、そのずっと前から自分は自分のことを見ていて表面的には腹が立つことも沢山あったけれどそれでも一番長く側で付き合ってきた。怠けることもあるけれど一生懸命生きようとしてきた。最初は動けなかった、喋れなかった、少しずつ出来るようになっていった。人より上手く出来ることがそんなに大事だろうか。自分で評価できることの方が立派ではないか。それがきっと自分を大切にするということだ。人間は商品ではない。口コミが全てではもちろんない。今日一日何をしたかを最も知っている自分の評価より他人の評価を優先する道理があるだろうか。参考にすることはあっても。その評価をいかに気持ち良く出来るかが解決の鍵だ。自分を責めるのは他人の評価を優先しているということである。自分は自分。自分のペースでいい。頑張っているのだから。不器用でも何でも。感謝すべきことに私は今専業主婦をやっていて数字で評価されることはない、大部分自分評価でやっていける状況にある。どうだろう、イライラも収まるのではないだろうか。健闘を祈る。


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