自らシャットアウトするASD(⊃境界性パーソナリティー障害)の方への尻拭いやめました

自分はどうしてもASD(アスペルガー症候群・自閉症スペクトラム)の人の愛着(庇護欲求)対象になりやすいためか
「自分は●●してほしいと思っている」と伝えると(あなたは私のことをすべてわかっているはずなのに!という大前提で)連絡先を全て遮断して行動化に出る方が出てきているので
自分の考えを表明しておこうと思う。

大月悠祐子『ど根性ガエルの娘 7巻』より
6・7巻の夫婦編は事例紹介としてもとても素晴らしいのでオススメ

序論:すべては「意見交換のやり取りができないから困る」に帰結する


基本的に相手から異論を表明化されると行動化に移られるASDの方に対応していて
私が困るのは以下の点である。

①基本的に人の意見を聞かない→コミュニケーションが取れない
②異なる意見を向けられた時に「責められている」と断定する→コミュニケーションが取れない
③気に入らないことがあると「死ぬぞ」「出ていくぞ」と自分を人質にして止めさせようとする→コミュニケーションが取れない
④連絡手段をシャットアウトする→コミュニケーションが取れない
⑤自分が何をしたいのかすらも相手に伝えようとしない→コミュニケーションが取れない

ギャグみたいに書いているが、実際にこの「意見交換のやり取りができない」というのは疲労徒労が凄まじく
(わざわざ自分の自由意志で出ていった相手に「戻ってきてもいいんでちゅよ~」「ASDくんは何ひとつ悪くないんでちゅよ~」と
 幼稚園児にするような尻拭いの呼び掛けまでしてあげなければならない)

経緯の説明ができれば終わることの多い場合でも
一時的にでもこちらの言い分を取り下げなければならない、という手間が加わるのも労力の負担が大きいのだ。
(そして自分の人生を費やして苦労したところで御本人の行動学習パターンとして気に入らないことがあると大抵再発する結果になる)

おそらく動作IQの方が高いのであろうが
「言葉での確認」ではなく「非言語的な状況からの読み取り」がコミュニケーションの全てだと思いこまれており
さらに、ASDの方特有の「自分が世界の中心として、その自分に向けられた意図がある行為」だという認知で受け取っているためだと思われる。

ASの人の場合は、自分の行動はAS自身が分かっている(と思い込んでいる)相手の意図と別々のことだとは認識されない。

例えば発言の意味も、発言した相手の方は想像も出来ないような「深読み」をしたり、
態度や表情にある意味を勝手に見出したりした結果が本人には「事実」と認識される。

正確には相手の意図が100パーセント読めると思い込んで居るので、本人は「分かっている」と断定する。
本人から見ると、「間違いない」ということになるので、別の意図があることを想像も出来ない。

本人からは「事実」に見えているのだ。それ以外の可能性を想像すら出来ない。
だから相手が「そういう意図は無かった」といくら主張しても、相手の言っている意味を理解することが非常に難しい。

『責任の観念』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=189

こう受け取ること自体は脳の生まれつきの機能であるため仕方ないなあ…とは思っているのだが
※詳しくは前回の統合失調症の記事をご覧ください
問題はその一方的な想像を基に勝手に断定して、確認すらせずに行動化に移られることである。

よくASが「被害妄想的」と言われるのは、「本来は知りえない他者の意図まで少ない情報からはっきり断定して考える」というところからだろう。
実際表面に現れた行動からは、「本心」や「意図」は高々「推測」出来るに過ぎず、断定は本来不可能だ。

これらの断定から逃れるためには、「(特に対人関係においては)手持ちの情報は非常に少なく、断定は危険である」と考えて、
「暫定的な結論」を立てながら追加される情報に応じて結論自体を変化、発展させていくしかない。
ASの人にはストレスだろうが、人と共存して行くための最低限の条件ともいえる大事なことだ。

現実的にはこのプロセスは「相談」という形を取る。
そのたびそのたびに相手の意図を実際に言葉の形で確認して、その情報を追加し続け、言葉で得られた以上に普遍化することもしない。
「必要があれば相手に聞く」ということになる。

「相談」できるようになることはASのコーチングの最終的な目標である。

『ASと想像力③ 相手の意図と相談』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=447

で、私もそれをやられて少なくとも楽しいとは思わないし
長期的に関係が続いたところで心身ともにボロ雑巾になるだけなので
私の頭の中で想定できるケースを書き出して、その上で私自身の見解を綴っておこうと思う。


【ケースA】「お前に責められているように感じるから関わらない」である場合

→人が誰と関わって生きていくかは個人の自由意思なので尊重したいと思う。

 ただしこれは「お前の意見を俺は一切聞き入れない」という決意に他ならないため
 私自身も個人の自由意志の選択として「自分から尻拭いして関わる選択はしない」という形になる。
(私はchat botでも無条件に従う役目の奴隷でもないので、意見交換すら拒絶する相手に合わせる負担を費やす義理はない)

ASの人は(あくまで表面的な行動から推定するだけであるが)
「そもそも自分に理解できない、想像も出来ないことが存在すること自体を感じていない」という風に見える。

自分に見えること、自分の意味付けだけで世界は完結しており、その意味では自分に理解できないことは存在しない。
しかしその態度の直接の帰結は「価値観や世界の受け止め方が根本的に違う相手を想像してみよう、歩み寄ってみよう」という努力をしない。出来ないということになる。

私は「対話」は、「自分のもともとの考え方を一部壊して変化させる」、「相手を理解しようと努力することで自分の理解の範囲を広げる」ことだと考える。
自分の考え方が変わらないということは、自分は不安にはならないだろうが、相手には一歩も近付いていないことを意味する。

『「理解不可能なことがあること」を理解できるか』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=523


【ケースB】「相手が頼み込んで『戻ってきて』とお願いしに来るだろう」である場合

大月悠祐子『ど根性ガエルの娘 6巻』より

→私と関わることで人間的な発達成長がないどころか
 ASDとして他者との誤った距離の取り方の学習となってしまうため
(関係が続くのかどうかは別として・少なくとも自分からは)尻拭いしない方がよいと判断する。

当たり前に100パーセントの理解や100パーセントの受け入れを要求した場合、関係が長持ちすることは不可能である。
ASの人が求める「相手からの無条件の必要」も現実的には「幻想」である。当たり前であるが、相手の誠意を試し続け、痛めつけ続ければ遅かれ早かれ相手は去って行く結果になる。
「どんなに痛めつけても見捨てない根拠になる必要」などあり得ない。

『AS本人が理解するべき根本問題』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=589


【ケースC】「自分を人質にすれば自分の望みを無条件に受け容れるだろう」である場合

→そもそも「他者には他者自身の(自分とは異なる)意志や人格がある」という想定がないのであれば
 そもそも私に限らず他者と関わる必要自体がないだろう。

ASの人を甘やかした時、本人は理解不可能なことがあることを学ばないで成長する。
また同じことが多数派からは全く違って見えていることも分からないまま、自分の解釈が唯一絶対的に正しいと信じて生きることになる。

その結果を私は「井戸の中の正義」であると考えている。

妥協しない生き方も立派な生き方であるので尊重したいが、その場合は誰にも迷惑をかけないように井戸の中で生きていただきたい。
狭い井戸の中だけでは本人が正しいかもしれない。しかしそれは井戸の外に非常に広い世界が広がっていることを知らない正しさでしかない。
それでもいいと言うのであれば、狭い井戸から一歩も出ないで世間に関わらずに生きるべきだと私は思う。

甘やかされた積極奇異型ASの人は、「狭い井戸の中の正義を井戸の外にいる人にまで強引に押し付けようとする」という結果になる。
自分の認知では狭い井戸の中しか見えていないことを知らないからこういうことになる。

『井戸の中の正義』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=182

 またケースBと同じく、これも私と関わることでASDとして他者との誤った距離の取り方の学習となってしまうため
 尻拭いはしない方がよいと考える。 

ASの人は反論がしにくいような態度を身近な人に取り続けている。
想定外のことに言外に不満を表明し、積極的に想定外のことを受け入れる態度に欠け、過去の相手の発言を根拠に「首尾一貫しない」と相手を責める。

例えば非常に極端な話、ASの人は相手がロボットで全く同じ想定内の対応を取り続けたほうがいいのだろうか? 
相手が生きた人間である意味があるのだろうか?

『ASと想像力⑦ 出会いと発見・創造の可能性』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=62


【ケースD】「自分の意見を相手に伝えられないから」である場合

→良いか悪いかは置いておいて、これも御本人にとって「(自分とは異なる意志や人格がある)他者」が必要無い状況であり
 自分の世界だけで完結していて問題ないのであればわざわざ「異物」である私が関わりに行く必要もないだろう。

 ただもしかすると自分を変えたいという方がこの文章を読む可能性も有り、
 (引用の範囲は越えてしまうかもしれないが)誰かの役に立つかもしれないので情報のリンクを貼っておこう。

ASは愛着の対象の相手は、無条件に「自分のことをすべてわかるはず」と前提してしまう傾向があるため、
「基本的に誰であれ、自分でない人は、言葉で説明しなければ分からない」という単純な真実を繰り返し思い浮かべて確認することも重要だ。

だから、「(自分も相手も)分かるはず」とは決して考えず、
全て言葉で説明してお互いに理解する努力を続けると自分に言い聞かせ続けることが必要である。

『自己コーチングガイド各論② ASの自己理解(対人関係の特徴)』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=39

ASもADHDのACも、断定が早すぎる。
断定するまえに、「相手がどんな意味で言っているか?」について正確に確認する作業が必要で、これは相互理解に前向きな態度といえる。

『何を「はっきり言う」か』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=458

ASの人について少し理解してきて良く感じるのは、「実際に言いたいことは感情で、自分の気持ちであるのに、理屈で表現するから分かりにくい」ということだ。
「現実の実際の人間関係のトラブルは感情のぶつけ合いの部分で起こっている」「ASの人は感情的なことを理屈でしか表現しないので理解されにくい」ということだ。

例えば、「自分が疲れていて辛いことを理解して欲しい」という場合に、そのままそう言えばいいのに、(普通分かるだろうと何も言わないのは論外として)「今日は何時までどうこう」と仕事の話をしてみたり、
また「あなたと離れたくない」というだけのことを、「離れるのはこれこれこういう理由で正しくない」と言ったりすると、相手(特にADHDには)に誤解されると私は思う。

ASの人は、「感情はそのまま感情的な表現で伝える」ことを意識すると誤解が減ると思う。特にADHDは文字通りにしか受け取らないので、理屈で言えば理屈のことが言いたいのだとしか理解しない。

もしも「話が通じてない」と感じたら、自分の言いたいことは何か? と立ち止まって考える。
もしもそれが感情であれば、「感情的にそのまま表現してみる」ということを工夫する。面と向かってやりにくければ手紙でも良い。

『ASの努力④感情と理屈』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=464

相互理解への道は実は「自分自身が当たり前と思って言葉にして来なかった基本的なことをあらためて言葉にすること」から始まる。それぞれ個人的にも「当たり前と思っていることを言葉にして説明する」作業を実際のコミュニケーションの中で試みてみよう。

伝えるのが困難なのは当たり前だ。まずは「相手に世界がどう見えているか」を想像し、説明する作業が「理解のための努力」だ。 

『理解のための努力』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=451


結論:好きに生きればいい。私も好きに生きる

「他者の考えを受け容れない」というのもひとつの立派な生き方であり、自由だ。
その選択と尊厳は誰からも強制される謂れはない。

ただし一方で、(私を含めた)他者にも
「そういう生き方をする人間と付き合うかどうかを選択する自由と尊厳がある」ということだ。

また、個人的な意見ではあるが
ASDの人は自分から「お願い」をしてでも関わりたいと思える相手とだけ関わればよいのではないかと考えている。

私がEnabler(依存症者の尻拭いをして依存を手助け・悪化させる周囲の人間)として関わり続けるよりも
(関係を自ら切った責任は自分で負っていただき)こちらからフォローしたりしない方が長期的には御本人や今後関わられる方にとって(要は社会にとって)プラスになるだろう。

なので今後は依頼された場合でも御自分の自由意志で出ていった人に対する尻拭いの呼び掛けなどは一切行いません。

私という他者ではなく
・「御本人が」どうしたいかというのを
・「御本人自身の責任で」選択し
・「自ら」行動してもらってください。

大月悠祐子『ど根性ガエルの娘 7巻』より

※人間ひとりがいなくなったくらいで世界が終わってしまうほどヒトは弱くないので
「自分の思い通りにならないから離れる」というのも選択肢としてアリだと思います
(きっといい出会いはいくらでもあるよ!)


受動型に限らずASの一部の人に見られる
「直接その場で相手に言葉で要求や希望を伝えられない」
「後で相手の居ないところで別の人に本音を話す」
「愛着の相手は分かって居るのが当たり前なので言葉で伝えない」ということが加わると、

結局「言葉ではっきり言わないでその他の非言語的な態度で相手をコントロールしようとしている」と言う見掛けとなり、
これも表面上境界例に似ている。実際自傷や過量服薬などの表現方法をとる人も多い。

『境界例と受動型AS』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=192


動作性IQが高いケースは発達障害でありながら「器用」で、スポーツも出来ることが多く、
本人に聞くと「考える前に分かる」と言ったりする。直感的に「分かって」居るから考える必要も無いわけだ。

こういう受動型ASの場合では、世間的には表面上非常に穏やかで、周囲にうまく合わせるから適応も良く、企業の幹部まで出世するケースもある。
愛着のある家族やパートナーに対しての極端な支配的で依存的な態度を見なかったら全く「表面上は普通の人」という印象になる。

ジャイアンADHDの場合でさえ、直感的に状況を読み、自分のほうからも非言語的な「操作」によって実際に対人関係をコントロールすることが出来るようになるケースもある。これが「依存型ジャイアンADHD」である。

頭を使わず非言語的な「操作」だけで対人関係をコントロールしていく結果、「コロコロ変わる」という見掛けになる。
その場その場で相手に合わせるので、通常表面上は不適応とならないが、近い家族やパートナーから見ると異常に主体性の無いスタイルとして正体がバレる。

非常に表面上は似ていながら、受動型ASは「そもそも自分が無いから」、
依存型ジャイアンADHDは「合理的な思考を止めているから」という異なった理由でいずれも「境界性人格障害」様の行動パターンを身につける結果になる。

『動作性IQが高いケース』意味不明な人々
http://dryanbaru.xyz/?p=249


ASでも「感知」しない一群は見られるが、実はよくよく見れば、愛着の対象に関してだけ感知できたりすることも多い。
愛着の対称でない相手への無関心の結果感知もしないように見えることを能力的な問題と考えるべきではない部分がある。

ASの場合は、感知は出来ても、「察知」は99パーセント「AS流」なので、
表面上は「普通に」振舞えても、実は多数派的な尺度で言えば「過剰反応」になっていると私は考える。

AS流の「察知」に基づき、AS流の「反応」をし、
またASの人はAS流が普通であると確信していることが多いので、結果的に「KYに見える」ことになる。
「多数派に合わせる必要性を認識しないで合わせない」ことを「空気が読めない」と表現されていることも実際多いだろう。

「オタク的マイペース群」のASの人は、人以外の分野(例えば音楽等の芸術や技能、フィギュアや昆虫、恐竜、車など)に興味が偏り、
ごく少数の愛着の対象以外には人間にほとんど関心を示さないので、結果的にKYに見えるが、
「感知」も出来ないのとは違う可能性を想定するべきである。

「過剰反応群」は、表面上はAC(アダルトチルドレン)に酷似する周囲の人の非言語的な表情、動作や言い方などへの過剰な反応が特徴的である。
これは「ASのAC」なのではなくて、実はASのままでAC的なのだろうと私は考える。
「空気を読みすぎる」という結果となり、表面上は「境界性人格障害」と呼ばれる一群に酷似する。
私は「受動型AS」と呼んでいる。

発達障害がKYである3つの要素(感知と察知と反応)
http://dryanbaru.xyz/?p=329

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